夫6
あれから十年経った。
由里子が去ったこの街に、俺はまだ住んでいる。
そこそこの企業に就職して忙しい毎日を送り、あの頃よりいいマンションに住んでいる。
色々なものを無くし、色々な事が変わり、でも俺は・・・まだ由里子が好きだ。
会社帰り―――――。
疲れた身体を引き摺るようにして歩く俺を、呼び止める声。
「坂本!!」
立ち止まった俺の腕が、引っ張られた。
「あ・・・・・」
薄くなった頭髪に、でっぷりと出たお腹。
随分と見た目は変わったけど、それが誰かはすぐに分かった。
「寺田・・・」
俺が名前を呼ぶと、寺田はホッとしたように笑った。
「今日は出張で、こっちに来たんだ」
近くの喫茶店に、俺達は入った。
寺田は今、別の街に住んでいるらしい。
「変わったろ?ハゲデブになっちまった」
笑う寺田の左手の薬指には、指輪があった。
俺がその指輪をじっと見ていると、寺田は照れたように笑った。
「うん。結婚した。もう七年になるよ。こないだ三人目が産まれたんだ」
「・・・そうか、おめでとう」
ああ、だからこんなに幸せそうなのか。
「お前は・・・」
「独りだよ」
「そうか・・・」
俺達の会話はそこで途絶え、互いにチビチビと珈琲を飲んだ。
「・・・まだ、忘れられないのか?」
不意に聞こえた言葉に、俺は視線を上げる。
「もう・・・忘れてもいいんじゃないか?」
寺田は俺の目を真っ直ぐに見た。
「あれから十年経ったんだ。あいつらも、死んじまったし・・・」
「・・・・・え?」
「え!?」
俺はポカンと口を開けて、寺田を見た。
寺田は大きく目を見開いた後、視線を彷徨わせる。
「あー・・・、知らなかったのか。事故で・・・、三年くらい前だったかな」
死んだ・・・?
由里子が・・・?
「まさか・・・」
寺田は俯いて、首を振る。
「・・・・・」
信じられなかった。
由里子が、死ぬなんて。
俺の中には、今でも由里子の笑顔があるというのに・・・。
「どうして・・・」
その呟きをどう捉えたのか、寺田は事故の詳細を語り始めた。
「車ごと、崖から落ちたって。・・・無理心中じゃねーかって噂だ。なんか、揉めてたらしいし・・・」
・・・無理心中?
「何故・・・」
「さあ、そこまでは・・・」
どうしてだ。二人は結婚して、子供だって・・・、子供?
「子供・・・!」
「ああ、子供は婆さんとこに預けられてたらしいぞ」
・・・生きているのか。
「お前も、さ。もう充分苦しんだんだ。新しい生活を始めても、いいんじゃないか?」
・・・新しい?
由里子のいないこの世界で、それに何の意味がある。
気まずい雰囲気のまま、俺達は喫茶店を出た。
「じゃあ、な」
「・・・ああ」
しかし寺田は、二歩程歩いたところで振り向いた。
「俺は今でも・・・、お前の事、友達だって思ってるよ」
ああ・・・。
「ありがとう」
今までごめん。
寺田は笑って手を振り、家族の待つ家へと帰った。