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春空カノン  作者: 兎乃井メライ
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【第三楽章】 姉弟

 玄関のドアを開けた途端、夕飯のにおいがふわりと奥から漂ってきた。



 そのにおいで、あたしはやっぱりな、と自分の感覚を誉めたくなった。

 家に着く前から今日の夕飯の予想はついていた。


「ただいま」


 家に上がると階段横のキッチンのドアを開けて、いつものようにあたしは中へ呼びかける。コンロの上で香ばしい音をたてている中華なべがまず目についた。


「あ、おかえり」


 白地に大きなピンクの百合柄のエプロンをつけたママが鍋の前で振り返った。

 シンクの横には開いたパイナップルの缶詰。


 ほら、やっぱり今夜は酢豚だ。


 我が家のメニューは二週間のローテーションで回っている。

 今日は酢豚の日、ちなみに明日は野菜炒めだと思う。

 でも時々入れ替わりが起きるから、断定は出来ない。

「もうすぐごはんだから、着替えておいてよ」

 長い巻き髪を後ろで一本に結わえ、専業主婦なのにばっちりメイクしたママは、一瞬あたしに微笑んで料理に戻った。

 もとホステスのママは、いつもおしゃれに余念がない。

 家から一歩も出ないときでもお化粧は忘れない。

 キッチンを開けるといつも、あたしはどこかのスナックかクラブにでも行ったような気分になる。

 はーい、と返事をしてドアを閉めると、あたしは二階への階段を上がった。

 そして奥の自分の部屋へ入ろうとした時、足音に気付いたらしい聡太が手前の部屋から顔を出した。


「おかえり」


 黒のカットソーにジャージ姿で聡太は廊下に出てきた。

 あとちょっとで頭がドア枠にこすりそう。

 十五歳で身長一七七センチなんて、ほんとによく育ったもんだ。

 ママはあたしと同じくらいだから、聡太の本当のお父さんはきっと大きな人だったんだろう。

「ただいま。ちゃんと頑張ってたじゃん、代表挨拶。美香があんたのこと、かっこいいって言ってたよ。ほら、あたしがよく話ししてる子。――緊張した?」

「うーん……フツー。用意された紙、読むだけだったし」

 けだるそうな声で答えて、聡太はあくびをした。

 愛想悪。

 髪ぼさぼさだし、昼寝してたんだな。今日は新入生は半日で終わりだったから。

 普段からそんなに愛想はよくないけど、寝起きの聡太は余計無愛想だ。低い声でぼそぼそとしゃべる。

 ママ似のきれいな顔立ちしてるのに、その活用法をわかってない。

 ブスとも言われないけど美人とも言われないあたしから見たら、贅沢な奴!って思う。

「遅かったね、部活だったの?」

 クラスはどうだった、と聞こうとしたのに先に聡太が質問してきた。

「うん、そう。コンクールの練習がそろそろ始まるんだ」

 あたしはママが誕生日に買ってくれた腕時計を見た。

 六時四十五分。今日はミーティングもあったから、いつもより少し遅くなった。

 それでも六時前には出たんだけど、ちょうどいい電車がなかったんだ。

 学校から家の最寄駅まではたった二駅だけど、ローカル線は夕方でも本数が少ない。

「透子はピアノなんだよな。歌わないの?」

「……うん、あたしは伴奏専門だから」

「それ、何の曲?」

「え?」

 あたしの抱えているファイルを聡太が指差した。

「それ、楽譜でしょ?」

 聡太の、きれいな二重を描く瞳があたしをじっと見つめてくる。

 視線をさまよわせて、あたしは自分の腕の中を見下ろした。

「……『遠い日の歌』。知ってるでしょ」


「ああ」と、ちょっと間を置いて聡太が言った。

「カノンだ。なつかしいね」

 あたしはぎゅっと楽譜を抱きしめた。

「――うん」



 二年前の合唱コンクール。


 あたしは中三で、聡太は二年。


 あたしたちのクラスは同じ自由曲だった。二人とも、伴奏者だった。



「ねえ、部活の勧誘はもうされた?」

 沈黙になってしまいそうだったので、あたしは話題を変えた。

「……ううん、今日はなかった」

「入るとこ決めてるの?」

「まだ、考えてないけど……」

 めんどくさい、と言いたそうな渋い顔で焦げ茶の髪を掻き回して、聡太は壁に長身を預けた。

 うちの高校は部活動が盛んで、一年生はたいていどこかの部に所属する。

「聡太、運動神経いいじゃない。ムダに背だけ高いんだから、バスケでもやったら?」

「ムダ、とか言うなよ。……チビ透子」

「チビじゃない! フツーだよ、一五五センチはあるもん」

「オレから見たらチビだよ、チビ」

「ちょっとー、それがお姉さまに向かって言う言葉?」

 わざと怒ったふりをして睨んでやると、聡太はちょっと口をへの字に曲げた。

 気に入らないことがあると聡太はすぐこうやって口を曲げるクセがある。

 でもこういう顔もなんだか絵になってて、携帯で撮ってやりたくなるんだよね。

 中学の時はよく、後輩から聡太の隠し撮りを頼まれたものだった。

「あんまり興味ないんだよなあ、部活」


 そのくせ本人は女の子に騒がれるのなんてどうでもいいみたいだった。

 聡太に好きな子がいるなんていう話は一度も聞いたことがない。


「ダメだよ、新しい環境なんだから積極的にいかなきゃ。友達も出来るし楽しいよ。せっかく受験が終わって塾から解放されたんだし……あ、サッカー部は!? うちのクラスの田崎くんもいるよ」

