右の橋、左の橋
はい、どうぞ。と、死神が右手と左手のどちらかを選ばせたのなら。きっと、それは最後の選択のことなのだろう。
しかし、差し出されたものは生や死ではなく、白い軽石と黒い鳥の羽である。両手にそれらを持っている人物も悪魔や天使という威厳を輝かしておらず、ボロを被った普通の女性だ。
聖書で描かれる天使は人に化けているらしいが、それでも彼女は違うだろう。死の化身が化けているにしても、神の使いが舞い降りたにしろ。もっと神話的な揶揄を引き連れてきそうなものだ。
「右か左か。どちらか選べ」
物事は選択の自由という民主主義的な考え方に見えるが、所詮は強者の手のひらにしかないという隠喩だろうか、考えすぎだろうか。
「早くしてくれ。ええと、旅人。男。名前を知らない誰か」
「呼ぶなら統一させてください。お嬢さん」
「仕方ないじゃないか。私は一々通りがかる人間なんて覚えちゃいられない。旅人なんてそう珍しくもないもの」
「自分はここを通るのは初めてですよ、お嬢さん」
「お嬢さん、は止してくれ。私はジル。双子橋のジル」
「ならばジル。私のことはローマ人の男とでも憶えください。どうせすぐ忘れるのなら、ちょうどよいでしょう」
ジルは、ふむ。と頷き了承した。
「なら、ロウ。と呼ぶことにする。あと、私のことはさん付けで呼ぶがいい」
「そうですか。ジル、さん」
名乗らせておきながら至極自然に改名させられたことにも、さん付けを要求されたことにも微塵も不満はない。ただし、少し遺憾ではあった。
ロウはそのようなくだらない憤りを毛ほども相手に悟られることなく、ビジネスの笑顔で応じる。するとジルは何を勘違いしたのか満足そうに胸を張った。
「右か、左か。それだけだ。けれども慎重に決めてくれ。この両手には国の重みが乗っているのだから」
双子橋、と呼ばれる象徴的な橋が一つの帝国と一つの公国の間にあった。特に公国側の人間からは親しみをこめて二つの橋をそう呼んだ。
昔から自国の資源だけで自給自足できた帝国と違い。海と帝国に挟まれた半島に存在した公国は交易と人の往き来、生活と娯楽の要素をその二つの橋に依存してきたわけだから、必然の帰結と言えよう。
一つの橋は、山の橋。隣の橋よりも古くにできた木製の橋であり、名前の通り山沿いを行く道に繋がっている。橋もその先にある道もせまく。交易の荷馬車が通るにはいささか険しい交通要所である。
山越えとなる道には四季折々の林が立ち並び、春ともなれば華吹雪の道となり、夏となれば緑深く、秋は紅葉で山を染め、冬は白い化粧をする。半刻ごとに野獣を見かける獣の道といえど、通らぬは損と旅人にまことしやかに伝わっているという。近代化のあおりを受けて、山には開拓という人の手が入り、広く深い数少ない自然なそうだ。
もう一つの道は、海の橋。石造りにとって基礎部分を強固にし、幅の広い橋と道に繋がっている。荷馬車が動くにしても苦労はしない平坦な道が続くため、山を避けた迂回路が多く、公国に着くには若干距離がある。
海洋から流れてくる潮の香りを楽しむ旅は贅沢であり、贅沢過ぎて身体を壊すと公国の人間から笑い話になっている。旅の長さと風の冷たさを考えれば、そういう通説も広がる。陸路を行く商人や旅人にしては、慣れない潮風に長時間さらされると苦痛になるそうだ。そんな二つの橋を遠方から眺める分かれ道で、ロウは双子橋のジルと呼ばれる若い女性に出会った。
ジルは年頃の町娘、という感じの年なのだろうが、その格好は全く異なるもの。双眸は封建社会の成人騎士のように確固たる使命を帯び。着衣は民俗的な物で、フードの地味さと対比させた鮮やかな糸の装飾を身にしていた。
ジルは袖先に提げた紅と黄と紫の腕輪を人差し指と親指で玩び、客人であるロウにはまるで関心なさそうにしていた。
