【第一楽章】 入学式
『――誓いの言葉。新入生代表、咲宮聡太』
「はい」と返事をして、体育館の壇上に真新しい黒のブレザー姿の少年が上がっていく。
ぴしっと伸びた背中、鼻筋の通った横顔。
歩調はゆっくりと、落ち着いて。
中央まで来ると、少年は居並ぶ全校生徒に向かって丁寧に頭を下げた。
「うわ、背ぇ高っ。しかもイケメン! ほんとにアレ、弟?」
前に座る生徒たちの間から首をひょこひょこ覗かせながら、隣りに座る美香が小さく声を弾ませた。
紅白幕の前に立っている学年主任の目がきらりと光ったのをあたしは見た気がした。
二年生であるあたしたちの席は、三年生の後で一番後ろ。
左手にある体育館の入り口付近に、警備員みたいに立ち並ぶ先生たちからは目立つのだ。
しーっと口に指を当てて、そわそわし出した美香をあたしは落ち着かせた。
『桜の花も枝をにぎわせ、吹く風の暖かさを感じられるこの良き日に』
式辞を読み上げる聡太の声が心地よく体育館に響く。
声変わりは済んだけど、聡太の声はあまり変わらなかった。低すぎず高すぎず、時々笑うと掠れるのがあたしは好きだった。
――とうとう、聡太も高校生か。
壇上の聡太の背中を、あたしは遠くから眺めた。
たった一つの年の差は、簡単に埋まってしまう。
卒業で引き離しても、またこうして次の春が来れば。
「ねえ、ちゃんと紹介してよぉ? でもほんっとに透子の弟?」
顔を寄せて、美香が訊いてくる。
ふわりと甘い香りが鼻を掠めた。また香水を変えたらしい。
−−悪かったわね。
どうせあたしは十人並みの顔だわよ。
髪も真っ黒ボブだし、色白でも細身でもないし、いたって標準のお手本よ。
「親が再婚して出来た弟だもん、似てるわけないでしょ」
「あぁ、そっか。ていうか、入試満点だったってスゴくない? ほんとに紹介してよね」
美香は頭のいい男が好き。
前に付き合ってた他校の何人かもそうだった。でも本人の学力にはいっこうに影響なし。
わかったよ、とあたしは早口で言って美香を押し戻した。
学年主任、滝井の目がこっちに注がれているのがわかる。
何しろ、同じクラスでもないのに美香はあたしの隣りに堂々と座っているのだ。
ただでさえ、美香は服装検査で毎回滝井に目をつけられてるのに。違反常習者をツケているという“滝井リスト”に一緒に載せられたくない。
タコみたいに口をすぼめて、美香はマイクロミニばりの短いスカートからのぞく小麦色の足を組んだ。
隣りのクラスの男子生徒の視線が、ちらりと動いた。
『――新入生代表、咲宮聡太』
完璧に役目を終えて、聡太は壇上を下りていく。
足音が、静寂に包まれた体育館にかすかに響く。
――そうしてまた、距離は縮まるんだ。
大丈夫――まだ、メトロノームは同じリズムのまま。
そっと深呼吸して、あたしは体育館の天井を見上げた。
陽射しが降り注ぐ天窓の向うには、目が眩みそうなほどの青空が広がっていた。
* * *
入学式が終わった後、あたしたちは教室に戻った。
去年同じクラスで仲良くなった美香とは、今年は離れてしまった。
でも隣りのクラスなので、あたしはB組の前で美香を見送ってC組のドアを開けた。
中に入ったと同時に見つけたものに、あたしは唖然としてしまった。
窓際から四列目の真ん中、あたしの隣りの机に突っ伏してぐーすかと田崎くんが寝ていたのだ。
入学式の間に来たんだろう。
今朝はサッカー部は朝練はしてなかったようだったから、寝坊したんだな、きっと。
――いいご身分で。
クラスの皆ががやがや入って来たけど、田崎くんは起き上がる気配がない。
ようし、起こしてやろう。
自分の席の方から回りこみあたしは田崎くんの耳元に口を近付けた。
そしてふっと息を吹きかけてやると。
「……ぬあっ!!?」
階段を踏み外した夢を見た時みたいにがたがたーっと机ごと身体を跳ね上げて、田崎くんが顔を上げた。
「び……っくりした。咲宮かあ〜」
地味なイタズラに、いいリアクションありがとう。
あたしの顔を見てほっとしたような表情をしたその頬には、下敷きになっていたパンの空袋の跡がしっかり残っている。
短髪の頭を掻いて両手を上に伸ばし、田崎くんは大きなあくびをした。
「終わったんだ〜、入学式。どーだった?」
「何事もなく。なんか懐かしかったよ、去年はあんな風に緊張してたのかな〜って。でも滝井の目が怖かった。田崎くんいないからって、美香がどっかり隣に座るし。いいわねー、優雅に一人でご朝食?」
「昨夜サッカー見てたら寝るの遅くなってさ〜。ま、昨日の始業式は遅れなかったから、仕方ないよな」
……何が仕方ない?
