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春空カノン  作者: 兎乃井メライ
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【第十三楽章】 動揺

 放送で呼ばれたのはあたしの名前だった。

 突然の呼び出しに何かまずいことでもしたかなあと思い悩みながら、「失礼します」と職員室の隣の事務室の扉を開けると、中にいた事務員さんがあたしを手招きした。

「咲宮さんね? こっちこっち。お母さんから電話よ。携帯に出ないからこちらに掛けてきたって」

 事務員さんの持つ白い受話器を見て、あたしはブレザーのポケットを押さえた。

 そうだ、教室の机に置きっぱなしだったんだ。

「もしもし?」

 なんだろうと思って受話器を耳に当てる。学校にまで連絡してくるなんて何かあったんだろうか。

 するとすぐにママの、半泣きに近い余裕のない声が聞こえた。


『透子? 透子? もう! なんで電話に出ないのよ!』


「ごめん、携帯机に置いたまま席はなれちゃって。どうしたのママ、そんなに焦って」

『もう大変なのよ。事故に遭ったのよ、聡太が!』

「え?」


――事故? 交通事故?


「事故って……どういうこと?」

 聞き慣れない言葉に、あたしは戸惑いを覚えて訊き返す。

『よくわかんないのよ! さっき家に電話があって、帰り道で接触して……ああもう! とにかく病院に運ばれたって』

「落ち着いてよママ」

 スピーカーの音みたいにママの声が甲高く大きくなる。少し受話器を耳元から離して、あたしは叫ぶように言った。

『だからもう病院なの。やだ、駐車場いっぱいじゃない。早く出てよ! 洋二さんも昨日から海外出張だし、なんでこんな――』

「ねえどこの病院なの? あたしも行く」

『あっ、あった! あー透子ごめん、いったん切るわね! ちょっと待ってて!』

「えっ、ママ! ねえ、場所はどこなの!?」

 ガタガタっという雑音がして、電話はそこで切れた。

「ママ?」

 単調な切断音が耳元で響く。あたしは呆然とした。


――聡太が……事故? うそでしょう。


「どうしたの? 大丈夫?」

 メガネをかけた中年の事務員さんが、心配そうに訊く。

 受話器を握る手に汗が滲んでくる。寒気と興奮が一緒にきたみたいに落ち着かなくなって、足が震え出した。

 病院て、まさか大怪我をしたんだろうか。それとも――……

「ありがとうございました」とお礼を言って電話を置くと、あたしは急いで事務室を出た。

 廊下を走り出し、でもあてがないことに気付いて階段の手前で立ち止まる。

 落ち着け、落ち着くんだ。


 どうすればいい?


 病院にいかなきゃ。でもどこだかがわからない。

とにかくもう一度ママに連絡しなければいけない。あたしは二階の教室に携帯を取りに向かった。


“事故に遭ったのよ、聡太が”


 体中がバクバクいっている。全身が心臓になったみたい。

 さっきのは幻聴? 本当にママの声だった?

 冷静に考えてみようとするけれど、混乱が止まらない。

 無人の教室に飛び込めば、ぽつんとただ一つ鞄が載っている机が目に入った。

 鞄の横に所在なさげに転がっている携帯を開いてリダイヤルを押す。ママから入っていた三件の着信のうちの一つを選んで、発信した。


――お願い、出て。


 だけど何度コール音が鳴っても応答がない。

「お願い、ママ」

 最悪の事態が目の前をかすめた。

 そんなはずない、そんなことが起こるわけ。

 やがて留守番電話のメッセージが流れ始めて、あたしは電話を切った。

「どうしよう……」

 お父さんは昨日からタイに出張に行っていない。肝心のママは電話に出ない。他に何か病院を探す方法を考えなきゃ。

 必死に頭を回転させる。すぐに浮かんだのは一つだけだった。

「電話帳だ」

 近くの病院に片っ端から電話するのだ。昇降口の外の公衆電話ならきっと置いてあるだろう。

 携帯をポケットに入れ鞄を肩にかけると、その方法を実行すべくあたしは席を離れた。

 効率は悪いかもしれないけど、今はそれしか思いつかなかった。

「わっ!」

 廊下に出た瞬間に黒い制服が目の前に飛び出してきて、ぶつかる寸前であたしは足を踏み止めた。同時に声が上がる。

「あ、咲ちゃん」

 驚きの余韻で、田崎くんが目をぱちくりさせる。

「呼び出し、終わったん? 遅いから持ってきたよ」

 彼の手にあるものを見て、あたしはさっきまでどこにいたのかを思い出した。でもそれどころではなくて、差し出された巡回日誌を押し戻す。

「ごめん、緊急事態なの。机の上に置いておいて」

 一分でもじっとしていたくなかった。他のことより今は出来ることをやらなきゃいけない気がした。

 田崎くんの返事も待たないであたしは気持ちに押されるまま走り出した。

 上履きのまま昇降口を出て、階段を駆け降りる。

 日が沈んで影の支配する世界の中に、あたしは小さな明りが灯る電話ボックスを見つけた。普段は気にも留めない、むしろ時代遅れだなあなんて冷めた目で通り過ぎる場所が、今のあたしにはたった一つの救いだった。