「双子橋の話は帝国でもよく耳にしていましたが、こんな場所に、ジルさんのような女性の方がいるとは思いもよりませんでした」
「珍しい、って通る人はいつも言う。私にはこれだけが日常で、他は知らない」
「ええ。こんな場所に一人で、それも女性だとしたら噂にならないのが不思議なくらいでしょう」
「そうかも」
ジルはそっけない返事でロウを相手にしていた。話にも乗り気ではないのか目も合わせず。私は忙しいから、と言わんばかりに腕輪をいじっている。
そのくせ、ジルはロウの一挙一動を見逃しはしない。ロウが顎髭を撫でようと右手を上げただけで、ジルは半歩ほど横に退いた場所で警戒心をあらわにする。もしもロウの腕がジルを組み伏せようと伸びたとしたら、彼女は絹のシーツのように指の間を滑りぬけて逃げていくだろう。その警戒心から、こんな所で一人暮らしというのも楽ではない証拠だ。
和気あいあいに話す。など、利害の上では邪魔なだけ、と。
ちょうどよく日も暮れかけ、ロウは野宿のために野営地を確保したい以上、さっさと寝床に着くべきだと判断した。
その前に。ロウは帝国の店で買った晩飯を召し上がることにした。旅のさなかでは節制と保存のきいた携帯食が基本というが、どうも人間と言うのは食欲という最大の欲求には耐えられない。
ロウが買った料理には、帝国の港で水揚げされたという『カニ』と名付けられた赤い甲羅を被った蜘蛛のような生き物を使っているそうだ。堅く気味の悪い外装に反して、中に詰まった赤と桜色の肉は、魚とも牛とも違い、果実のような柔らかさとそれ以上の弾力がある。ロウが受け取ったのはその身をほぐす程度に茹でて、『スメシ』という名の異国の主食に乗せた料理だそうだ。スメシの上には他にも赤い真珠のような海鮮も乗っている。
ついでに蒸したロブスターも加わり、旅の上ではめったに食べられない物を揃えてしまった。懐の心配がないというのは非常に美味なものである。
フロシキという白い包装を解き、木箱のフタを開ければ、辺りにスメシの独特な香ばしさが広がった。
「… …!」
その様子を注視していたジルは驚きの色を隠せずにいた。それもそのはず。この『カイセンドン』なる食べ物は異国の地から帝国の土に足を踏み入れた料理人が特別に作った郷土料理。この辺りの旅人や商人の貧相な携帯食糧などとは比較にもならない魅力と異彩を放つのだ。
ジルの目はカイセンドンの上に光る赤い真珠にも負けないくらい輝いて、喉をコクリと鳴らした。
ロウはそんな物欲しそうなジルの目を無視するわけにもいかず。
「そんなに欲しいのですか」
と、訊いてみた。
ジルは飢えた獣のような顔を鋭く向けると、縦に首を振った。
ロウはそんなジルの反応が意外だったのか。彼女にカイセンドンを勧めてみた。
「なら、一口」
どうぞ。と言い終わらないうちに、ジルはカイセンドンの箱とフォークをロウの手から奪い取る。腹をすかしていたのか。街の野良犬みたいに飯にかぶりついている。
ジルは一通り食べ終えると、喋る方の口を開いた。
「うまい! この白いつぶつぶみたいなものの味は好きになれないけど、このピンク色の肉が上手い。ん、魚かな? いや、そんなことよりも食べ合わせが良い。白いのだけじゃ、少しも食べられないけど。二つ合わせると違う。うまい。こんなもの食べたことがない」
「それは、そうですよ。これは遠い異国で食べられる珍しいものですから。今の帝国は交易によって自給するような依存型の国家体制のせいもあって、外の国の食べ物は幾らでも手に入ります。もちろん、金次第ですけど。自給する食物もまともに備蓄できないくせに、貴族や豪商はどんどん肥え太るばかりです」
「そうか? 金持ちの金払いがよければ、金は下の者にも回ってくるから喜ばしいことだと思うけど」
