【第四楽章】 バランス
――5、4、3、2、1
指の間でシャーペンをクルクル回しながら、田崎くんが小声でカウントを始める。
ゼロ、と同時に授業終了のチャイムが鳴った。
田崎くん、会心の笑み。
「じゃあ明日は六番から当てるからな。予習しとけよ。今日はこれで終わり」
数学の滝井がぶっきらぼうな低い声で黒板から振り返る。
でも怒っているわけじゃなくて、これが奴の素なのだ。
教室の張り詰めていた空気がほ、と息をついた時のように緩んだ。
日直の号令で挨拶をして、一日で最も長く感じる四限目が終わった。
お昼だ。
「咲〜、あとでノート見して」
机の中からパンの袋を取り出しながら、あくび交じりに田崎くんが言った。
あんぱんにジャムサンドにメロンパン。
……甘党だ。
「え? なんで? だって起きてたじゃない。ノートとってないの?」
あたしは思わず頭を乗り出す。
すると田崎くんは机の上に開いてあったノートを見せてきた。
風船みたいな頭でっかちのキャラクターが書いてある。
……たぶん、ドラえもんだろう。
「途中でちょっと考え事しちゃってさ〜。今更だけど、なんで3×3は9なんだろうとか思って疑問を解こうとしてたら、答え消されちゃって。滝井ってどんどん先に行くじゃん」
いやいや、付いて来なさいよアナタ。
呆れた……。
絵の下手さ加減にもだけど、ちょっとズレてるそのテンポに。
でも呆れ半分、それも田崎くんらしくてあたしは笑ってしまう。
「ヘンな人だよね、田崎くんて。キーパーの瞬発力はどこいっちゃったのよ。大丈夫? 今週中にあたしたち問題当たるよ」
あたしがノートを投げてやると、田崎くんは両手で挟んでキャッチしてそのままあたしを拝むように頭を下げた。
滝井は出席番号順に問題を当てる。
答えられないと、答えるまで黒板の前に立たせる。
教室の沈黙を背負って答えを探すのは、かなりのプレッシャーだ。
「あたしたちは15番だから、たぶん明々後日だね。それまでに返してね」
「サンキュー、咲ちゃん!今日も美人っ」
調子いいんだから。
でかい図体のわりに、田崎くんは犬みたいに人懐こいところがある。
憎めないキャラなんだよなあ。
「ねーねー、鈴木とメシ食うの?」
教科書をしまい立ち上がったあたしを、田崎くんがあんぱんを頬張りながら見上げてくる。
鈴木、は美香の苗字だ。
「ううん、今日美香休みなんだよね。三限の終わりにメールが来た」
理由は「あと一回遅刻したら罰そうじだから、だったら休む」だ。
――あたしの友達って、遅刻魔ばっかりだな。
「どこで食べるの?」
「いつもの裏校舎の音楽準備室。ピアノ弾けるし」
「ふーん。なら聴きに行ってもいい?」
え?
意外な言葉にあたしは少しびっくりした。
あたしが合唱部でピアノを担当しているのを田崎くんは知ってる。
でも今まで一度も「聴きたい」なんて言われたことはなかった。
「昼練あるんでしょ?」
「んー、でも筋トレだから遅れてってもいいし。聴いてみたいなーと思って」
あたしは迷った。
そう言ってくれるのは正直うれしい――でも。
「ごめん、今日……弟が一緒なんだ」
「弟? ああ、特進クラスに入学したんだっけ」
「そう。校内案内しろとか言っててさ。でもよかったら来る? どうせお昼食べてからにしようかと思ってたから」
そう提案しかけた言った時だった。
「透子」
その声にはっとして顔を上げた。
教室の後ろのドアのところに聡太が立っていた。
ぎゃーっ! なんでいるのよ!