メロンパンと書かれた袋をくしゃくしゃと丸めて机の中に押し込むと、田崎くんはもう一度大あくびをした。
田崎くんとあたしと美香は去年同じクラスだった。
席が近かったから自然と仲良くなって、よく三人でいるようになった。
「卒業式の時もそんな理由で寝坊したよね。それでよくサッカー部の朝練には出られるね」
「起きられないのわかってるんだけどさ〜、見ちゃうんだよね。でも練習は起きられるんだ、キャプテン怖いから」
180という長身に似合わないのんびりとした口調で田崎くんが笑う。
長い両手足は、伸ばすと前後ろの席を超えてしまいそうだ。
田崎くんのポジションはゴールキーパー。
サッカー部では「鉄壁の守護神」なんて呼ばれているそうだ。
普段はのんびりなのに、ゴール前に立たせると豹変するらしい。
でもその守りのおかげか、うちの高校は去年県大会で初優勝を果たしたのだ。
美香は田崎くんのことをコアラみたいだって言う。
寝てるか食べてるかサッカーしてるかが、彼の主な行動パターンだから。
でもそんなマイペースさ加減が、あたしは好きだったりする。
「ああ、よくペナルティだって購買のパン買いに行かされてたよね。けどよかった、田崎くんが一緒で。美香とも離れちゃったし、合唱部の友達もいないし心細かったんだよね。こちらこそ、また一年よろしく」
一年の時同じクラスだった子は何人かいるけど、ほとんど喋ったことがない子ばかりだった。
美香はすぐに回りに馴染めるタイプだけど、あたしは新しい環境っていうのがどうも苦手だ。
「あいよ〜喜んで。あ〜ダメだ、眠い! もうちっと寝るから、先生来たら起こして」
でっかいテディベアが前のめりに倒れたみたいに、田崎くんはまた机に伏せてしまった。
――確かに美香の言う通りかもしれない。
でもこれでも田崎くんて、案外女子に人気があるんだよね。
「あ、も一つあったわ。遅刻の理由」
動かなくなったと思ったら、急に田崎くんが顔を上げた。
そして窓の方を見る。つられてあたしも目を向けた。
「桜が、きれいだったんだよね。あっちこっち」
窓のすぐ外で枝を張る淡雪のような桜の花を田崎くんが指差す。
「また春が来たなーと思って、しみじみ見上げてた」
そうだよ、と言うように集まって咲く小さな花が微風に揺れた。
今年は桜の開花が遅くて、四月の一週目を過ぎてやっと満開になった。そういえば家の近くの公園もきれいだったな、と思い出す。
桜は始まりと終わりを告げる花。
そう言ったのは誰だっただろう。
「……そうだね、一年て早いね」
薄紅色のさざめきを眺めながら、あたしは頷いた。
華やかに咲いて儚く散っていく花が、また新しい季節を運んでくる。
今年はどんな日々が待っているのだろう。
青空の下眩しいほど輝いて、春のぬくもりに包まれた花びらは、
はらはらと零れ落ち始めていた。