「少しは経済の方も心得ているようですね。でも、それはまともな国家での話です。交易は一部の商人だけが牛耳り、国のトップがそれを手助けする。分かりやすい、腐敗の体制が出来上がっています。幾ら市場が賑わおうと、安い賃金で働かせる国民は高い交易品には手が出ず、裕福層だけが得をしているのですから」
「ふーん。あの帝国がそんなことになっているのか。最近は帝国のことも公国のことも話そうとする人間がいなくて知らなかった。それにちょっと不安だった」
「不安、とは何ですか?」
ジルはいつの間にか半分くらいまで食べ終えられていたカイセンドンを、ロウに返した。
ロウは中身を見て、苦虫噛み潰したような渋い顔をしたが受け取った。
「お礼とまでは行かないけど、少しだけ昔話をしてあげる。これは誇り高い一族と、二つの国の話。聞きたければ聞かせてあげる」
ロウが何も言わずに頷くと、ジルはかたり始めた。
「それは、それは昔のこと」
とある帝国と、とある公国が干渉しすぎず庶民のレベルでしか交流がなかった時代。聡明なる公国の王が国と半島の盤石たる平和の礎を築こうと、国王自らと一部のお付き、親衛部隊を引き連れ帝国との交渉へと訪れた。大陸のほとんどを牛耳る帝国の若き王、帝王は半島の小国程度相手をするのもはばからしいという態度で、しぶしぶと会議に応じた。
面目を保つという目的だけで参加したこの会議は、後々どちらの国にとっても失策で在ったと称されている。
何故なら、帝王と国王だけではなく書記官や秘書官の他にいた国王の若く美しい妃がその原因となった。帝王は、その妃に一目ぼれをした。
若き帝王は、国王が半島の平和を成就させうる書類にサインさせようとすると、条件を出した。
貴様の妃を私の三番目の妃とするなら、戯れ言に付き合おう、と。
その言葉に怒り心頭の国王は同席していた部下達の制止を払い、帝王に対して侮蔑の言葉と千年の呪いを吐くと、いささか足踏みを強くして帝国から去っていった。
国王が帰国すると、待っていたのは帝国との戦争の危機という問題だった。自分が招いた不幸である以上、国王は理想と反対な戦争のための準備を始めなければならなかった。
軍備、国民の士気、諸々の資源の備蓄。軍備は半島を治める程度には揃っており、数を倍々に増やす必要はあるが急務となるほどでもなく。国民の士気も資源も、国王の一声で戦争を継続させうるだけの準備は可能といえた。
戦争に勝つにはどうすべきか、と模索することで更に一つの問題が提起された。
それは帝国と公国を繋ぐ道の問題であった。
道は戦略上、軍隊の進行や補給路の確保に重要とされている。それだけでなく、国の利益の一部である交易も、他国に援助を頼むためにも道は不可欠だった。特に一国の力では帝国が倒せないため、他の国の助けも必要となる。そのどれも道というキーがあってこそ。
国王はこの提案に際し、唯一公国と帝国を分断する大河にかけた二つの橋により、それらの問題を解決しようとした。
それは更に問題となってくる公国軍と帝国軍の埋めようのできない軍事力の差を解決する策だった。もしお互いが全軍を差し出すような短期的な戦争なら、奇跡でもない限り公国軍が負ける。ただし、公国軍が全軍で一か所を守り、領土の広い帝国が全国境に戦力を分散したらどうだろう。
つまり国王の狙いは橋一つを守ることで、こうした長期的な戦争に勝利する事だった。
そこで更に課題となってくる必要項目が発生した。単純な話だが、どちらの橋が壊されるべきであるかという選択だった。
国王は自分の英断でどちらかを選択しようとした。実際、そうすべきだったのかもしれない。ただ国王は民を想い、民の選択を己が成そうとする立派な、あるいは稚拙な国王であったため、どちらも選べなかった。
二つに一つ。この選択を決定させるため、ある臣下が提案した。
「国王様。私には、帝国に悟られることなく橋を利用する全ての人の意思決定を出せる名案があります」
ジルはそう言って、物語を結んだ。
