【第十四楽章】 君の声
聡太は一週間ほど入院して治療を受けることになった。
事故に遭った晩、聡太の担任の先生が病院に駆けつけてきた。その時学校にも連絡がいっていたのだとあたしは知った。少し落ち着いて確認していればもっと早く来れたかもしれないとあたしは気付いた。バカみたい。あんなに焦ってパニックした自分が恥かしい。
お父さんにもその夜に連絡をとった。びっくりして帰ってくると言ったらしいけれど、ただの骨折だから大丈夫よとママに言われ、予定通り来週に戻ってくることになった。
そしてお父さんに大丈夫、なんて言ったくせに案の定ママは病院に入り浸りだ。そのためあたしは最初の二日間は夜一人で過ごした。
ママはちゃんと夕飯を用意していってくれたけど、一人きりの食事は味気なかった。
相変わらず味の方は天気みたいに気まぐれだ。だけど、お冷やご飯で作ったかたまりだらけのチャーハンも、皆で食べている時はもう少しおいしく感じたように思えた。
“病院に行ってきます”
その一言が書かれたメモを眺めながら、あたしは終わらない食事を前にぼうっと台所に座っていた。
一人でいるのは好きなはずだった。
気持ちが揺れたり騒いだりすることはないから。
だけどいざ一人きりになってみると、家という空間はやたら大きくて無機質で。自分が座っている小さな椅子の上だけが知っている場所みたいだった。
――田崎くんにはまだ返事はしていない。
同じクラスの上に隣の席っていう微妙なシチュエーションはどうにもならずに翌日は顔を合わせずらかったけど、田崎くんの態度はいつもと変わらなかった。
一限の途中に来て、休み時間にパンを食べて、授業中に居眠りして、昼練に行く。その間に眠そうな目であたしに「ノート見せて」とか「ガム食べる?」とかいつも通りの会話を負ってくる。昨日あったことなんかすっかり忘れてしまったみたいに。
あたしはそれで美香が前に言っていたコアラの脳みその大きさの話を思い出し、本気で「まさか」と思いそうになった。
でもうやむやに出来ないことだけは、ちゃんとわかっていた。
聡太が入院して最初の二日間は部活があったので病院には行かなかった。
でもやっぱり心配になって、結理先輩に断って三日目に学校帰りに行くことにした。
最近のお昼はコンビニで買っていて、毎朝ママが千円をくれる。そのおつりが結構あまっていたので、バスでも行けるけど駅からタクシーを拾った。どうせママは今日も病院に行っているだろうから、帰りは一緒に車に乗せてもらえばいい。
聡太の病室に着くと、ママの姿はなかった。
サイドボードの上にはむいたリンゴの載った皿と、皮がくるまれたティッシュがあった。トイレにでも行ってるんだろう、きっと。
仰向けで聡太は眠っているみたいだった。
三日前と同じように吊り下げられた足が痛々しい。「おおい」と声をかけてみたけど、無反応だった。
――なんだ、せっかく来たのに。
ベッドの脇にパイプ椅子を引き寄せてあたしは鞄を抱えて座った。
カーテンが半分開いた窓辺には夕暮れが滲んでいる。オフホワイトの部屋は茜色に染まり温かかった。
夕焼けって優しく微笑んだ人の顔に似ている。
心をほぐして癒してくれるような、大きな力があるみたいな気がする。
目を閉じて、あたしは黄昏に浸っていた。
「――透子」
突然呼ばれて、あたしは目を開けた。ベッドの上を見ると、聡太はいつの間にか顔を窓の方に向けていた。
「そのまま聞いて」
表情は見えない。眠った姿勢のまま、聡太は身動き一つしなかった。
「……ごめんね、透子」
ぽつり、聡太がこぼし始める。
「オレ、そんなつもりじゃなかったんだ。……とってやろうとか、勝とうとか。そうじゃなくて」
迷っているようにいつもの調子よりたどたどしく、小さな声だった。あたしはその言葉たちを言われた通り、黙って一つずつ拾っていく。
「透子の好きなものは全部、知りたかったんだ。好きになりたかった。だから何でも真似したくて。それで透子の近くにいられる、って思ってた。……それだけだったんだ、本当に」