お弁当組の女の子たちが見えない糸で引っ張られたかのように、いっせいに聡太の方を振り向いた。
背が高い上に女の子が好きそうな整った顔立ちの聡太は、そこに立っているだけで人目をひく。そうでなくても、赤ネクタイの二年のクラスに一年生の青ネクタイは目立つのに。
「あれ弟? カッコイイね〜。似てないけど」
田崎くんも後ろを振り返って、そしてあたしをまじまじと眺めた。
そりゃそうです。
血が繋がってませんから。て、前に話したんじゃなかったかな。
早く、と聡太の目が促す。
女の子たちの視線が突き刺さって痛いみたいだ。
あたしは急いで机の横に下げて置いたお弁当のバッグを取った。
「ご、ごめんね。また後で!」
田崎くんに早口で告げ、そして出口にダッシュ。
また何か言おうと口を開きかけた聡太を、張り手で廊下に押し出した。
* * *
「もう! 渡り廊下で待ち合わせって言ったでしょ。なんで来ちゃうかなあ」
裏校舎への渡り廊下へ差し掛かってから、あたしは勢いよく後ろの聡太を振り返った。
少し遅れて、聡太は仏頂面で角を曲がって来た。
「あんな勢いよく突き飛ばすことないだろ。ただ迎えに行っただけなのに」
「そんなこと頼んでないでしょ。二階の、この渡り廊下で待ち合わせって朝言ったじゃない!」
「……間違えて三階まで上がっちゃったんだよ。だったら呼びに行った方が早いと思って。教室どこだろうと思って歩いてたら、廊下から姿が見えたから」
口を曲げながら、聡太は横を向いた。
渡り廊下は中庭のちょうど真上を横切っている。
窓からは、満開の桜の下へ校舎から生徒たちがぞろぞろと出てくるのが見えた。
「余計なことしなくていいの! あんたは目立つんだからっ! 噂になったらサイアク」
くるりと前を向いて、あたしは人気のない渡り廊下を歩き始めた。
学校ってほんと、光の速さで噂が広まるんだから。
ただでさえ、あたしたちには「血の繋がらない姉弟」なんていうオプションがある。
それが知られた時には「禁断の愛」だのなんだのとからかわれるに違いない。
中学の時の二の舞はごめんだ。
「……気にしなきゃいいじゃん、なったって」
だるそうな上履きの音が後を追ってくる。
そういえば同じことを昔も言ってた。
からかわれてむきになって同級生を追い掛け回していたのはあたしだけで、何を言われても聡太はいつも涼しい顔をしていた。
「たいして誰も気にしないよ。透子は自意識過剰だ」
――無視、無視。
足早に廊下を渡り終えて階段を上がり、あたしは一直線に一番奥に向かって突き進んだ。
そして一番奥の教室の、立て付けの悪い引き戸を開いた。少し埃っぽいいつもの準備室の臭いがあたしを迎えた。
日当たりのいい準備室は陽射しが惜しみなく降り注いでぽかぽかしている。
窓のすぐ外に枝を張る満開の桜が、いっそう部屋の明るさを引き立てているみたいだった。
窓辺で待っている古ぼけたピアノの元へ、あたしは歩み寄る。
「へえ、結構広いんだ」
ご機嫌斜めな扉をなんとか閉めて、聡太が入ってきた。ぐるりと部屋の中を見回している。
今は本校舎の方にあるけど、昔はここが音楽室として使われていたらしく、準備室といえども大きさは一般の教室よりも少し大きい。
でも使わなくなったオルガンや壊れた楽器類が半分占拠しているから、使えるスペースは教室より狭い。
それでもあたしには十分なんだけど。
「ここはあたしの一番お気に入りの場所なんだから、入れるのは今日だけだからね。いい?」
物珍しそうに見物している聡太にあたしは一応念を押す。
「えらそー。自分の所有物みたいに」
「先に見つけたもん勝ちよ。ほら、さっさとお昼食べないと校内回る時間なくなるよ」
聡太の嫌味を受け流して、あたしはピアノの椅子に座ると、膝の上でママが作ってくれたお弁当の包みを解き始める。