「そうして臣下は、自分の階級や名誉さえも捨てて、ただの物乞いの様な姿になってまで橋を分かつ道の上に立った。右手に軽石を、左手に鳥の羽を。山の橋を行く者に軽石を、海の橋を行く者に鳥の羽を与えた」
「なるほど、どの道を行っても最終的にたどり着く場所は公国ですから、それらの集計によって多い方を選ぶ。と、いうことですか」
「そうそう。ロウは見た目の割には頭の回転速いな」
一言余計とは言わずに、ロウは適当に相槌を打った。
「でも、いいのですか。真相を話さなければ民間的な儀式とでもごまかせるのに、自分に話してしまっては意味がないのでは? まさか、自覚なく話しているのですか」
「そう思う? 私を侮らないでほしい」
ジルはすっと、ロウの腕を撫でた。ロウはジルの自然な手つきに抵抗する間もなく、服の上からもさぐられた。
「右の裾の中に、小型のボウガン。左にはおそらく矢筒。暗殺用の特殊装備だけど、帝国批判や持っている物が高価すぎる点を考えれば、帝国の偵察でも貴族階級でもない。かと言って、商人や農奴の階級でもない。したがって、帝国の敵対者の暗殺者や貴族階級か、同等の人間であることは明確であり、公国に馴染みの深い者であると推測できる。違う?」
「… …これは、驚きました」
旅人らしからぬ装備や品、注意されていなかった言動など。ロウにも失点は自覚できていたが、まさか裾の下に忍ばせた切り札までも見透かされるとは彼自身も想いもよらなかった。その上で、堂々と指摘して見せるジルは大胆不敵というか、尋常ならぬと言うべきか。
ここでロウが右手の必殺の武器を用いてジルを抹殺するという手もあっただろう。それ以前に、知られたからには、という立場であれば当然だ。
「だけどしない。する必要がない。でしょう?」
「自分には、何も申せません」
成否を眩ませるということは、そのままジルの言う言葉を肯定していた。
「もしかしたら、私と同じような人間なのかな」
「それも、言えません」
「つまらないの。私だけに喋らせといて面白くないし、ロウにとってはこれ以上の話しも意味もないのじゃないか」
「確かに、それもそのとおり。けれど、ここで話を逸らして興をそぐほど無粋な男ではありませんよ。もう少し、面白い話をしてあげましょう。それなら満足でしょう」
「えへへ。仕方ないな。それで手を打つことにしよう」
ジルは歳にふさわしい笑いをこぼすと、両ひざに両肘を付けて話を聞きいることにした。
ロウはふうっ、と一息をつくと。ジルが関心を持ってくれそうな、それなりの話を選りすぐった。
それは亡国の王子が国の荒廃をかけ、帝国と公国を駆け回り奮闘するという。真実味のない童話のような話。それにしようと思った。
話を終えたころには、もう日はとっくに尾根の向こうに隠れてしまい。その日の夜は枯れた木の枝で作った焚き火だけが足元を照らすような、月明かりの少ない夜だった。
暗くなった途端、ジルは話し終えればもう用済みとばかりにさっさと自分の宿に帰ってしまった。窓から見える光が消えたところを見ると、ジルはもう寝てしまったのだろう。
ロウはもう少し枯れ木を火にくべて、一晩絶えない焚き火を灯してから寝てしまうことにした。万が一のことを考え、消火用のバケツは家の外で見つけたヤツを拝借させてもらった。
「さて、と」
ロウは薪代わりの枝をくべ終え、焚き火の近くにあった切り株の上に座った。その周りは林から一本だけ丸太に使いました、と説明してくれるように影が吸い込まれるような深い闇の傍であった。
梟と夏の虫の囁きとざわめきが、木の葉を擦る音と同じように林から流れ出て、夜の住人らしさを醸し出していた。
そんな穏やかさの中に、異物が含まれていた。
「いい加減出てきてもらえます。うるさいですから、早く終わらせてもらいたいのですよ」
