【第九楽章】 裏切り
美香のお父さんが亡くなったと聞いたのは、翌日の一限後の休み時間だった。
結局今朝になってもメールの返信はなくて、あたしは隣のB組に美香が来ているのか見に行った。その時、一年の時に一緒のクラスだった女の子から聞いたのだ。
『鈴木さん、昨日お父さんが亡くなったんだって』
お昼休みにあたしはすぐにB組の担任、安西先生のところに真偽を確かめに言った。
話は本当だった。
美香のお父さんは半年ほど前から入退院を繰り返していて、昨夜病院で息を引き取ったそうだ。
末期ガンだったそうだ。
今夜お通夜があるので先生は行くという。
予鈴が鳴ったので、あたしは職員室を後にして教室へ向かった。
足はちゃんとリノウムの床を踏んでいるのに、歩いている気がしない妙な気分だった。
窓の外は快晴、春の陽気で満ち溢れているのに、手先が真冬の朝のように冷たい。
なのにマラソンのスタート一分前みたいに胸がどきどきして仕方なかった。
――知らなかった。
美香のお父さんが病気だったこと。それも危篤状態だったなんて――
だからメールの返事がなかったのだ。
五限前のざわめいた教室に戻り、自分の席にすとんと腰を下ろした。頭の中が整理出来なくて、呆然としてしまう。
「アンジ―、なんだって?」チャイムが鳴ったと同時に戻って来た田崎くんが、荒い息遣いのまま訊いた。
「大丈夫? 顔色悪いけど……」
覗き込まれてあたしは我に返る。だけどうまく表情を取り繕えなくて、俯き加減に頷いた。
「……昨日亡くなったんだって、美香のお父さん。今日お通夜だって」
自分が今どんな顔をしているのかわからない。激しく動揺しているのだけはわかる。冷静になりたいのだけれど、体が震えそうになってあたしは机の下で手を握り締めた。
「鈴木から連絡ないの?」
「……ない。何度かメールしたんだけど。電話もしたけど出なかった」
「お通夜いくの? 咲ちゃん」
「わかんない……どうしよう、行っていいのかな? だってあたし、美香から何も聞いてないんだよ」
何一つ。
美香はそんな素振りさえ、見せなかった。
勘ぐらせる余地も与えなかった。
あたしは美香にまんまと騙されていたのだ。
「俺だって何にも知らなかったよ。水くさいよな、あいつ。咲ちゃんが行くなら俺も行くよ。アンジーに頼めば、二人くらい乗っけてってくれるよ」
アンジーこと安西先生は一年の時のあたしたちの担任だった。確かワンボックスカーに乗っていたから、便乗させてもらえるかもしれない。あたしは田崎くんの言葉で迷いを振り切った。
「うん、行く。頼んでみよう」
――美香のところに行きたい。少しでもいいから直接話がしたい。
「じゃあ五限終わったら言いに行こう」
田崎くんがそう提案した時、教室の前の扉が開いて生物の片野先生が白衣姿で入ってきた。
あたしはぐっと奥歯を噛み締めた。
放課後、安西先生の車に乗ってあたしは田崎くんと一緒に市の葬儀場へ向かった。
田崎くんは便乗を頼みにいったついでに、サッカー部の顧問に休むと伝えに行ったみたいだった。
「大丈夫なの?」とあたしが訊くと「平気平気」と軽い調子で答えたけど、本当はあたしが決めかねていたから背中を押してくれたんだと思う。
だってどんなに具合が悪くたって、補習で時間が押したってあたしが知ってる限りでは田崎くんは練習を休んだことはない。運動部は上下関係が厳しいっていうから、いけないことなんじゃないだろうか。
心配になって「ごめんね」とあたしが言うと、田崎くんは「全然」と少し大人びた顔で笑ってみせた。何が?と訊かないあたり、あたしの気持ちを察したからに違いない。でも田崎くんが引っ張ってくれて、よかった。
午後六時半を回り、取り巻く世界はどっぷりと夜に浸かり始めていた。