「病院、病院てどこよ」

 緑の公衆電話の下の台にある分厚い電話帳をバラバラとめくり出す。だけど文字が全然頭に入ってこない。早くしなきゃいけないのに、やみくもにページを弾くことしかできない。


――聡太に何かあったら。


 いなくなってしまったら、どうしよう。

 ひどいことを言ってしまった罰なのかもしれない。あたしのせいだ。

“やめろよ”

 ケンカをした夜の、聡太の顔が浮かぶ。今にも泣き出しそうな、傷ついた顔をしていた。

 どうしてあんたがそんな目をするの、って思った。痛いのはあたしの方なのに。

 手がもつれて、電話帳が足元に落ちた。

 ――カノンくらい許してあげればよかったんだ。独り占めしようなんて思わないで。

 拾おうとして屈んで、あたしはそのまま蹲った。

 聡太は傷ついたりしないと思っていた。振り回されて我慢して傷つくのはあたしだけだって。

 あたしは勝手に自分で積み重ねた荷物に耐え切れなくなって、手を離した。それを聡太に投げつけて楽になろうとしたんだ。ぶつかれば痛い思いをすることも、怪我をするかもしれないこともすっかり忘れて。 どんな時も聡太は、あたしをさりげなく助けてくれた。

 家でも、美香とのことも。いつも当たり前のように傍にいて、気付いた時には目の前に手が差し伸べられていた。

 たくさんのものをもらってきたのに、あたしはそれを台無しにしてしまった。

 泣いたって許されるわけじゃない。後悔したって過去に戻れるわけじゃない。

 だけど今までどれだけ聡太の何気ないやさしさに救われていたのか、すれ違うようになってやっと思い知ったのだ。


――いなくならないで、聡太。


 涙を拭ってあたしはもう一度電話帳に手を伸ばす。

 その時、ポケットの中で携帯が震えた。







 聡太の運ばれたのは家から車で二十分くらいのところにある病院だった。

 駅からタクシーを拾ってあたしが辿り着くと、ママが入り口でうろうろしていた。そしてあたしを見るなり抱きついてきたのだった。

「ほんとにごめん、透子! 私焦っちゃって、携帯車の中に放り出してきちゃったのよ」

 慌てもののママらしい。聡太の無事を確かめるのでいっぱいいっぱいで、落としたことにも気付かなかったんだろう。後になってあたしのことを思い出して急いで探しに行ったらしいけど、本当に聡太のことになるとママは盲目的に弱い。


 聡太の怪我は右足の骨折と擦り傷で、命に別状はまったくなかった。

 ベッドの上で足を吊られて「よ」と手を上げた聡太を見た瞬間、全身にどっと疲れが押し寄せてあたしは脱力しそうになった。

「避けようと思ったんだけど、ブレーキが間に合わなかった。まあ、仕方ないよね」

 聡太が事故に遭ったのは家から塾に自転車に乗って行く途中だったらしい。見通しの悪い交差点がいくつかあって、いつもはたいして往来がないので気に留めずに通り過ぎようとしたところで、バイクと接触したのだという。

 バイクの運転手も軽い怪我をしたらしく同じ病院で治療をしていたので、直接病室に謝りに来た。二十代後半くらいの真面目そうな男の人で、何度も深々と頭を下げていた。

 ママとその人が話している間、あたしは聡太と二人になった。

 病室は二人部屋で、もう一つのベッドは空だった。

「……死んだのかと思った」

 パイプ椅子に座って、あたしはがくりとうな垂れた。ここに来るまでの時間は早送りみたいに目まぐるしかった。

「勝手に殺すなよ……」

 あたしの呟きを聞いて、ひでーと聡太が低く言った。

「だって事故って言ったから」

 吊り下げられた二倍の大きさの足を見て、また力が抜ける。風船みたいにしぼみきってぺっちゃんこになってしまいそうだった。

「……よかった、無事で」

 どうしようかと思った、本気で。焦りすぎて自分のこともわからなくなりそうだった。

 深呼吸がしたい。

 だけど薬品のにおいの混じる独特な病院の空気の中では、思い切り息を吸う気になれなかった。

「平気だよ」

 体を動かそうとして「いてっ」と小さく舌打ちして、口をへの字に曲げてベ聡太はッドに沈んだ。

「簡単にいなくなったりしないから」

 大怪我をしている十五歳とは思えないケロっとした声に、あたしは呆れそうになった。

 ――でもこれが聡太だ。ちゃんと生きてる、いつもの。

 今さらながら実感がわいて、色のない殺風景な病室の風景がほわんと温かくなった。ありがとう、そう感謝したくなるくらいに。

「怪我してるくせに、かっこつけんな」

「でも生きてるだろ。すぐ治るよ、こんなん」

 いてえけど、と聡太は付け加えて、笑った。

「でももし死んでたら、オレ絶対化けて出てたよ。だって心残りがすげえあるもん」

 ――全然面白くない。

 これだけ大量に心配した後では。

 だけどあたしはなんだか笑ってしまった。安心したあまり。

 いろんなものが込み上げてきてむせても、笑った。

 それを見て聡太も笑い出す。久しぶりに見た、ありのままの笑顔だった。

 


 そしてわかったんだ。



 こうやって笑っているだけで、もう何もいらないってくらい幸せになれること。

 聡太の笑った顔が、あたしは好きだったんだっていうこと。


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