聞こえよがしに溜め息をついて、聡太はピアノの隣の机を引き寄せてどっかりと座り、手に提げていたコンビニの袋からサンドイッチとパックのコーヒー牛乳を取り出した。
「ママにお弁当作ってもらえばよかったのに」
サンドイッチの袋を破る音を聞きながら、あたしはお弁当箱の蓋を開けた。
――ああ、やっぱり昨日の酢豚が入ってる。
「だって、こっちの方がうまいし」
ハムとレタスのたっぷり入ったサンドイッチに聡太はかぶりつく。
今朝電車に乗る前に、駅前のコンビニで聡太はお昼を買った。
お弁当をぶら下げて、あたしはそれを待っていた。……少し、うらやましく思いながら。
「寂しそうだったよ、いらないって言われて。ママ、聡太にお弁当作ってあげるのが夢だったみたいだよ」
あたしは酢豚の横にある少し焦げた卵焼きを箸に刺した。
「だって前の晩の残り物ばっかりじゃん。ただでさえ、メニューのバリエーションが少ないんだから、続けて同じものはせめて食べたくない」
お菓子みたいに甘い卵焼きを噛み潰しながら、淡々と言ってのける聡太をあたしは睨んだ。
「ひどいヤツ。ワガママ」
「本当のことだからしょうがないだろ。――食べてやろっか、それ」
涼しげな目付きであたしを見、聡太は長いきれいな指でお弁当箱の中身を差した。
あたしはぐっと詰まる。
「い、いいわよ、食べられるもの」
「ほんとかよ」
「ほんとだよ! 余計な気、使わなくていいよ」
「そう言うなら、無理なんかするなよ」
その一言に、あたしは面食らった。
表情がなくなっていくのがわかる。
「嫌なものは嫌って言っていいんだよ。それはワガママなんかじゃない。そうやって自分を誤魔化したって何の得にもならないよ」
呼吸が引きつりそうになった。
だめよ、こんなことで動揺しちゃ――込み上げそうになったものをあたしはぐっと堪える。
「無理なんてしてないよ、あたし。本当に食べられるようになってきたのよ、酢豚」
「そのわりには毎回、渋い顔して食べてるけど。なんでそこまで我慢するの?」
酢豚の肉に挿したまま箸を握る指に、自然と力がこもる。
なによ。
なんで急にそんな話をし出すのよ。
尋問するような聡太の態度に、あたしは無性に腹がたってきた。
「ママがせっかく頑張って作ってくれたのに、嫌いだなんて言えないよ。きっと傷つくわ。あんたは思いやりがなさすぎなのよ、ママにいつも反発したりして」
ママが苦手な家事をどんなに頑張ってきたかあたしは知ってる。
聡太も同じはずだ。
それがわかっていて文句が言える聡太が、あたしにはわからない。
「透子のは思いやりじゃない」
喧嘩口調になったあたしに、聡太も語調を強めた。
「それは遠慮、って言うんだよ。なんで遠慮してるんだよ、家族なのに」
「――家族だって、遠慮とか我慢は必要な時もあるわよ」
「そうかもしれないけど、透子のは不自然だ。ぶつかったって、喧嘩したっていいじゃんか。それが普通だろ。損得勘定なんていらないんだよ。無理して笑ってる透子なんて見てたくない」
追いかけるようにお互いの声が大きく、尖っていく。
鼓動が早くなってる。
息苦しい。
だめだ、このままじゃ。やめなきゃ。
取り返しがつかなくなる――
「……いいんだよ、これで。今までそうやってうまくやってきたじゃない。あたし本当に無理なんてしてないから」
お弁当箱の蓋を閉め、包んであったハンカチごとあたしはバッグに戻した。
せっかくおなかがすいたところだったのに、どっかに消えてしまった。
「だからもう、そういう話はやめよう」
聡太の視線をしっかりととらえてあたしはそう幕を下ろす。
聡太は何か言おうと口を開きかけたけど、結局呼吸とともに飲み込んで目線を床に落した。
「早く食べちゃいなよ。時間、ほんとになくなるよ」
昼休みは五十分。
時計を見れば、もう十二分も消費してしまっていた。
