【第十二楽章】 告白
「戸締り、よーし」
夕暮れ色の教室の窓を一つ一つ差しながら、田崎くんが大きく頷いた。
「戸締りじゃなくて暖房も見てよ。それがメインなんだから」
窓の下にある暖房装置のスイッチを覗き込んでファイルにチェックを入れながら、あたしは最後の見回りの教室の中央で「黒板よーし、時計よーし」と調子に乗っている田崎くんに何度目かの忠告を発した。
「念のためだよ、念のため。いつ何が災害を引き起こすかなんてわかんないじゃん。暖房だけが危ないわけじゃない」
得意げに胸を張る『ゴール下の守護神』にあたしは苦笑を送る。そして腕の防災委員の腕章を取り外した。
「さて、ここで最後だね見回りは。ありがと、つきあってくれて」
間に腕章を挟んでファイルを閉じる。
「いいえ〜。一人で校舎全部見るのは大変だろ。しっかしだりーなぁ、防災委員って」
田崎くんが両手を上に伸びをした。長い腕がぐっと持ち上がると、いちだんと背が大きく見える。
あたしの就任した防災委員には、順番で『火気点検見回り』という仕事がある。校舎を回って暖房が切ってあるかのチェックや戸締りの確認を行うのだが、今週はうちのクラスが当番なのだ。
本当はもう一人委員がいるんだけど、今日はあいにく風邪で欠席であたしは一人で見回ることになった。今年はまだ時々寒くて暖房を使っているけど、今日は温かかったからきっと使われていないだろう。ならすぐ終わるし一人でも大丈夫かな。
なんて思いながら教室を出て行く時に、田崎くんが「手伝うよ」と声をかけてくれたのだった。
「あとは日誌をつけるだけだからもう大丈夫だよ。部活行きなよ」
ここは三階の端、一年の教室だけど誰もいないからここでつけてしまおう。
そう思ってあたしは窓際の椅子に座った。
「いんや、終わるまでいるよ」
二つ前の席に田崎くんが座った。あたしの方を向いて、背もたれに腕を乗せる。そして熟しすぎた柿の実のような夕焼けに染まるグラウンドの方を向いた。
「夕方ってさ、毎日色が違うよね」
「ん?」
日誌に日付を書き込んで、あたしは顔を上げた。
「鮮やかな時もあったり、薄い時もあったり。同じ空なのに、微妙に違うんだよなあ。生きものなんだなーって思う。人間みたいに」
しみじみと外を見ている田崎くんのオレンジ色の横顔につられて、あたしも横に顔を向けた。
黄昏の空は次々に変化していく。
金色からオレンジへ、オレンジから赤へ。夜の色になるまで、何度も試行錯誤を繰り返して。
「……そうだね。毎日少しずつ変わっていくのかも」
四月も半ばに差し掛かり、春の始まりを匂わせていた桜の花は散ってしまった。
地面に残っていた花びらも踏みにじられ、雨風にもまれているうちに消えてしまった。
もうどこにもあの幻想的な光景は残っていなくて、季節はどんどん春めいて暖かくなっても、鼻の奥がツンとなるようなせつなさだけが取り残されたように、ある。
――聡太とはあの夜からほとんど話をしていない。
あの後声を聞きつけてママが血相変えてやってきて「何してんのよ」と叱られた。
理由を訊かれたけど聡太は答えなかった。あたしも「ちょっと意見が合わなかっただけ」と誤魔化して自分の部屋に戻った。
次の日からなんとなく気まずくなったけど、あたしは合唱部の練習が忙しくなったし聡太もまた予備校に行くと言い出して夜もいないことが多くなった。
学校でもすれ違うことなんてほとんどなくて、いつも同じ場所にいても離れて暮らしてるみたいだった。
「咲ちゃん、この頃元気なくない?」
日誌書きに戻りシャーペンを走らせていると、田崎くんが突然言った。
「へ? そう?」
「うん、なんとなくだけど。よくため息ついてるし」
「え〜、ほんと? そうかなあ。なに田崎くん、あたしのこと監視してんの?」
「そういうわけじゃないけどさあ。何かあったのかな〜と思って」
冗談のつもりだったのに、田崎くんは真顔だった。
「何かあるなら、聞くよ?」
あたしが、というよりも自分が悩みがあるような様子でそう言われて、思わず笑った。
「どうしたの、深刻な顔しちゃって。大丈夫だよあたし。もともとテンションだってそんな高い方じゃないしさあ。知ってるでしょ」
うーん、と田崎くんが曖昧な返事をして首をひねる。
「なんでもないよ、ほんとに」
気のせいだって、とあたしはくるり、とシャーペンを指の先でまわした。
――昨日体育館への渡り廊下を歩いている聡太を見かけた。
クラスメートらしき男の子たちに囲まれて、楽しそうに笑っていた。ママの心配なんかよそに、すっかり溶け込んでいて。家にいる時よりも自然なその笑顔に、あたしは意識的に目を逸らした。
家にいる時の聡太は、いつも大人びた顔ばかりだった。あんな無邪気に笑うことなんて……最近はなかったような気がする。
家族の知らない聡太が、きっと学校や家以外の場所ではたくさんいるのだ。
これからきっと聡太はどんどん変わっていく。見かけも、中身も。
当たり前のことだけど、でもそれはあたしの知らないところで起こっていく気がして、……なんだか悲しくなった。