葬儀場の入り口にはたくさんの喪服を来た人たちがいた。読経と線香のにおいが中から漂ってくる。日常の中にはない異質な空気感だった。
お通夜やお葬式は初めてじゃない。
お母さんの時は小さかったからよく覚えていないけど、お父さん方のおじいちゃんが亡くなった時のことは、小学校高学年だったからちゃんと覚えてる。
お葬式には今日のようにたくさんの人が来ていて、知っている顔もまったく知らない顔もあった。全員一様に真っ黒な服を着て、まるで死神みたいだと思った。ひそひそ肩を寄せ合って話をしている様子がなんだか不気味で怖かった。おじいちゃんを連れて行く相談をしているように見えて――
それがあたしの勝手に作り出した妄想だってことはわかってるけれど、恐ろしさと同時に憤りも感じそうになったのを思い出す。
「黒でよかったな、制服」
記帳している先生を待ちながら、田崎くんが言った。
安西先生は喪服に着替えたけど、あたしたちはそんなものないので制服で来た。お通夜は黒服じゃなくても大丈夫だっていうけど、やはりこういう場では浮いていないか気になってしまう。
――美香はどこにいるんだろう。
そう思ってあたしは首を巡らせる。すると、同じ学洋高校の制服を来た女の子三人と一緒にいる美香を見つけた。
見覚えがある、チア部の子たちだ。三人の顔をくまなく見回して頷きながら、美香は何かを話している。そして三人が焼香に向かうと一人になったので、あたしは美香のところに駆け寄った。
「美香」
少しびっくりした様子で美香が振り向いてあたしを見、そして後ろから来田崎くんを見た。
「来てくれたの、田崎も」
美香はワンピースの喪服姿だった。
いつもてっぺんでよくおだんごに結っている髪は今日は低い位置でまとめて、いつも力を入れてるアイメイクどころか化粧ひとつしていない。格好だけでもいつもと別人みたいに見えた。
「ごめんね、ありがとう」
よそ行きの口調で美香が言った。
顔が青白い。控えめな照明のせいかもしれないけど、寝不足のようにげっそりした様子だ。いつもの天真爛漫な美香の面影のない、生気のない顔だった。
「先生も、ありがとうございます」
記帳から戻って来た担任に頭を下げて少し言葉を交わし、美香は慌しくまた後で、とその場を離れた。
「――忙しそうだな。……そりゃそうだよな」
黒い着物を着た女の人――お母さんだ、のところへ戻った美香を見送りながら田崎くんがぼそっと呟くように言った。
「うん……」
仕方ない、わかってる。だけどもやもやしていた。
あたしは今、すごく嫌な顔をしているんだろう。
お焼香にいこうと先生に言われ、あたしたちは葬儀場に並べられたパイプ椅子の間を進んだ。
ぼろぼろと、あたしの中ではがれたものが幾つもの硬いおはじきに変わった。
焼香をすませて、あたしたちは外に出た。
先生は美香のお母さんに挨拶に行ったので、その間入り口で待っていることにした。
「なんか」
弔問客が出入りを繰り返す扉を見つめて、田崎くんぼんやりと言った。
「こういうのって、どうしたらいいかわかんないな。さっき鈴木が来た時、何も言えなかった。「ご愁傷様」て軽く言うのも違う気がした。あいつ、やたら気張ってる感じがして」
――あたしも同じだよ。
入り口付近の壁にもたれかかって、あたしは寒さを感じて巻いたマフラーに顎を埋めた。
「俺、葬式って一度も出たことないけど、遺影見ながらさっきちょっと考えちゃった。もし親父が死んだらって――うまく想像出来なかったけど、想像出来ないくらい辛いよな、きっと」
田崎くんも、さっきの美香に違和感を感じたんだろう。
美香の目に涙の跡はなかった。てっきり泣いているかと思ったのに、赤くなった様子もなくて。でも無理をしているような気はした。
「……うん、そうだね。つらいと、思う。あたしもお母さんが死んだ時、どうしていいかわからなかった」
おぼろげに覚えてる。