お弁当箱の入った袋を床に置いて椅子に座り直し、あたしはピアノの蓋を開いた。
ピアノを弾けば気分が紛れる。
斜めに傾いてくる気持ちを和らげてくれるのは、いつも音楽だった。
楽譜がなくても弾けるレパートリーの中から、あたしは一曲選ぶ。
メンデルスゾーンの春の歌。
「……うまくなったよね、透子」
何小節か弾いた頃、聡太が横からぽつりと言った。
自然と口元が綻む。
「そりゃそうよ。五歳からやってるんだもん」
ピアノを始めたのは小学校に上がる前、――本当のお母さんが病気で死んで半年くらいたった頃だったと思う。
あたしはお父さんにせがんで、中古のピアノを買ってもらった。
本当に、習いたかったわけじゃなかったんだけど。
「ピアノ教室、続ければよかったのに」
聡太が言う。パックにストローを挿した音がした。
「だって、もうある程度弾けるようになったし。もう自己流でいいかなって思ったの」
中学を卒業すると同時にあたしはピアノ教室をやめた。
でもあたしとしては、よくあんなに長く続いたものだと思う。
だって――
本当は、お母さんのいない寂しさを
紛らわすためだったんだから――
「あたしはこれ以上上達しなくても、こうして弾いてるだけでいいの」
でもそのおかげであたしは音楽が好きになった。
自分に誇れるものを見つけられた。
それはとっても幸運なことだと思う。
「久しぶりな気がする。こうやって、透子のピアノ聴くの」
机から降りて、聡太はピアノにもたれて立つ。
背の高い聡太に見下ろされると、急に周りが狭くなったように感じた。
「ここんとこ……半年くらいは家ではあんまり弾いてないかも。受験勉強に影響しないようにって、あんたがいる時は控えてたし。でもここの方が集中出来るからいいんだ」
別に嫌味で言ったわけじゃなかった。
でも責められているように感じたのか、聡太が小さく「ごめん」と言った。
ピアノを弾く手を止めて、あたしは聡太を見上げた。
「謝らなくていいわよ。ピアノがあれば、あたしはどこだっていいんだから」
まるで喧嘩して気まずくなった後のように、聡太は合わせた顔を別の方向へ逸らした。
遠い目、ちょっと落ち込んだような顔だ。
何よ、あたしがいじめたみたいじゃない。
聡太がこういう顔をすると、身に覚えがなくとも悪いことをしたような気になってきてしまう。
人に自慢出来る容姿の弟は時々、標準を地道に生きる姉をあっという間に小心者に変身させるのだ。
でもあたしはその時気付いたんだ。
聡太の言った「ごめん」が、ピアノのことに対してだけじゃないことを。
「……あたしは別に気にしてないけど。あんたが県立やめて、うちの高校を受験したこと。気にしてるのはママだよ」
高いお金をかけて、家から車で一時間かかる有名進学塾に聡太は通っていた。
ママが熱心に送り迎えして。
あたしも塾には行っていたけど、聡太の月謝はあたしの二倍だった。
聡太は昔から頭がいい。
中学ではいつも成績は一番だったし、全国模試では百番以内に入ってた。
あたしたち家族はみんな、毎年東大合格者を出してる県立の進学校へ行くものだと思っていた。
でも聡太は最終進路決定の時、突然進路を変えて市立の特進科へ推薦希望を出した。
「ママ、ほんと聡太のことになると親バカだよね。でもさ、確かにうちの学校レベルが高いとは言えないし、進学率だってたいしたことないみたいだし、いいの?ってあたしも最初は心配になったけど」
――自分の学校のことなんだから、褒めたいんだけど。
もちろん、のんびり過ごせるこの校風は魅力だとあたしは思う。けどママにはそんなこと二の次だ。
あたしとお父さんは、聡太が決めたなら仕方ないと思った。
でもママには大打撃だったんだ。
……そりゃそうだよね。
せっかくの塾通いが水の泡になっちゃったんだもの。
「見栄だよ、見栄」
聡太が溜め息を吐く。