応える者はない。応える者がいたとしたら、それは見知らぬ旅人が誤解だと言い訳をしにでてくるぐらいだ。他の用心深い方の旅人や商人は簡単に姿を晒さないだろうし、もっと危険な輩は瞼を閉じてしまわなければ表れないくらい厳重である
「立った一人を、それも丸腰で鎮座しているというのに、帝国の間諜は盗賊以下に墜ちましたか。用がないならさっさと消え失せろ。犬ども」
語尾はガラを悪くして脅しをかけた結果、ロウが指していたであろう三人組が右から、左から、そして中央に、それぞれ一人ずつ。ロウの死角から亡霊のように林から浮き上がってきた。
中央の男、つまりロウのちょうど真後ろにいる顔と身体を布で隠した男が話しかけた。
「私たちが来た訳をご存じでしょうな。皇子」
「皇子なんてガラでもないから止めてください。第五皇子なんて、あってもなくてもいい地位ですから」
「いいえ、我らの帝王はそうお考えにはなっておりません。帝王は帝国の腐敗、人民の衰弱をひどく憂い。これからも起きる国の危機のため、新たな策を出された」
「どうせ、ろくでもないのでしょう。不穏な芽はつみ取っておくとか。そんな感じの。今も昔も、帝国の強引さには感服してしまいます。そのくせ人殺し程度で問題が解決できると盲信しているのですから、愚か過ぎて憧れてしまいそうですよ」
「なら。その憧れに瞼を焼き、焼死してくれ、逆賊!」
問答無用とばかりに中央の男が吠え、隠し持った大型のナタを振り上げ、ロウの後頭部を襲う。
しかし、ロウは溜めを作らずにあっさりと立ちあがることで、ナタは目標を誤って切り株に突き刺さり、止まった。
「暗殺者なら暗殺者らしく戯れ言よりも先に剣を抜きなさい、銃を抜きなさい。自分も、そのように振る舞いますから」
ロウは右手に提げた防火用のバケツを、苦労して作った焚き火の中に惜しげもなく放り込んだ。バケツは火に焦がされながら、自分の中いっぱいに詰まった水をぶちまけた。
辺りが急に暗くになり、視界が奪われた。中央から襲った男でさえ、闇の先に姿をくらませたロウに手が届かず、動きようがない。林と家の輪郭だけがやっと分かるが、人の姿は動きもしなければ気づけない。
その時になって、ロウはやっと目を開けた。
ロウの眼は切り株に座ってからずっと瞑っていたため、既に暗闇に慣れ、夜目が利くようになっていた。
輪郭だけでなぞられた家や林だけではなく、切り株の位置も、葉の一枚一枚が揺れている様も分かる。それに、三人の人影が棒立ちになっているのも見えている。
その、ただ一人だけが闇と友人のように不自由なく歩き、嘲笑を湛える。
それが人殺しをできる自分に変える合図。人殺しができない自分との別れ。
そして、ドブ底をさらった様な色をした曲線の剣戟が、魔を打ち払うような銀の直線が、一閃二閃と繰り返される。その音さえも、悲鳴に掻き消されてしまう。
血を払う赤黒いなごりが、弦を鳴らした余韻が、最後の一人を刺殺して殺人劇に幕を降ろした。
ほんの少しの出来事で、そこには生きていた死体が三つ出来上がった。
「本当に、柄にもないですよ。こんなの」
誰も、自分以外に死んでしまったのを確認して、ロウは一言二言を呟いた。抜いた剣は収められ、矢を放出したボウガンは袖の内に収納された。
ふと、我に帰ってみれば大変な事に気付いた。
「あー。これ、どうしましょうか」
これ、とは紛れもなく斬殺と射殺と刺殺された死体の事で、これらを処分する方法について、ロウは全く考えていなかった。
ほっといても別にいいのだが、ジルに与える心証を考えると、やはり死体をそのままにしておくわけにもいかない。
埋めるにしても三人分を土の下に入れるにはかなりの土の量を掘らなければいけないし、何よりも掘った土をどうするべきかという新たな問題が生まれる。そのことを考えるとこの策は得策ではない。
