最初の出来事 前編
「ミヤワキコウキ」について、さやかが語るためには、順序が必要だった。
最初の出来事。
あれは、中学三年の12月のことだった。さやかは、しょんぼりした足取りで下校していた。年明けには受験だというのに、期末試験の成績が、志望校に入れるかどうか微妙な点数ばかりだったからだ。
冬特有の恥ずかしがりやの太陽は隠れ、夕闇が一気に迫る道。そんな寒々とした道を、さやかが肩を落として歩いていると、公園の前で不思議な光景を目にした。
「お願い、あなたでなきゃ駄目なのよ!」
悲痛な声で男にすがりつく女性に、さやかは思わず足を止める。
痴話げんかだろうかと思って、目を細めてよく見ると、すがりつかれている男はクラスメートの宮脇幸喜ではないか。
「あなたがいなければ、私は死んでしまう。お願い、私と一緒に来て!」
「ちょっと落ち着いてくれよ」
クラスメートの幸喜は、ずっと坊主頭をちょっと伸ばしたくらいのツンツンの髪形だった。既にこの頃から図体がデカかった彼は、大人の女性の前に立っていても、これっぽっちも見劣りしない。野性味を帯びた顔立ちが、彼を年より少し大人びて見せるせいもあるだろう。
しかし、幸喜はこの図体を生かす部活はせず、秋の文化祭で引退するまで、活動が週に1、2度の書道部に所属していた。身体は家で使うから学校では違うことをしたいと言っていた幸喜の家は──運送屋だった。
朝早くから親にコキ使われていると聞いて、さやかは親近感を持ったものである。自分と同じ、早朝族がいた、と。
そんな幸喜が、女に迫られている図に、さやかは首をひねった。口を挟みづらい空気だが、どうにも妙な雰囲気だったのだ。色気があるという意味とは、逆の方角に。
「あなたがいないと駄目なのよもう。一晩でもいいの、一晩だけ私と一緒にいて!」
色気のある空気であったら、即座に彼女が退散したであろう言葉が、しかし一切の艶のない悲鳴で幸喜に向けられる。そんな女性の上にある幸喜の顔は、「どうしたもんか」とでも言いたげに、空の上に視線を投げた。
その視線が降りてくる途中で。
さやかと目が合った。
げっ!
思わず彼女は、両手を胸の前で左右に振った。「大丈夫、何も見てない」アピールだったのだが、目が合った状態でそれは何の説得力もない。幸喜に悪いと思い、彼女は視線をそらして立ち去ろうと足を一歩踏み出しかけた。
「おーい、山下!」
しかし、そんな彼女は呼び止められる。宮脇幸喜自身によって。
あちゃー。
そこでさやかは気づいたのだ。彼が、この件について第三者の介入を必要としていることを。
要するに──困っていたのだ。
※
「この人の船が、ぶっ壊れたらしいんだ」
「はあ」
外灯の光の下。
夕暮れの公園のベンチに、三人座っている姿は、奇妙なものだった。真ん中の女性は、前に倒れるように頭を抱えていて、そんな彼女の上で、幸喜とさやかが会話を交わしているのだから。
船か、とさやかは近場にある港を思い出した。彼女の両親が働いている場所であり、おいしい魚が水揚げされる場所でもある。
「それを直すのに、俺に来て欲しいっていうんだけど……」
「宮脇くん、船の修理なんか出来るの?」
「いや……まったく」
言葉に困った彼が、二人の間でひしゃげている彼女を見下ろす。さやかもそれに釣られてしまった。
しかし、どう見ても彼女は漁業関係者には見えなかった。真っ青なコートはボタンも留めずに開け放され、内側の蛍光イエローのシャツが目に痛い。とどめがド紫のタイトスカート。長い黒髪をひとつで後ろにしばっているその姿は、普通の大人のお姉さんにしか見えない。服の色のセンスの悪さを除けば、だが。
奇抜な色彩感覚を持つ女性は、そこではっと顔を上げた。幸喜とさやか、同時に顔を引く。そうしないと、彼女の頭にアッパーカットを食らってしまうところだった。
「そうなのよ、私は自分の船が直らないと帰れない……君、私を助けて!」
さやかの存在は全無視で、彼女は再び懸命に幸喜の方を見て訴えかけ始める。
「だから、俺に修理は出来ねぇって」
「そんなことは知ってるわ! 直すのは私よ! あなたはただ、一緒にいてくれればいいの!」
後ろでしばった彼女の髪が、しっぽのようにゆらゆら真っ青なコートの背中で揺れるのを、さやかは苦笑いをしながら見ていた。変人か変態か、はたまた異常行動者か。支離滅裂な発言に、彼女もさすがにそう思いかけていたのだ。ただ、相手が女性であることと、ここには幸喜もいるので、不安感は薄かった。
「どうしたら頼みを聞いてくれるの? お金? それともこの子を人質にとって脅せばいいの?」
しかし、さっきまで全無視されていた女性に、いきなり腕を回されて肩を抱き寄せられると、さすがに身が竦む。予想外に、その女性の力は強かったせいだ。
「おーい、ネェさん……シャレになんないからそれはやめとけ」
すぐさま立ち上がった幸喜の大きな手が飛んできて、女性の手をさやかからもぎはがす。
デカイ男に座った状態で見下ろされるのは、非常に迫力がある。見下ろされているのが隣の女性だと分かってはいたが、さやかまで一緒に小さくなりたくなる気配が、幸喜からは漂ってきていた。
