番外編 雅樹
俺には嫌いな奴がいる。
「もう帰るの?」
週末、自宅から離れた街のアパートの一室で、女は訊いてきた。
「ああ」
身支度を整えて部屋を出る俺に、女は「またね」と手を振る。
軽薄な笑顔。初対面の男と平気で寝る淫らな女。年齢を偽り一夜の相手を求めた俺にとっては好都合だったが……な。
溜息を吐き、星を見上げて歩く。目的は達成した。だが満たされない思いは何なのだろうか?
その答えは――出してはいけないような気もする。
虚しさだけが残る。
月曜日の教室、俺に挨拶する男。
「おはよう雅樹」
気紛れで話し掛けてやったら俺を親友だと勝手に思い込んだ、馬鹿で単純で冴えない男。
お前を見ていると苛々する。俺の前から姿を消してくれ。
そう思うのに、何故か俺の口は勝手に違う言葉を紡ぎだす。
「おはよう篤」
偽りの笑顔。親しげな態度。
違う、そうではない。
冗談のように篤に触れる俺の指。
そして週末、電車に乗って訪れた街で、俺はまた偶然あの女と会った。
「君ってさあ、高校生?」
問いに無言で返す。
「ああ、やっぱそう。別に高校生でもおじさんでも私は構わないけどね」
女は『由里子』という名前らしい。
すらりとした身体、小さな顔に大きな瞳、サバサバとした性格。
そんなところが良くてそれからも数回身体を重ねたが、満たされぬ思いは続き、俺は街に行くのをやめた。
女を抱いても何も変わらない――。
そして俺は真面目に受験勉強をして、篤と同じ大学に合格した。
大学の構内、感じた視線。
振り向くとそこに由里子がいた。
「久し振り、この大学に入ったんだ」
まさか同じ大学の学生だったのか。てっきり社会人だと思っていた。人懐っこい笑顔は相変わらずだな。
「ねえ、これから……」
意味ありげに向けられた視線。そういう誘いだとは分かる。
伸ばされる指、艶やかな唇。
綺麗な女だ。だが魅力は感じない。
「悪いけどそんな気はないんだ」
踵を返して歩き出す俺を由里子は追いかけてきた。
「そう? じゃあ、また今度誘うわ」
その言葉通り由里子は時々俺を誘い、俺はそのたび断った。
「残念。結構相性がいいのにな」
悪戯っぽく笑い、去って行く由里子。
彼女は俺の心を満たしてはくれないと分かっているから、もう関係を持つことも無いだろう。
俺の心を満たすもの、それは……何だ?
偶然見た空の写真に惹かれ、中古のカメラを買う。
夢中になれるものを探したいという思いもあった。
だが俺が撮るものは……。
そんな時ふと気づく。篤の視線の先にいる人物。
分かりやすい奴。
「気になるんだったら、声掛けてみろよ」
ばれてないとでも思っていたのか、篤は目を見開いた。
「見ているだけで、いいんだよ……」
俯いて呟く篤。ああ、そうだ。こいつのこういうところが嫌いだ。
「しょうがねーな」
つまんない、どうしようもない奴。
由里子の元に行った俺は言った。
「あいつと付き合ってくれないか?」
由里子は少しだけ目を見開き、そして笑った。
「いいよ」
あっさりとした返事。少し驚く。
俺は由里子が断ると思っていた。
「良かったなぁ。俺も嬉しいぞ」
良かったのか? 嬉しいのか?
分からない、分からない。
「そうだ、写真撮ってやるよ」
「いいよ、そんな」
「遠慮するなよ。中西ー! ちょっと来いよ! ほら並んで」
二人を並べて写真を撮った。
順調な交際。軽いと思っていた由里子は意外にも真面目に篤と付き合っていた。
これで良かったのだろう。
一ヵ月後、二人は深い関係になり、俺は二人の幸せそうな写真を撮る。
そして二年後――。
「チューしろ、チュー!」
俺のリクエストに恥ずかしそうに応える篤。
性格が少しだけ明るくなった。それも――気に入らない。
表面では笑いながら、心の中で毒づく。
二人と別れてアパートに戻り、酒を飲んで寝る。
その夜――、酔った由里子がやってきた。
「ああ、もうやってらんない。やめやめ」
由里子の言葉に俺は驚いた。
「真面目な振りするのも疲れた」
振り……。
「やだ、私が篤だけと寝てるって思ってたの?」
由里子はケラケラと笑い、俺に顔を近づける。
「ねえ、興味ある? 篤がどうやって私を抱くか」
この女は何を言っている?
「篤が触れたこの身体に興味は無い?」
何故そんなことを訊く? 俺はそんなものには興味など無い。
「あんた、篤を凄い目で見てるよね。……なんで?」
気がつけば俺は由里子を押し倒していた。
篤の大切なものを手に入れた感覚――。優越感。
それから俺は何度も由里子と関係を持った。
眠る篤の横で由里子を抱きながら、笑みが零れる。
妊娠したと告げられた。
俺の子じゃないだろ? だが由里子は俺の子だと言う。
一気に襲ってきた現実。どうすればいい? どうしようもないだろう。自業自得か。
大学をやめた。一応義務があるから。
そして最後に――、一度だけのつもりで篤に会った。
「あの女、ふざけやがって。俺の子供かどうかなんて分かんねーだろ? 色んな男とヤりまくってたくせに! なのに俺の子供だって言い張るんだぜ。あーあ、大学だって後一年だったのに、やめちまったし。参ったな」
愚痴る俺。
なあ、好きな女寝取られて憎いだろ? 言えよ、『お前が嫌いだ』って。
そう、それなのに――。
「俺に譲ってくれ」
真剣な表情。馬鹿丸出し。
裏切ったんだぜ、由里子も俺も。信じられないお人よし。
俺は篤のそういう純粋なところが眩しくて、悔しくて、羨ましくて憧れて、だから――。
「お前の、そういうところが好きだ」
そして大嫌いだ。
生まれた子供に罪は無い、だが巻き込んだ。
けじめをつけるためだけの結婚は上手くいく筈もない。由里子は育児を放棄した。俺は由里子に手をあげた。
持てなかった愛情、あるのは同情。子供は由里子の母に預けられた。
いろんな人を傷つけて、まだ罵り合う二人――。
形だけとはいえ何年も夫婦をやっていれば、由里子が欲するものは分かる。
応えることが出来たなら、変わっていただろうか?
やつれていく姿に限界を感じた頃、由里子は言った。
「別れてあげる」
意地っ張りで――嘘吐きな女。
最後に子供に会いに行こうと誘われて乗った車。
暫くして、行き先が違うことに気付く。
ああ、そうか。
妙に納得して、目を閉じる。
スピードが上がり、一瞬の浮遊感。
ごめん。
誰に対してなのか。
どうか幸せに。