焼くにしても、悪臭は酷いだろうし、まずヒトを焼けるだけの木材を準備しなくてはならない。火種となる薪も湿気ってしまったので、新たに火を起こさなければどうしようもない。
二つとも廃案になったところで、ロウは「川に流してしまう」という妙案を思いついた。
川に流してしまえば残るのは血痕ぐらいで、準備も後始末も手間がかからない。死体を運ぶという作業は骨が折れそうだが、他二つにかける労力とリスクを考えればずっとマシであった。
「大切な友人を驚かしては、すまないのでね」
思い立ったらすぐやろう。とばかりに、ロウは死体に手をかけた。
夜は更けて、それでも次の朝は来る。夕日とは違う、活力のある朝日の日差しが差し込む頃。二人とも森の動物たちと同じように朝早く起き、それぞれ自分の仕事をこなしていた。
ジルは服を着替えると、自家菜園に向かった。
自家菜園とはいっても、自給自足するだけで精いっぱいの恵みしかもらえない面積程度しかない。ジルにはそれだけで十分と言った風に、木を切り倒してまで畑を増やすような無粋なことはせず、ジョウロ一杯分の水を巻く作業と雑草を引き抜く作業で事終えた。
ついでに赤く熟れたトマトをもぎ取り、傷がついている物は自分の食卓に、そうでないものを商人や旅人が来た時に備えて物々交換のために残しておいた。
久しぶりに贅沢な朝食を取ろうと、他の食材も収穫しておいた。
じゃがいも、にんじん、エンドウ豆、パセリ、収穫間近なナスの実は残しておいて、代わりに畑の傍で生えていたヨモギを抜いて持って帰った。
肉や魚は余りがないな。後で釣りにでも行こうか。と、ジルは竹のかごに新鮮な野菜とそれ以外を満載して家路に着く。
家の前まで返ってくると、予期したかのような偶然にロウと鉢合わせした。
「おはようございます。昨晩はよく眠れましたか」
「いや、外が騒がしくて中々寝つけなかった。畑に食いもの目当てで入ってきた動物かと思ったけど、私の窓のすぐ外がうるさくて驚いたよ。これも君のせいなのか」
「いえ、何分食料を奪われてしまったので少し狩りに。近くに大きな獣が三頭もいまして、手こずった訳ですよ」
「ふーん。まさか一人で全て食べつくしたはずはないでしょう。ここは一つ、朝食に招待されるという権利と引き換えに。獣肉を分けてもらえると、私は嬉しい」
「しかし、残念ながら余った肉の加工も保存もできず、持ち運ぶにも大きすぎるため、捨ててしまったのですよ。残念なことに」
「それは、酷い事をするな。それだけあれば、向こう一週間の肉料理に困らぬというのに… …」
「何ですか?」
「訊くな! ああ、もういい。ロウは私に朝食の招待された、という特権を肉と一緒に」捨ててしまったそうだからな。いいさ。一人で食べるさ」
「いいえ。それには及びません」
ロウは脇から二頭の野兎を取り出し、ジルに差し出した。
「兎鍋とやらは私も食べたことはありませんが、おいしいそうですよ。他にも兎のスープなんてものもあるそうですし、何にしろ。これで良いですよね」
漂々と言ってくれるロウに、ジルは呆れた顔して彼を家へ招き入れた。
「どうぞ。私のぼろい家で良ければね」
それから、ジルはロウが注文した通り兎のスープを作ってくれた。前菜にはヨモギとハーブの盛り合わせ、パンは圧切りのライ麦パンをスープに浸けて食べた。
ジルが言うには、「カイセンドン」とやらも上手かったが、やはりその土地で取れた物をその地で食べるのが一番だと語った。
ロウも同感だ、と野兎のスープに舌鼓を打った。
「自分はそろそろ、ここを離れようと思います」
ロウはヨモギの上に鎮座した輪切りのトマトを口に運んだ。
「いいじゃない。旅は速く終わらせるに限るし、長くいてしょうがない」
ジルは濡れたライ麦パンを噛みちぎろうと奮闘していた。
「だから最後に一つ君に忠告しなければならない」
「なんだ」
「パン切れが顔に付いていますよ」