「いいよ」

 興味のなさそうな様子で聡太はあたしの言葉を遮った。

「それより、オレは」


「ごはんよーっ! 二人とも、早く降りてきなさいよ!」


 一階からママの声が聞こえた。

「やば、早く着替えなきゃ! 先行きな、聡太。今日はごちそうかもよ」

「ないない。わかってるだろ?」

 聡太がくん、と鼻を鳴らす。

 あたしたちは同時にちょっと苦笑した。

「とにかく早く降りたほうがいいよ。いつも遅いって叱られてるんだから」

 聡太を促して、あたしは自分の部屋のドアを開けた。


「あ、透子」


 中に入ろうとした時、呼ばれてあたしは振り向いた。

「なに?」

「明日、昼飯一緒に食っていい?」

「なんで? クラスの子と食べなよ、友達作んなきゃ」

「言ったじゃん、受かったら特別に学校案内してやるって」

「あー……」

 そう言えばそんなこと言ったかも。

 まったく、よく覚えてるやつ。

「――いいよ、わかった。でも明日だけだからね! ブラコンとか言われたら最悪だし」

 そう言ってあたしはドアを閉めた。



 ――閉めたドアに寄りかかって、鞄を床に落とす。


 溜め息が漏れた。




『それより、オレは』






 さっきの言葉、何を言おうとしたんだろう。


 腕の中のファイルをあたしは見つめた。

 今日も少し練習した『遠い日の歌』のメロディが、頭の中を流れ始める。

 勘はすぐに戻ってきた。

 指が、覚えていた。


 だって――カノンは、あたしの一番好きな曲なんだから。




 あの日、聡太のクラスはあたしたちより先に発表だった。

 聡太は完璧に弾いた。

 だからあたしは、滅多にあがらないのに、すごく緊張したんだ――だけど。




 頭の中が真っ白になった。


 思い出そうとしても出来なかった。


 いつも自然に聞こえてくるはずのメトロノームの音は、まったく響いてこなかった。




 あの日から、あたしはカノンを弾かなくなった。


 そして聡太は、ピアノをやめた。







* * *


 夕飯はやっぱり酢豚だった。

 だけど今日はそれに、ポテトサラダと生野菜サラダのおまけがついてる。

 きっと今日が聡太の入学式だったから……なんだろうな。

「ケーキも買ってあるからね。あんたの好きなチーズケーキ。夕飯の後でみんなで食べましょ」

 ママがみそ汁とごはんをよそってくれて、三人で夕食はスタートする。

 大手電気メーカーのエンジニアであるお父さんは、帰りはいつも九時すぎだ。だから一人で食べる。

 その時はいつもママは、隣でワインで晩酌をしながら話し相手をしている。

「ね、味どう?」

 食べ始めるやいなや、ママが期待を込めた眼差しで聡太に訊く。

 マスカラをばっちりつけた大きな目は、まるで女子高生みたい。三十七歳とは思えない。

「今日のはちょっと甘い」

 酢豚をごはんの上に載せ一緒に口に放り込みながら、聡太が言う。

 本人曰く、酢豚はママの一番の自信作だ。

「えーっ、そお? 味見したわよ、ちゃんと。透子は?」


 きたきた。

 つつき箸をしてためらっていたあたしは、酢豚の具を箸で掴まえて急いで口に入れた。


――しまった、パイナップルも取っちゃった。



「あたしはいつも通り、おいしいと思うけど」

 じゅわっとパイナップルと果肉に凝縮されていたシロップの味が口の中に染み出した。

 同時に酸っぱいような甘いようなソースの味も混ざりこむ。

 その微妙な調和をあたしはぐっと飲み込んだ。



 ……やっぱり、まずい。




「オレ、たまにはシチューとか食いたい」

 聡太があたしを素早く一瞥した。

「ええ? だってあんた、牛乳の味がするからやだって言ってたじゃないの」

 ママが呆れた声を出す。

「……そうだけど。たまには食いたくなる時もあるの」

 少し肩をすくめて、聡太はサラダを食べ始めた。


 ……シチューはあたしの好きなもの。

 だけどママは作らない。

 ママの作るものは、ほとんど聡太が好きなものだ。


「透子、肉ちょうだい」

 突然聡太があたしの酢豚の皿に箸を伸ばしてきた。

 そしてあたしの苦手な脂身の多い肉をひょいひょいと拾っていく。ついでにパイナップルも。

「ちょっと、お行儀悪いからやめなさいって言ってるでしょ。おかわりならあるわよ」

「いい。父さんの分なくなっちゃうから」

 

――時々聡太はこうやって、さりげなくあたしを助けてくれる。

 食事だけじゃなく、他の場面でも。

 ママもお父さんもきっと気付いていない。

 でも、聡太にはわかってるんだ。

 あたしが時々、この家で、疎外感を感じていることを――


「あーぁ、なんかワイン飲みたくなっちゃった。今日も洋次さん遅いのかしら」

 テーブルに頬杖をついて、ママは上目遣いに壁の時計を見て溜め息をついた。

 規則正しい秒針の音が、急に耳にまとわりついてくる。


「ごちそうさま」

 自分の分の食器を集めて聡太が立ち上がった。


 肉とパインが抜けて殺風景になった酢豚の皿に、あたしは再び箸を伸ばした。




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