博士
ぎゅうぎゅうに押し込まれた列車内はその人いきれとストーブの熱気でもって、乗客らの身内をジュクジュクと熟していった。座席にも通路にも齢めいめいの人間が場を占めていて、駅に到着するまで身じろぎのまるで許されぬ不快な温室であった。上品な客が居よう筈もなく、田舎の貧しい人々の衣服から何とも埃臭い渇いた匂いが立ち昇り、ストーブに熱せられては天井に吸い寄せられていく。各々の荷物をくたびれた身に引き寄せ、俯き、眠り、うずくまり、談話し思考し、彼らは皆つながりを持たぬのであったが、天井より落ちてくる饐えた熱気を吸って、静かに鼓動していたのだった。
車窓のみぞれ吹雪はただ吹き荒んでいく。灯火の一切窺えぬ真っ暗闇の雪片が喩えて蛇鱗めいていたが、それをいついつ押し上げて闇の向こうから妖怪どもが現れるものか、誠に気味の悪い眺めであった。雪片が奇怪な表情を作り出しているかにも見えた。
そろそろ眠りの時刻であった。車内のあちこちより雑魚寝の知らせが届いていた。歩き、働き、たいして儲からぬ現実に、しかし夢においてだけは精一杯贅沢してやろうと鬱憤を述べ立てているようである。或る学生は愛読書を顔に乗せて、仰ぐように眠っていた。知的野望の世界のみを見つめていたいのだろうか――。
それを引っペがして、隣の男が言った。
「あら、『社会構造の変革と改築』ねえ。そんなもん、牛の餌にもならんわ」
男は大層だらしのない縒れた髭モジャを汚すのも構わずに、椀を口に傾けた。そうしながら、ひとしきり頁を繰ってその本を確かめてしまうと、また遠慮なしに眠り学生の面へと被せてしまった。
この髭モジャの名はイチガキ博士と言い、そこそこに有名な某大学の教授であったが、「有名」であるところの悪評ぶりがたたって学舎より追い出されていた。ごま塩頭を丁寧に撫でつけ、照明がなくともオイルで光り出している様は、どこぞの初老紳士風だった。黒のモーニングを着こなして居丈高だが、体格面で言えばそれほどの好男子ではない。痩せぎすの手足はステッキのように硬く細く頼りなく、女性の背丈にも及ばなかった。
彼・イチガキ博士は椀の中身を呑み干しては、向かいの席にちょこなんとしている小僧に酌をさせていた。それを受けて少々困り顔で給仕する子供は彼の助手である。短気で人を選ぶ博士の唯一の話し相手でもあって、今もこうして飽きもせず嗜好する「味噌汁」をトクトクと給仕しているのであった。歳にして十才ほどの年少は、何やら感心したように言い出した。
「そうでございますねえ、先生の御講義を拝聴しましたならば、きっとよりよくお分かりになられるでしょうねえ」
「当たり前である」
と、博士。
「社会構造なんてものを海千山千学んだところで、何ら得ることなぞ有るものか。儂らの目にしている現実というやつ自体が実に信じられぬのに、ここへきて社会学者の言葉尻を追い回したところで、何の形も成さぬ」
そうして博士は赤い椀を掲げ、小僧へ示すように車内のぐるりを描いてみせた。
「君よ、見たまえ。この有象無象の人間機械達を。哀れむべき現象、忌むべき運動、逆襲された在りし日の時間の主人達だ。意向がどうであれ、彼らは立ち止まることが相かなわぬ。素晴らしき日々は勝手に過ぎ去り、苦しき日々にいつの間にやら突入してしまっている愚かさの限り。これこそ、社会構造の成れの果てだ」
博士と小僧の他に起きている者は居なかった。皆頭を垂れ、沈黙している。口を挟む者もいない。
「誠に憐れむべき人間どもだよ、まったくね。ほら、あそこには回想装置が腰掛けていて、その隣の奴は運命製造装置さ、腹が膨れているだろう。身じろぎした奴は救われぬ過去装置だし、そいつは罪悪装置だ。居ても居なくてもどちらでも結構な、全くの不在な生命達だ。気がつけば産まれ死んでいる、そんな哀れな連中さ。消費される命」
小僧は掲げられたままの博士の椀に、爪先立ちで味噌汁を注いでやりながら、神妙な表情でグルリを見回していた。
「博士」
と、小僧はオドオドした目を鬚モジャに向けて、
「わたくしは重々博士の御専門を存じておりますが、博士のお力でその憐れな人達をお救いできませぬか。わたくしも博士の仰る哀れな連中の一人ですので、わたくしにも是非、救いのお手を頂きたいのです」
年少の言葉は一旦切れたが、博士は何も返事をしなかった。
「先生は学会でもひと際に先進的な学説を唱えていらっしゃいます。博士の御専門であらせられる『ユートピア研究』は人々の至福が永遠に続くための学問であらせられます。先生の仰るとおり、わたくし達の回りの人々は苦しく辛く、明日の幸せですら望めぬ言われなき罪人でございます。わたくしもいずれは、手遅れになるやもしれません。恐ろしゅうございます。博士が今日お仕事場で熱弁されましたことは、わたくしには大変に感動でして……残念ながら職場の皆様方に理解の得られぬままのお別れとお成りでしたが、先生にお仕えする者としていたく感激致しました。何卒、先生のお救いを御教授下さい。わたくしも今のままでは、やがて生命の檻にからめ捕られてしまいます」
