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忘れて欲しい


 下校中の岐路。

 夕闇に溶ける彼が

「さよなら」

と言った。永遠のさよならになった。


***


「深い眠りの底につらいことを置いていこう。でも、駄目だ。君が僕を起こすから」

 病院の一室。白い個室で彼は呟いた。身はベッドの上。簡素な入院服。右手を挙げると管が見えた。点滴だろう。

「随分浅い眠りだったようだな」

 窓辺には一人の男が立っていた。まだ夕方にはまだ少し早い時刻。学校帰りだろうか。学生鞄を背負っている。黒い学生服。ぼさぼさの黒髪。

「君と出会うのは。久しぶりだね。中学校以来」

 ベッドから上半身を起こす彼が窓辺の男と向き合った。斜陽が窓から漏れる。病院の個室を薄く赤く染め分けた。

「どうして君がここにいるの」

 彼は小さく呟いた。人と出会うのを厭うような口調だった。陶器のように白い肌。鉛のようにごろりとした大きな眼。窓辺の男を鋭く捉えた。男はそれでも笑いながら

「偶然だ」

と呟く。

「偶然だなんて。病院で。へえ」

 ベッドの上の彼の追求は止まらない。寝起きだからだろうか。まとわりつくような声を張り上げた。

「母親がここの看護士なんだよ。弁当を忘れていった。夜勤なのに。俺は届けにきただけ」

 男は窓辺から離れた。光が差す。

「聞いたことのある名前を見た。果たしてお前だった」

 男は視線を部屋を這うように動かした。彼の眼を見ようともしない。引き込まれるような黒い鉛玉。男は突然息をのんだ。

「俺が来て、悪かったな。俺で、悪かったな」

 男の眼は折り紙の束を見つけた。呟くような謝罪。白い病室に一塊の虹。千羽鶴、にはあと九百羽ほど足りないだろう。たこ糸で百羽ほどが無造作につなげられている。統一のない色彩が男にはなんとも不気味だった。

「いや。君でよかったよ」

 彼も呟くように返した。相変わらず眼は鉛玉だったが、その口調はもう落ち着いていた。

「高校では。友人が出来たのか。その鶴は」

 男はそっと折り紙を持ち上げた。ひめやかな音。虹が揺れる。色彩は、やはり不気味だ。

「そう。友人が一人で作ってくれたんだよ」

 ベッドの上で彼は説明した。

「『千羽出来るまで退院するなよ。かといって、死ぬのは論外だ』なんて、友人は言ってた」

 点滴に繋がれた彼はようやく笑顔を見せた。点滴の管は彼にとっての命綱。細く、長い。そうして、彼と友人を繋ぐ糸もまた細く、もろいのだろう。だから彼らは笑い合う。

「俺がその友人でなくて、悪かったな」

「そんなことない。そういったでしょう。池上君」

 彼は男に呼びかけた。男は一瞬瞳をしぱたいた。

「森尾だ。母方の姓に変わったんでな」

 花が枯れてるじゃねえか。男は誤摩化すように吐き捨てた。花瓶の花は枯れていた。

「いけねえ。根まで腐ってら」

「森尾君。僕が眠っている間に世界はどんどん変わっていくね」

 森尾は花瓶の花を捨てるために彼に背を向けていた。森尾に彼の声は聞こえただろうか。蛇口をひねる音。流水。狭い部屋だ。音が響く。しばらくして森尾は戻ってきたが

「あの花はもう駄目だな」

と言ったきりだった。

 長い沈黙が尾を引いて二人の間を落ちていく。

 陶器の肌を持つ彼が突然

「夢を見たんだ」

と呟くように言った。森尾は、おう、と相槌を打つ。

「どんな」

彼は布団の上で姿勢を正すと、ゆっくりと話しだした。

「色彩豊かな夢でね」


 うっそうとした場所。緑の木々が空を覆っている。薄暗い。夢の中で彼は光を求めてさまようらしい。水の落ちる音がする。向かうと光が射す。さっと視界が開ける。霧が立ちこめているのに。まとわりつくような光だと彼は言う。

 そして随分高い山だと分かる。滝を見下ろして一本の吊り橋が架かっている。どこに繋がっているのかは分からない。しかし彼は思う。

「行かなければ、と。ね」

 見下ろすと白い闇がとうとうと流れている。滝壺は随分と離れている。だろうに、滝の音がいやに耳につく。

 吊り橋を渡るときは下を見るな。とはよく言うけれど。下が見えないのだ。この際地上のことはどうでもいい。彼は一本の吊り橋を進んでいく。

 先はまだまだ見えない。吊り橋が、ぎし、ぎし、と音を立てて揺れる。時折冷たい風とすれ違う。すると、突然、ごとり、と音がする。橋からではあるまい。滝から落ちる石でもあるまい。