お葬式の時はあたしは多分泣かなかった。
でもしばらくして「もうお母さんに会えないんだ」とふと気付いた時、悲しくて仕方なかった。
「毎晩夜泣いてたような気がする、ふとんの中で。自分の一部がなくなったような気がして」
「……お母さん亡くなったの、小さい時だったんだよね?」
「うん、だからあんまり覚えてないんだ。今はもう、新しい家族も出来たし立ち直ったけどね」
月日が流れるうちに、お母さんの死はあたしの中で穏やかなものになった。
だけどあの時感じた痛みだけは忘れない。
ずっと消えない傷のように刻み込まれている。
「透子、田崎」
駐車場で交差する車のクラクションに気をとられて顔を上げた時、名前を呼ばれた。振り返ると、手に数珠を持った美香が立っていた。
「今日はほんとわざわざありがとうね」
頭を下げられて、田崎くんは「いや……」と目線を上げ下げしながら首の後ろを掻いた。
「来てよかったのか……わかんないけど」
「ううん、そんなことないよ。部活休んで来てくれたんでしょ。透子もありがとね、それしか言えないけど」
いいよ、とあたしは首を横に振った。でも毛玉みたいなもやもやがそれで終わりにさせてくれなかった。
「でも、どうして一言も言ってくれなかったの?」
美香があたしを見た。
そして田崎くんに「ちょっとごめん」と両手を合わせ、あたしの腕を引いて駐車場の脇にある植え込みの近くへ連れて行った。
「――言わなかったのは悪いと思ってるよ。ほんとにごめんね」
素直に美香が謝る。入り口からもれてくる薄明かりでしかわからないけど、真剣な顔付きだった。
「……ちょっと嫌な気分だったよ、B組の沢井さんから初めて聞いて。美香、あたしに何も言ってくれなかったから」
「……安西とチア部の部長とかにしか言ってなかったんだ」
美香はもう一度ごめんねと言った。でもたった一言“ごめんね”で済まされてしまうのはしゃくだった。
「あたしたち、友達でしょ? 美香よくあたしに言うじゃない、悩みがあったらいつでも相談しなって。それはあたしも同じだよ? そりゃあ聞くことしか出来ないけど……、ちょっとくらい頼ってほしかったよ」
親友なら。
なんでも言えるのが親友なんじゃないの?
楽しいことだけじゃなくて辛いことも悲しいことも、分かり合える仲なんじゃないの?
美香はあたしとの間に線を引いていたんだ。あたしのことには踏み込んでくるくせに、自分のところには入れないように。
――そんなのずるい。
「ショックだった。あたしって信用できないのかなって。美香はあたしに本音で接してくれてなかったんだね」
「そんなつもりじゃないよ、ほんとに――」
「じゃあなんで隠してたの? 水くさいじゃない。あたしだってお母さんをなくしてるから……気持ちわかるよ。軽く思ったりしない」
こんな状況で吐き出すつもりはなかった。けれど、さっさともやもやをさっさと外に出したくて、あたしはその欲求に従ってしまった。
「裏切られたような気がした」
美香が俯いた。いつもは絶対にこんな落ち込んだ素振りを見せない美香が。沈黙の圧力の中で、あたしが言い過ぎたことに気付いた時、美香が「じゃあ」と声を震わせた。
「透子は言える? “もうすぐお父さん死んじゃうの”なんて。“もう助からないんだ”なんて。隠してたわけじゃないよ。口に出すのが怖かったんだよ。言った分だけ、本当にそうなっちゃうんじゃないかって――。少しでもまだ大丈夫だって思いたかったんだもん」
潤んだ美香の目が車のライトに反射した。あたしは息をのんだ。
「簡単にわかるなんて言わないで」
叩きつけられた言葉にあたしの全身が硬直した。
ひんやりとした冷たい夜風がかすめていく。
美香はあたしの脇をすり抜けて行ってしまった。
足元を蝋で塗り固められたみたいに動けなくて、あたしはその場に呆然と立ち尽くした。