こうなったのはあたしのせい。わかっているのに。
「でも咲ちゃんは結構我慢する性格だよねえ」
「え?」
頬杖をつく田崎くんをあたしは見つめた。
「何も言わないから、俺も訊かないけどね。でもなんとなくわかるんだ、そういう時」
――家でのあたしは相変わらずだ。
ママともうまくやってる。差し障りのない言葉を選んで。
ただ一つ変わったのは、ちくりとこたえる瞬間が多くなったこと。
聡太はあたしにもう手を差し伸べてはくれなくなったから。
「田崎くんはよく見てるね、人のこと」
あたしは微笑んだ。「友達思いだよね」
聡太はもうあたしを助けてはくれない。許してもくれないかもしれない。勝手に劣等感を抱いて叩きつけたあたしを。
「あのさあ……」やっと寝癖の落ち着いた髪を田崎くんはがしがしとかき回した。
「咲ちゃんと弟は本当に血が繋がってないんだよね?」
「へ? うん、そうだけど」
「そうだよね……だからか」
「なにが?」
一人でなにやら納得している田崎くんに、あたしは首を傾げた。
「あーごめん、変なこと聞いて。……あのさ、この間駅で行き合ったことあっただろ、弟くんと」
「うん」
「あの時さ、睨まれたんだよね」
「聡太に?」
「そう……はじめまして、って言った時かな」
駅での聡太はすぐ思い出せるほど最悪な態度だった。あたしはとっさに謝った。
「ご、ごめん。あの子ほんとに愛想なくて」
「いや〜いいんだよ別に。でもちょっと気になって」
なんて言うのかなあ、と田崎くんは天井を見上げる。
「なんつーか……ライバル視するような目だったんだよね。それ以上近付くな、みたいな」
「近付くな……って誰に?」
そう訊くと、「ん? ううん」と田崎くんはとぼけて笑顔を作った。だけどあたしは田崎くんが何を言いたいのかわかってしまった。
『オレは透子の弟じゃ嫌なんだ』
今もずっと胸にぶら下がっている聡太の言葉。どう誤魔化そうとしたって、分解して切り離そうとしてみたって、すぐにくっついて元に戻る。
あの時の崩れ落ちそうな聡太の表情が目の裏に焼きついて離れない。
「聡太は弟だよ。血が繋がってなくたって」
一行しか書いてない日誌にあたしは戻る。
あとわずかでもあのまま時計の針が動いたら――あたしたちは完全にバランスを失っていただろう。後に続く言葉を聞いていたら。
間違えた文字は消しゴムで消せるけど、一度起こったことは修正がきかない。
これでよかったんだ、そう思う。
今のままのほうがあたしたちには都合がいい。
「そっか――そうだよね」
田崎くんが椅子から立ち上がる。
「ならよかった。ずっと気になっててさ」
色調を変えていく夕空を眺めながら、田崎くんが深呼吸をする。その言い方があたしは気になった。
「――どうして、田崎くんが気にするの? ……そんなこと」
「だって」真剣な顔と目が合った。
ゴール下ではこんな様子で立っているのかとあたしがぼんやりと思っていると、田崎くんはゆっくりと確かめるように言った。
「咲ちゃんが好きだから、気になるんだよ」
グラウンドからキインという金属音が空に上がり、抜けていった。ボールを追いかける声が次々に重なる。
その声は紛れることなくはっきりと耳に届いた。夕日の色がちらちら映る二つの目はまっすぐにあたしを見ていて。
完全に止まってしまったシャーペンを持つ手をあたしは日誌の上に下ろした。
好き、と言った。田崎くんが。
どういうこと? なんて聞き返さなくてもさすがにわかる。
なんだか映画のワンシーンを経験しているみたいだった。
「迷惑?」
あたしの顔を覗き込むように、田崎くんが長身を屈めた。
こくん、と喉が鳴った。
「びっくりした? 一年の時からなんとなーく気になってて……でも三人のバランス崩すのは嫌だったし、それはそれで楽しかったから言わないでいいかなーと思ってたんだけど。でもこの間、部のやつらにからかわれただろ? あの時、なんかうれしいって思ってる自分に気付いたんだ。このままいられたらなーって」
いつもと同じ田崎くんが、いつもと同じように後頭部を掻く。何一つ変わらない彼が、いつもと違うことをあたしに告げる。
「好きなやつとか……いるの?」
一つの顔が過ぎる。
違う、どうして。
「今すぐに答えとか……くれなくてもいーからさ。考えてみてくんないかな? 俺とつきあうこと」
答えを促す沈黙が降りる。あたしは思わず下を向いて、誰が彫ったのかわからない机の古い傷を凝視する。
――答えなきゃ、何か。
考えていいって言うんだから「うん」でいいのに、なぜか出ない。
ゆっくりとフェードアウトしていく夕方の光が、あたしを「さあ、さあ」と急きたてる。
静寂を破る鍵はその瞬間あたしが握っていた。あたしたち以外誰もいない教室は本当に静かで。ぎっしりと並ぶ三十五個の机たちが、まるで耳を澄ましている観客みたいに思えた。
――気を悪くしちゃう、ほら。
グラウンドの方を向いて、ポケットに手を突っ込んで立つ田崎くんを座ったままあたしは見上げた。
そして口を開こうとした時、
頭上からスピーカーの音が聞こえてきた。