「話なら、ちゃんと俺が聞くから……最初から説明しろ」
少し低められたその声に気圧されて、女性が大きく何度も頷くのと同時に、さやかも何故か同じように頷いてしまったのだった。
※
「私の名前は、イナ……違う世界から来たの」
あ、この人、ヤバイ人だ。
さやかは即座にそんな目で、前に立つ幸喜を見上げた。彼もすぐにそれは理解してくれたようだが、ひとつ頷いた後、唇の前に人差し指を立てた。彼女の発言を遮らずに、全部出させようとしているのだろう。
「時空間を跳んで移動する船が、この世界の側で突然故障して、何とかここに不時着したんだけど……このままじゃもう跳べない……」
しゃべっている内に悲しくなったのか、イナの声は半泣きになる。
そんな彼女の唇から、切々と語られるその後のことは、さやかが「うわぁ」と言いたくなるものだった。
オーバーホールに出した直後の船の配線が、間違ってつながれていたのが故障の原因。それに気づいたイナが、苛立ちまぎれに船の壁を思い切り蹴っ飛ばしたら、強化靴を履いていたのを忘れて壁に穴を開けてしまう。修理箇所が増えたと、彼女がべそをかく。
穴をふさごうと、壁修理の粘着系スプレーを振ったら、うっかりそこに手をついてしまい手まで一緒に粘着されて、彼女はそこにしばらく縫いとめられる羽目になる。ぐぎぎと身体を懸命に伸ばすも、何も助けになるものをつかめなかった彼女は、泣く泣く再び壁を蹴る。手の周りの壁を蹴って穴を開け、壁ごとその手を外したのだ。その代わり、船には更なる大穴が開いてしまったらしいが。
再びスプレーでふさぐことは出来るが、また身体がくっつくといけないので、イナはその作業を後回しにし、つなぎ間違えられている配線を直そうとした。しかし、配線は整備士に固定化(?)という処理がされており、勝手に変更出来なくなっていた。イナはちゃんと整備に出す時に「私は自分でいじくるから、固定化しないでくれ」と言ったというが、どうやら手違いで願いは聞き入れられていなかったようだ。
「固定化を解くには、パスワードを入れなきゃいけないんだけど……それが分からない」
パスワードは、100京通りあると言われて、さやかはつい指を折った。確か、兆の上の単位だったな、と。気が遠くなった。
「整備士に問い合わせようとしたのに、この世界は時空壁が厚いらしく、まさかの不通だったの。こんなことは、滅多にないのに」
あああああと、イナは頭を抱える。
「どうして私はこんなに運が悪いの……幸運計測器の値は、毎日マイナスに振り切れてるし。幸運増強剤を通販で買ってみたけど、一向に数字が上がりもしない……ああ、あれはインチキだったのかしら、高かったのに」
「幸運計測器……」
イナの言葉がどこまで真実であるかどうかは別として、その中に気になる単語があって、ついさやかはそれを拾い上げてしまった。占いマシンみたいなものだろうかと、反射的に空想してしまった。
「ええ、ポータブルならここにもあるわ……」
打ちひしがれたまま、彼女はコートのポケットからスマホサイズの何かを引っ張り出す。普通のスマホと違うのは、すべて透明で向こう側が透けて見えるのだ。ただのアクリル板ではないことは、彼女の指先で液晶画面のようなものが現れたことで分かった。
「「おお」」
つい二人して、驚きながらその端末を食いいるように見つめる。幸喜も、結構機械ものに興味があるのだろう。
「船についてる方が遠隔探査も出来て性能がいいんだけど……ここに、右手の人差し指を押し付けるの」
「や、やってみていいですか?」
さやかは、つい自分の人差し指を立てて見せた。どうぞと端末を差し出され、彼女はどきどきしながら自分の人差し指を、端末の画面に押し付ける。
ピッと、次の瞬間指をつけている周囲が赤く点滅したかと思うと、外側に向かって広がって行った。画面の幅の真ん中ほどまできたら、それが止まる。
「赤はプラス……あなたは今、ほどよく幸運ってこと」
イナが解説をしてくれたが、さやかはちょっと不満だった。何というか、おみくじで「中吉」だった気分だ。悪くはないと分かっていても、物足りない気分はどうしても拭えない。
「宮脇くんもやってみたら?」
自分だけやるのも不公平な気がして、彼女はそれを幸喜に勧めた。もはや、異世界人とかどうでも良くて、ただの占いごっこと化している。
「んー」
あんまり占いは得意そうではない風に自分の首を一発パシンと叩き、幸喜はさやかの次に人差し指を押し当てた。
次の瞬間。
ピーーーーッとけたたましい音を立てて、画面中が真っ赤に染まった。さやかは、警戒警報かと思って慌てて周囲を見回してしまった。
その音が消えた直後、思わず彼女は幸喜と顔を見合わせる。その二人の顔の間で、イナが大きなため息をついた。
「分かったでしょ……この少年は、この世界でも稀に見る超幸運の持ち主なのよ」
いま私に必要なのは幸運なのと、イナは端末にぽちっと自分の人差し指を押し付けた。
ブーーーーッとけたたましい違う音が流れ、画面中が真っ青に染まる。
さっき、イナはこう言った。
赤はプラス、だと。
ということは。
青は──