「世間体を気にしすぎるんだよ。未婚でオレを生んで、夜の仕事してきただろ。他人に対して劣等感を感じてるんだよ。だから、オレで挽回したいんだと思う」
確かにそうかもしれない。
聡太のことになるとママは、自分のことのように一生懸命だから。
「でも期待された方にしたら、うんざりすることだってある。オレだってさ、自分の進路くらい……自分で決めたい。そうするのが普通だろ?」
推薦が決まった後も、聡太とママは何度もぶつかった。
最終的にはママも折れたけど、顔色を無くして呆然としていた姿は忘れない。
普段の華やかなママからは想像出来ない表情だった。
あの絶望に染まった目には、あたしの存在なんて片隅にも映っていなかっただろう。
――時々思い出すと、ちょっと複雑な気分になったりもする。
「うんざりだなんて、ママの前で言っちゃだめだよ」
あたしの忠告に、きれいなおうとつで形作られた人形みたいな顔がしかめっ面になった。
聡太の口元がへの字に曲がる。
「……透子はいつも、母さんばっかりだ」
ピアノにもたれていた体を離すと、聡太はあたしの真横に立つ。
長い指がすっと白い鍵盤に伸びた。
ポーーン。
「ねえ、覚えてる?」
古びてくぐもった音の余韻を割るように、聡太が言った。
「昔、ピアノ教室の発表会で連弾したよね。カノン」
聡太の指がたどたどしく、音を探し始める。
「……覚えてるよ。小学校の時だよね」
『いい? あたしの後から弾くんだよ』
聡太の辿ろうとしている思い出の音色が、昔の記憶を呼び起こす。
あたしたちが姉弟になった時、あたしは七歳、聡太は六歳。
聡太はいつもあたしの後をついてきた。
あたしの真似をしたがった。
ピアノも縄跳びも――
「透子と一緒に弾けるのが、オレはうれしかった。教えてもらうのが好きだった」
『つられちゃダメだよ。ソータがあたしを追いかけてこないときれいな曲にならないんだから』
『だって、むずかしいよ、おねえちゃん』
『大丈夫、ゆっくりやろう。さん、はい』
あたしはずっと兄弟が欲しかったから、聡太があたしを頼るのがうれしかった。
得意だった。
――でも『おねえちゃん』でいるには、いつも聡太より先にいることが大事だったんだ。
「……あっという間に覚えたよね、あんたは。あたしがてこずったバイエルも先に終わって。カンがいいって先生も言ってた」
聡太の右手の指が、カノンのメロディを掴んでいく。
何度も何度も二人で練習した、あの曲を。
青いバイエルもツェルニーも、あたしより早く聡太は終わった。
きらきらした目であたしを見上げていた子は、いつの間にかあたしより大きくなって、先に歩くようになって、
みんなから一目置かれるようになっていった。
聡太はいつから、あたしを『おねえちゃん』て呼ばなくなったんだろう……。
「ねえ」
あたしのよりも長くて骨ばった、聡太の指がふいに止まり鍵盤から離れた。
「――オレが進路を変えたの、なんでだと思う?」
ためすような口調。
鍵盤に落していた目を持ち上げれば、聡太もあたしを見ていた。
やだ。
そんな目で見ないで。
メトロノームの音が、わずかにずれた。
「詰襟が……やだったんでしょ? ネクタイだって窮屈じゃない」
笑って終わりにしようと思ったのに、聡太の目は笑わない。
空気が張り詰める。
外は春の風景であふれているのに、弾き出されたみたいだ。
何か言ってよ、聡太。
何か言わなきゃ、あたし。
クレヨンで画用紙を塗りつぶすみたいに、気持ちがぐしゃぐしゃになってくる。
たまらずあたしは、ピアノの蓋に手をかけわざと音をたてて引き下ろした。
「――おしまい! こんなことしてると、ほんとに時間なくなっちゃうよ」
かろうじて明るく言えた。
聡太がわずかに眉をひそめた。あたしは見ないふりをした。
その時、教室の壊れかけたスピーカーから、途切れ途切れのチャイムの音が鳴り響いた。