 彼が音のする方向を見ると白い腕が落ちていた。

「僕の腕だ」

 拾い上げようとすると右手がごとり。手首が遥か地上にまっさかさま。

「仕方が無い。腕なしで進もう」

 またしばらく進むと突然彼は転んでしまう。這いつくばったままおそるおそる確認する。吊り橋に右足が挟まって泣き別れしていた。ついでに右の太ももも接着剤がはがれるように落ちていく。それでも進まなければ。まさに這ってでも進まなければならない。そうして彼は気付くことがある。あんなに大きかった滝の音が聞こえない。眼前に耳が落ちていた。ずるりと嫌な音。体内からの音は耳がなくとも感じられるのだろうか。変に感心しているのもつかの間。下半身が滝壺に呑まれて消えた。

「そうして僕は随分僕を客観的に見ていることに気付くんだ」

 夢の中の彼は口を動かしている。何かを訴えようとしている。

 しかし彼には聞こえない。虚しく耳が転がっている。溶けるように眼球も後を追った。

「僕は夢の中で何を言っているんだろう」


 彼は夢を話し終えた。すでに夢の中にいるような声。まどろむ瞳。鉛の眼球はどこを見つめているのか。森尾には判断できなかった。

 重い沈黙を破ったのは、彼自身だった。

「僕は忘れてほしいと言っているんだと思う」

 森尾は先ほどから同じような相槌を打っていた。そうしかしようがない。しかし彼は全く気に止めていないらしい。

「あの鶴を折ったのは僕の友人さ。高校のね。彼とは随分仲良くやっている。少なくとも僕はそう思っている」

 今にも眠りに落ちそうな様子。絞り出すように声を続ける。

「別れは怖くない。僕がいなくても月が落ちる訳ではない。地球は回る」

 大きな呼吸。起きているのが精一杯なのだろうか。一息つくと彼はまたゆっくりと語りだした。

「でも彼の世界は大きく変わる。そうじゃないかな。今まで当たり前だと思っていた存在が消える。僕」

 彼は結論を下した。

「だから友人には僕のことを忘れてほしい。僕も切実にそう願っている。もしも人生がやり直せるなら、彼とは一切関わり合わない人生を歩みたい」

 その身を遂に横たえた。森尾の反論。それは刹那。結論をいい終える前に間髪入れずに。

「忘れたからって。忘れられたからと言って。それは全くなかった訳ではない」

 ベッドにつり下がる不気味な千羽鶴を見て森尾は叫ぶように言った。

「忘れた方が楽でしょう」

 彼は夢に戻っていく。

 夢に戻ってはいけない、森尾は自分勝手にも彼を現実に引き止めようとする。吊り橋の向こうに行ってはいけない。

「お前はここにいる。いたことは消えない」

 なんと言ったらいいかな、と小さくこぼす。しかし森尾は叫び続ける。

「忘れるな。忘れられるな」

 窓の外は夕闇。どれだけの時間が流れただろう。俺がここに来たときはまだまだ明るかったか、とも呟いた。

「お前は確かに存在した。そして相手が生き続ける限り影響を与え続ける。俺にも。その友人にも。よかれわるかれ」

 森尾は彼を引き止め続けた。彼の意識は既に森尾の手からするりと離れた。眼は開いているのか、閉じているのか。森尾には分からない。彼のなみなみと水をたたえたその瞳が揺れている。

 やがて沈黙が彼らをつんざいた。

 闇が帳を下ろす。今日は星が見えない。白い病室からその色さえも奪っていく。

 やがて森尾は部屋を出て行った。

「じゃあな」

 扉を開ける。開けて、彼を振り向いた。彼の呼吸がかろうじて聞こえた。もう一言付け加える。

「また会おう」


***


 廊下をばたばたと走る音。その音の持ち主は時折看護士に注意される。なおざりに謝って、それでも止まらない。

 大きな音を立てて、とある病室の扉を開けた。ノックも大きく打ち鳴らす。

 足音の主の手には学生鞄の他に紙袋。下手な折り紙の鶴を取り出す。少なすぎる千羽鶴に繋げながら

「今日は遅れたな。補修で残されたんだよ」

と大声で話した。ベッドの主から返事は無かった。寝るのが早いだろう、と彼は大声で笑った。

「本当に寝ちまったのか」

千羽鶴にはあと八百羽ほど足りない虹をそっと戻す。残念そうに彼は語った。

 しかし来訪者には分かった。鉛玉のような眼が半分開いている。

 ベッドの上で彼は決して返答しない。

 ただ少しだけ微笑んだ気がした。


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