「おお、そうか。忠告ありがと」
それほどでもありません。と断るロウを尻目に、ジルは黙々と食に集中力を降り注いでいた。
ロウは先に食事を終ってしまったのでスプーンとフォークを皿の上でクロスさせて置いた。
「自分はこれからここを離れて、公国に戻ります。きっと、もうすぐ戦争は始まります。そのころには君の役目も終わる。だから何が起こっても、ここから離れる覚悟はしておいてください」
「まるでロウが国の運命を決めるようだね。それを決めるのは私でもロウでもない。国王か、帝王だ。それに、覚悟なんて両親が死んだときからもうすんでいる」
ジルは食事の手を休めてはいないが、その両目は哀しみを通り過ぎた深い色をしていた。
「そういえば、この守り手の仕事はいつ頃から?親から引き継いでいるとは聞いていますが」
「一族の守り人の仕事は、もう私の代で三十一年だよ」
長すぎる日々を短と言いきると、また黙ってしまった。
ロウは訊くべきことを聞き終えたので、用意していた荷物を担ぎ、扉の前まで歩いた。
「あと」
ロウが扉のドアノブに手をかけたところで、ジルに呼び止められた。ロウは声に引き止められその場に留まった。
「カイセンドン。美味しかった。喋るのも久しぶりで、楽しかった。気が向いたらまた来いよ」
ロウはジルに気付かれないようにクスリと笑った。
「また、いつか」
扉が木製独特の軋みを奏でながら閉まる寸前に、その隙間から最後の言葉が聞こえた。
ロウは旅で汚れた服のまま、ソファーの上でくつろいでいた。旅の品は窓際にもたれかけさせ、中身が出された様子はなかった。
しばらくすると、部屋の扉を開けて白ひげをたくわえた老年の男性が入ってきた。
「久しゅうございます。若君」
「若君などという呼び方は止めろ。俺はそんな生ぬるい呼び方をされる生き方をしてきたつもりはない」
ロウは旅の時の様子とは打って変わって、自信と威厳に満ちた粗暴ともとれる言葉を使った。
「旅は苦労した。途中の村で馬を潰してしまってな。ここまで来るまで中々に大変だった」
「馬は便利ですが、なにぶん消耗品でございます。良い馬ではそのようなことはありませぬが、借りた馬などそのような物です。しかしそれを含めても、いささかゆっくりとした長旅でございましたね」
「ああ、帰りは双子橋を通ったからな。時間はかかったが面白いものを見れた。話には聞いていたが、未だに橋選びを続けているとは思わなかったな」
ロウが苦笑混じりでいるのに対し、執事は驚いた様子だった。
「そうですか。かつて仕えていた将はとうに天命をまっとうしたと聞き及びましたが、血筋は絶えておりませんでしたか」
執事は昔の友を思い出すように遠い目をして、その姿を脳裏に浮かばせていた。
「仕えるべき国もなく、存在意義も既になくなってしまっているというのに。公国の忠臣があのような場所で廃れていくというのは、まったく不義な話だ」
双子橋に忠臣が向かい、国王がどちらの橋を決めるか採決を取ろうとしたわずか数年後、公国は帝国の奇襲をうけてあえなく降伏した。
二つの橋がなければ一つを塞げば良いという考えを出した公国ではあったが、まさか帝国が進軍のための新しい橋を建造するとは思いもよらなかったのだろう。公国は戦争の準備はおろか、十分な軍備も防衛も施せないまま戦争を迎えてしまった。
奇襲を受けてわずか数日、公国は双子橋の忠臣に知られることなく、滅亡することと相成った。
「王も死に、妃も亡くなってしまい。公国の残された王族は若君一人だけです。帝国の血が半分流れていようと、正当な、公国の王は若君だけです」
「権利や正当性など知らん。ただ、国を治めるという野心と国をとれるという時の利があれば、それで十分過ぎる理由だ」
「そうでございます。そうでございます」