病室のドア越しに子供の笑い声が聞こえた。「走らないの」というお母さんらしき声と「おねえちゃん待って」と追いかける声が通り過ぎていく。
「だけど、それが透子を追いつめてたんなら、オレはひどいことをしてたんだと思う」
ほんとにごめん、今まで。
まるで別れを告げるように、顔を背けたまま聡太が言った。
「あの時……わかってたはずなのに。中学の時、オレがピアノをやめた時。やっちゃいけないんだって思った。透子に嫌な思いをさせるって」
やっちゃいけない――聡太はそんな風に考えていたんだ。
合唱コンクールの後、聡太は急にピアノをやめた。
やっぱり、あれはわざとだったんだ。
――違う、本当はあたしは知っていた。そうだってことに。だけど見ないふりをしていた。だってほっとしたから。心底、ほっとしたから。
聡太よりうまく弾かなきゃ、上手にならなきゃ。そうやって頑張らなくてもよくなったから――
「透子は言いたいことがうまく言えないから我慢してるんだって知ってたのに、オレ無神経だったよね」
――違う、あんたのせいじゃないよ。
そう言ってあげなさいよ、ねえ。ちくちくと胸が痛んで、目の前がぼやける。あたしは膝の上の鞄を抱きしめた。
「傷つけようと思ったわけじゃない。いつだって、考えてたのは透子が昔みたいに笑えるようになればいいのにっていうことだけで」
瞬きをしたらこぼれてしまう。あたしは瞼を閉じた。
「我慢しなくていいんだよ、透子。怖がらなくたって。少しくらい嫌なこと言えよ。傷ついた時は傷ついた顔しろよ。別々の人間として生きてるんだから、ケンカしたりぶつかったりもするけど……そんなので壊れたりしないよ。家族も友達も、簡単になくなったりしない」
簡単に、なくなったり。
あたしは――そう、それが怖かったんだ。
失ってしまうのが。もう二度と手に入らないものだから。
変わらずにそこにあってほしいと願うあまり、傷つけないように殻を被って触らないようにした。
「……大丈夫だよ」
夕日の赤い色が目にしみる。あたしは必死で唇を噛み締めた。
「頑張れ、透子」
ありきたりなその言葉が、響いた。余韻を帯びて胸に染み込んで、せつかなった。
口先だけの言い方なら、きっとこうはならない。他の人に言われても涙なんか出ない。
「頑張れ」
聡太だから。
聡太だから胸にくるんだ。
……ありがとう。
口は動かしたけど声にならなかった。
小さな花びらが一枚、積み上がったおはじきの上に舞い降りた。
電話に出ていたママが戻って来たのは、それから十分後くらいだった。
その時にはもう本当に聡太は眠っていて、ママとあたしはそのまま車で家に帰ることになった。
「あーおなかすいたわね。今チンするから」
長い髪をシュシュで一本に束ね、ママは花柄のエプロンをつけた。
テーブルの上には、いつものメモと一緒にラップのかかった皿が置かれていた。炒め物らしきその料理をレンジに入れて温めのボタンを押し、ママは鍋のかかったコンロに火をつけた。
「あーあ、肩こった。病院てなんかダメよ、私。妙に緊張しちゃうのよね。やっぱり、あんまりお世話にはなりたくない場所だわ」
グラスを二つ用意して、あたしはペットボトルのお茶を注いだ。
目元がじんじんする。涙はひいたけど、まだ疼いている感じだった。
「早く退院になるといいね」
「もう少しねー。でも家に帰って来ても松葉杖だもの、それもきっと大変よね。学校とかでは手伝ってあげてね」
冷蔵庫からいくつかラップのかかった小鉢や皿を取り出してママはテーブルに並べる。レンジからほうれん草とコーン、ソーセージの炒め物を出してみそ汁とごはんをよそり、あたしたちは席についた。
いただきます、と向かい合って声を合わせる。
「なんか二人って寂しいわね」
ママの顔色が沈む。
一人の時も思ったけれど、『家族』っていう存在のウェイトはずいぶんと大きい物なのだ。たった一人いなくなっただけでも、慣れない広さの隙間があく。
ママとこうして二人だけで食事をとるのは初めてだった。それに対しての違和感もあるのだろう。