博士の膝にとりすがる小僧を、彼はうっとうしそうな芝居がかった仕草で「邪魔だ」と払ったが、得意そうにサイの産毛めいた髯を引っ張ったり絡めたりしているところを見ると、まんざらでもないらしい。
「うん、君は儂のそばに居るから、儂の優秀な学説についても飲み込みが早い、感心するよ。大学連どもとは段違いに頭が柔らかい、柔軟だぞ。儂の体系を理解しようと志すなら、まず頭の柔和な奴でなくてはいかん。次いで現実というものが錯覚の集大成であり、それは儂らにとって毒でしかならんこと……ちょうど酸素のように成長するための毒だと識る事から初める。成長は老いであると言い換えても構わん。歪曲とも言って差し支えないぞ」
博士は味噌汁をまた飲み干した。
「儂は、研究を完成させたのだ。無論シタと言い張るのだから、その実践もすでに済んでいるのだ。儂がなぜ、この難解極めた永遠の謎に切り込んでいったのか、君に分かるかね。儂はなあ、現実と呼び習わしているアレの最低要素にことごとく破れ、泥を舐めさせられた。周囲の人間どもはただ笑うばかり……空想好きな少年であったから、儂はこの皆を罪人にさせる現実とやらの空隙を見つけようとしたものだ。確かに違和感は少年の心に感ぜられていたから、自分にしか発揮できぬような特別な感性をもって探し続けた。
――まず儂は世界中の神話を調べ上げた。そこには世界の秘密とあらゆる快楽と一緒に、悪という名で語られた原理の逆襲の予言や、死こそが真に偽という事、そしてそれらの文言の果てに存在していた夢の正体をも暴きだし、それが世界で最も容易に解釈できる記号として、誰にでも理解できるものとして存在している事を祈りつつ、かの印探しに没頭した。
――事実、儂は書物から書物へと、宇宙から博物世界へと、卑金属から貴金属へと、ヘンゼルからグレーテルへと、薔薇城から地下のヴィーナスへと渡り歩いたのだよ。様々な戦士、罠、盗賊、呪術、秘法、逆説、男女、天地が逆巻き、儂を苛んだものだが、すでに儂にはその印が何であるか、分かっていたのだよ。君もそれを視れば、永遠の世界へと帰る筈だ。やがて排泄される母胎なんかよりも、よっぽど自由であるのだから」
「本当でございますか」
「馬鹿者、嘘ついたところで何にもなりゃしない。儂は現に、もう永遠の世界を手に入れたのだ。今ここに居る儂は、気まぐれに現実とやらを高みの見物しているに他ならぬ。お前は見たところ、この秘密を理解し得るだけの素養があるから、お前にも永遠の桃源郷へつながる、その印というものを視せてやろうじゃないか」
と、イチガキ博士は懐に手を突っ込むと、もったいぶらずに球形の板を取り出した。透明な材質で作られたそれは二寸ばかりの厚みをしたもので、白と黒の渦巻きが板の中心に向かって落ち込んでゆくように描かれていた。板に黒白の紙を貼り付けて、回りを厚みのあるガラスで丘状に覆ったような代物である。
小僧が奇妙に見詰めていると、博士は裏面や側面を代わるがわる見せ始めた。
「これはな」
と、狂人博士は言いました。
「螺旋というものさ。ここの中心を見てみろ。この渦巻き螺旋は白と黒の縞模様を実際に回転させぬままに、その中心へ流れ込む動的なものをも、同時に体現している。ここに儂の成果が結集しているのだよ」
「先生……確かに中心へと流れ込む図柄でありますのに、動いておりませぬ――」
「そうだ、そうだ。静であり、動である。全ての因果・運動はたったこれだけの、しかし原点の存在によって解決したのだ。そして、世の中の全ての物質・事象・現象はそれらとともに、全て男女の性で成立しているのだが、それが白と黒なのだよ。四つであり、また無限有限でもある螺旋の中心こそ、我々が永久に留まり続ける事のできる理想郷、時間を忘れた少年少女の楽園なのだよ。
――望むものは何だって揃っている。欠乏などない。自身の好むあらゆる時間・空間・場所・人間が何だって在るのだ。生きたいように、生きられる。人間として必要な自由も夢も束縛も、無いものは無い。即ち、全てが在るのだ。
――さあ、君も出かけるのだ。イヤイヤ、真に目覚めるのだ。生きていたいと思惟する世界こそ、その世の誠なのだ。さあ、渦の中心を視たまえ。ほら、ほら、ほら、ホラ――」
「ああ、先生、回りの人達が全て溶け込んでゆきます、僕の顔に向かって。アア、色が在るのに色が無い。眠いような、そうでないような……。ああ、そうだ、姉さんのために朝ご飯を作らなくちゃ、姉さん喜ぶかなあ、新しい賄いを考えついたから……。全てが金色に染まる……」