そして帝国が滅びた後、妃は帝国の王の側席としてロウを産み。まもなくして、産後に体調を崩してそのまま亡くなってしまった。元夫である公国の王を失って、もとより生きる気力さえ失せてしまっていたのだろう。
王族をただ一人のみになった公国がそのあと、簡単に帝国の配下となったといえば、安安となせるわけでもなかった。
帝国の不満を持つ有志たちが団結しレジスタンスを組み、反抗を繰り返すこともあり。新しく来た帝国兵士の横柄さから公国の民と折り合いは良くなかったこともあり。旧公国領は混迷を極めた。
しかも年を経て帝国が肥大していくにつれ、遅々として進まぬ公国の支配に反し帝国の弱体化は誰が見るにしても明らかとなっていた。これでは治められる土地も治められない。
まさに公国の再建、帝国への反逆への機運は高まるばかり。
そこにきて、公国の王族の生き残りが宣戦布告をふれまわれば国民が一致団結して彼のもとへ集まるのは子供にでも予想がつく。
「帝国の兵の一部も我らに賛同し、クーデターに参加する手はずだ。それがなくともレジスタンスや元公国の兵は十分集まっている。後は時間の問題だ」
「問題と言いますと、双子橋の件はいかがしましょうか」
「それは、もう決めてある」
何気なくロウは椅子から立ち上がると、見えもしない双子橋を眺めるように窓のそばに立つ。
「聞くところによると、未だにあの忠臣。ジルという者があそこに残り、真実を知らされていないのは公国の民が望んだ事だと聞く」
公国は敗北した。だが、突然の出来事により現実を受け入れられない者はどこにでもいる。その中には頑なに拒否し、既成事実のようなものを作り上げようとする者も少なくもない。
要するに、ジルは公国の敗北を望まぬ者たちの儀式として、ただ一人真実を知らない。真実を捻じ曲げるものをつくりだした。双子橋を挟む町や村にも一切他言無用と厳しく口止めし、通りがかる旅人や商人にも堅く守らせた。帝国が新造した橋もあるせいか、通りがかる旅人も商人も多くはなく、規制は難しくなかった。
「真実は隠され、忠臣は報われるどころか事実を知ることさえできない。それは否定すべき不義ではないか。自分は、これを否定しよう。かつての公国の優柔不断なあり方も同じく否定しよう。否定は逃避ではない。そして、否定のために帝国の橋も双子橋も落とす」
ロウの帰結は至って簡単なものだった。
対して執事はひどく狼狽しているようにも見えた。
「で、ですが。国民の投票は双子橋記念館で既に集計され続けています。今更全てをなかったことにするのは国民の反感を買うのでは?」
「くどい! すでに決めたことだ。それともお前が王となって投票の結果を尊重するか」
「め、めっそうもございません」
いたずらっぽく訊いたのだが、執事は血相を変えて恐縮した。
「つくづく思っていたが、敗北の象徴を記念館と名付けるのはどうかしている。祝福するのが守り手である忠臣であれば文句はないが、そうでなければあんな物は要らぬ。ついでだ。改装か取り壊しも政策に盛り込もう」
「それはもう。よろしいことかと… …」
ロウは公国の独立軍が一挙に城に流れ込み、公国領全てに勝利を知らせる伝令が駆け巡る姿を想像する。
街は新しい王と勇敢なる軍勢に沸くことになるだろう。街一番の広場では祝宴が開かれ、浴びるほどの麦酒や葡萄酒、豚の丸焼きや蜜で漬けた果物を振舞われる。夜通し歌に合わせて踊り明かし、また酒を飲む。そして宴が静まる頃には公国の新たな日が昇る。
帝国は慌てふためきつつも、軍を整えてすぐ橋に向かうであろう。その間に帝国が新造したあの橋は真っ先に壊され、双子橋も日を浅くして、取り壊されるだろう。
ロウと再開したジルは彼が国王であることに驚き、事実に驚き、役目の終わりに驚き、双子橋を失うことに驚くに違いない。
そうして全てを終え。旅人の服とはうってかわった煌びやかな服装を纏い、ロウはジルと面会する。
そんなジルの顔はとても。