「あの子がね」小鉢のラップを外してママはきんぴらをつつき始めた。
「透子と一緒に夕飯を食べろって言うのよ。一人じゃかわいそうだからって。まったく、時々大人みたいな言い方するのよね」
あたしは炒め物を皿に取る。バターのいい香りがふわっと漂った。
「あの子、ほんと透子、透子よね昔から。私の言うことには反発するくせに」
呆れたようにママが言う。がっかりしたような色を見た気がして、あたしは言い繕う。
「反抗期ってやつだよ。男の子ってそんな時期だよ」
そうかなあ、とママがため息をつく。
「あんたは聞き分けがいいのにね。わがままも言わないし、偉いわよほんと」
一粒一粒口に運んでいたコーンをあたしは歯で噛み潰した。
「……違うよ」
ほのかな甘さが口の中で溶けていった。
「ママが……好きだからだよ。だから迷惑かけたくないの」
いつもは喉でつかえる言葉。だけど今日なら言える気がしてあたしは声に乗せた。
「でも、時々後悔するんだ。本当のことが言えないと、楽しいと思えなくなって、一人ぼっちになったみたいで」
もっとあたしを見て。
心配して欲しい。
聡太だけじゃなくてあたしも。
雑草みたいに次々生えてくる欲求を踏みつけて見ないふりをしてきた。その中にある本当のあたしを見つけてくれないかと願いながら。
「……本当はね」
鼻の奥がツーンと痛くなる。だけどあたしは勇気を引っ張り出した。
「あたし、酢豚が嫌いなの。いつもおいしいって言ってたけど、どんな味付けでも……好きじゃない。ほかにも、嘘をついたことがある。――ごめんね、ママ」
聡太みたいになれたら、どんなにいいか。
ずっとずっと、うらやましかった。ママと本音でぶつかることが出来て、心配されて。あたしもママに愛されたかったから。
でも同じようにしたら嫌われるんじゃないかって、それが怖くて黙り込むことを選んだ。
「ママが嫌がるから家でピアノ弾かないけど、本当はやりたい。あたしの好きなものも作ってほしい。帰りが遅いって怒られたり、テストが悪くて文句言われたり……もっと、もっと気にしてほしいの。あたしを見てほしいの」
あたしは夢中でしゃべっていた。じんじんする目元から涙が落ち始めても、手で拭いながら必死に。頑張れ、頑張れ、そう自分に言い聞かせながら。
びっくりした様子であたしを見ていたママが、箸を置いて俯いた。
「――ごめんね、透子」
かすれた呟きを隠すように、ベージュのネイルを塗った指で顔を覆う。
「ダメな母親ね、私」
あたしは強く首を横に振った。
「そうよね……無理してたのよね。言いたいこと、ずっと我慢してたのよね。あたしが本当の母親じゃないから」
違うよ、ママは悪くない。
あたしが臆病だったんだもの。もっとぶつかっていればよかったんだ、聡太の言う通り。
「透子はいつも笑ってるから……私安心しちゃってたの。大丈夫なんだって。――ごめんね、気付いてあげられなくて。ごめんね」
顔を上げないママの肩は震えていた。泣いているママを見るのも初めてだった。
「ママは悪くない」拭っても拭っても、きりがない涙だった。
「あたしが悪いの」
だけど全部流さなきゃいけないと思った。
変わるために。あたしがあたしでいるために。
『頑張れ、透子』
その一言があたしの背中を押してくれた。力をくれた。
聡太の言葉だから、信じられた。
「もっとわがまま言いなさいよ」
赤い目を上げてママが言った。
「文句も言いなさいよ」
椅子に掛けてあったタオルで両目を拭く。アイライナーが滲んだけど、やっぱりママはきれいだと思った。
「私はあんたの、ママなんだから」
うん、と頷いた。
「これからは覚悟しなさいよ。何でも言うんだから。厳しくするんだからね」
もう一度頷いた。それが精一杯で、もうその後はぐしゃぐしゃの顔で二人で泣いて、笑った。
たくさんのおはじきたちが、一つ一つ小さな音をたてて弾けていく。
割れるたびに、きらきらと粒子が舞って。
柔らかな風にさらわれて、消えていった。
次回最終話になります。
最後まで宜しくお願いします☆