【第二楽章】 ピアノ
メゾピアノからクレッシェンドへ。なめらかに、流れるように。
鍵盤の上を滑る指が、音色を奏でていく。
何も考えなくても、ほら、自然に。
あたしはメロディに包まれて、一体になっていく。
合唱部の練習のない昼休みに、裏校舎の三階の角にある音楽準備室でピアノを弾くのが、あたしは好きだった。
この校舎には美術室などの特別教室の他は物置部屋しかないから、誰にも邪魔されることはない。
中盤は盛り上げて、強弱の差でメリハリをつけて惹き付ける。
準備室といっても教室一つ分くらいの大きさはあり、音はよく響く。
聴衆が周りにいるような気分で、あたしは自分の演奏に酔い痴れることが出来る。
ここのピアノは色もはげかけて古くて、時々気の抜けた音が出たり鳴らない鍵盤があったりするけど、弾き始めてノってくればそんなのはどうでもよくなる。
――ああ、気分いいな。
陽射しがあったかい。
すぐ横の窓からは中庭が見える。校庭と同じで、中庭も桜が満開で春爛漫。
開けた窓の外、手を伸ばせば届く距離にある眩しい花を一瞥して、あたしは目を閉じた。
「お、いたいた咲ちゃん」
気分が音に乗って飛び立とうとしていたその時、突然準備室のドアが開いた。
あたしの手は思わず止まる。
入って来たのは、合唱部の女子部部長で三年生の結理先輩だった。
「あ、邪魔しちゃったね」
赤縁メガネが印象的な、すらりと背の高い結理先輩は「ごめん、ごめん」と謝りながらドアを閉めた。
「あれ、今日……昼練はないですよね?」
間違ったかな、とあたしは首を傾げた。
「うん、そうなんだけど、渡す物があって。咲ちゃんいつもここで練習してるって言ってたから」
天使の輪の浮かぶストレートロングを両耳にかけて、結理先輩は脇に抱えていた薄いファイルをあたしに差し出した。
きれいな髪だなあ、柔らかそう。先輩を見るたびにあたしはいつも思う。
「ほい、これ次の課題曲」
ファイルを受け取って開くと、中に合唱曲の伴奏用の楽譜が入っていた。
『遠い日の歌』の楽譜だった。
「咲ちゃん伴奏者だし、先に練習したいかなと思って。簡単だからすぐ弾けちゃうと
は思うけど」
ピアノの隣に置いてある机の表面をささっと手で払うと、結理先輩はその上に座っ
た。
「カノン、をモチーフにしてる曲ですよね。パッヘルベルの。……中学の時に合唱コ
ンクールの自由曲で使いました」
その時もあたしは伴奏だった。でも、一番思い出したくない思い出。
「あ、ほんと? じゃあもう弾けたりする? 練習、明後日くらいから始めようかな
と思うんだけど」
先輩の顔色が明るくなる。慌ててあたしは付け加えた。
「あーでも、ちょっと練習しないと……苦手なんです、これ。昔、本番で失敗し
ちゃって」
「えー、咲ちゃんでも失敗するんだ? いつもすらすら〜っと弾いちゃうのに。さす
がピアノ歴十年! て皆感心してるよ」
「失敗くらいしますって。でもあの日は本当に大失敗で。それからちょっとトラウマなんです」
中学三年の合唱コンクール。うちのクラスは優勝候補で、皆やる気満々だった。あ
たしも意気揚揚とピアノの前に座った。
「なになに〜、らしくないよー! 君なら出来る!大人になった! ていうか、うち咲ちゃんしかまともに伴奏出来る子いないんだからね。いつものおまかせ咲ちゃんで
頼むぜ!」
思い出して沈みかけたあたしの背中を、結理先輩がばん、と叩いた。
――痛いっす。
見た目は知的なお嬢様系なのに、結理先輩って結構男勝りなんだよね。
お兄さんが三人いるせいでこうなったって、本人は言っている。
「でも、もう一人伴奏欲しいよね。そうすれば咲ちゃんも楽になるだろうし。家だと練習できないんでしょ?」
「――夜は、お母さんがいい顔しないんで」
「よし、新入生から一人ピックアップしよう! あ、そういえば咲ちゃんの弟もピアノやってたんじゃなかったっけ? 誰か言ってたぞ」
赤縁めがねの奥で、結理先輩の目がきらりと光る。
あたしはどきっとした。
――きっと裕子が話したんだ。あの子はあたしと聡太と同じ中学だった。
「見たよ、新入生代表挨拶。優秀だね。うちみたいな市立じゃなくて、もっと上の進学校狙えたんじゃない? あ、もしかして咲ちゃんと一緒にいたかったとか! シス
コンだな?」
にや、と結理先輩がいたずらっぽく笑う。先輩はうわさ好き。
「やめてくださいよー! キモいから」
広められたらまずいから、あたしは大げさに首も両手も横に振って否定した。
「県立は詰襟が嫌だ、って前に言ってたんで、そのせいじゃないかな」
「ええ? なんじゃその理由」
「変でしょう。あいつ、でかく育ったわりに小さいことにこだわるんですよ。ピアノも「離れた和音を掴める成功率が低すぎる」って急にやめちゃったんです」
「なにそれー、変!」
結理先輩がけらけら笑う。
でしょう、とあたしも合わせながら、早くこの話はやめたいと思った。
なんだか気が滅入る。
小さい頃、透き通ったメロンソーダにアイスが溶けて白く濁ってしまった時に感じた気持ちみたいに。どんなに欲しくても、あたしはそれが嫌でクリームソーダは頼まなくなった。
「だから、聡太はだめだと思います。運動部にでも……入るんじゃないかな」
嘘だ。憶測にすぎない。
もう一人のあたしが口を出す。
胸の中にあるおはじきが、ピンと弾かれる。
命中したもう一つの声はふっと掻き消えた。
あたしは両手を鍵盤の上に置き、右足をペダルに載せた。
「残念、だめか。姉弟連弾なんて面白そうだと思ったのに」
結理先輩がちぇ、と指を鳴らした。
連弾で伴奏? 聞いたことないよ。
あたしはもう一度、さっきの曲を弾き始めた。
『あたしの後に続いて弾くんだよ。かえるの歌みたいに』
ふいに昔のことが脳裏を過ぎった。
あたしは息を吸って吐き出すと同時に、かたいペダルをぐっと踏んだ。
「この曲聴いたことある。なんていうんだっけ」
曲に合わせて、結理先輩が身体を左右に揺らし始める。
リズムをとるその様子を横目で見ながら、あたしは答えた。
「――ランゲの『花の歌』。好きなんです、この曲」
「春っぽいね。やわらかい咲ちゃんの弾き方に合ってる」
メトロノームみたいに、先輩が揺れる。
その速度に合わせて、あたしはテンポを緩めた。
ラララ、と口ずさむ声が、やがてメロディと調和していく。
穏やかな時の訪れに、あたしは目を閉じた。
開いた窓から忍び込んできた風が、ふわりとあたしたちを包んだ。