トイレの聖霊、出会いと別れ
出会いはいつでも突然だ
開かずの扉がある。
とある高校の一階西側。人気のない男子トイレの扉である。
彼は一つ咳払い。静かに戸を叩く。
「入っていますか」
平生なら礼儀の振る舞い。今は冗談半分。相手は開かずの扉なのだから。
「まあ」
返事がある訳がない。
彼がそう呟こうと思うより早く
「入っています」
思わぬ返事が返ってきたのだから、彼の驚きは想像に難くない。出会いはいつでも突然だ。
もう戻らない
彼は五時間目の教室移動の時、このトイレに寄る習慣があった。そして特定の場所の扉が閉まっていることに気付く。
「開かずの扉」。彼は勝手にそう呼んでいた。
今しがたその扉の向こうから返事があった訳だが。
「お前は誰だ」
「教えない」
「学校の怪談か」
「そうかもしれない」
「トイレの花子さんか」
「そうかもしれない」
納得のいく回答を得ることが出来ない。
彼は不意に気付く。相手が誰であろうと問題ない、と。彼は扉に話しかけた。
「俺は森尾守男という名前。俺の名前を呼ぶのが恥ずかしければ、名字で呼んでくれても構わない」
開かずの扉は笑いで返答。
「同じじゃないか」
それを聞いた森尾も笑いだす。ようやく望んでいた答えを得られたのだから。
明日への扉
昼下がり。青空。心地よい五月晴れ。休み時間を告げるチャイムが鳴り響く。森尾は扉の前に立っていた。
「日本の玄関扉が外開きの理由を知っているか」
先日の出来事。森尾はトイレの開かずの扉から返事を聞いた。それ以来、昼休みにはここでたわいもない話をする習慣になった。森尾は扉の声を勝手に『精霊』と呼ぶことにした。
精霊から返事はない。聞き耳をたてると息づかい。森尾は話の続きをささやいた。
「欧米のドアは内開き。客を迎え入れるため」
ここになって精霊はようやく小さい相槌。森尾は続ける。
「国語の教科書に載っていた。日本人は隙間風を嫌う。玄関を水で流して洗う。だから外開き。客を追い返す訳じゃなく」
話の中途で相槌。もちろん精霊が。大声で言う。
「客を迎えにいくんだね。だから外開きなんだ」
ほら吹き男
六月。梅雨前線ははるか彼方遠くへ行った。蒸し暑い日々。
「一週間は日照りだよ」
と精霊は断定する。例によってトイレの扉の前である。
「今年は水不足かもしれない」
森尾は喘いだ。暑い空気がとぐろを巻いている。
翌日。
「おい。雨が降ったぞ」
轟く音。雷。雨が大地を打ち鳴らす。扉の向こうで笑い声。
「僕は日照りを知っていた。何もしないと思ったか。雨が降らねば大変だ。雨乞いなんてお手のもの」
後は笑い声が漏れるばかりだった。
必殺の一撃
かき氷の季節。これが森尾の唯一作れる料理であろう。
「ガスコンロが怖いんだ」
森尾は扉に吐き捨てた。続ける。
「ガス漏れが怖い。匂いで分かるというけれど。もしも鼻が詰まっていてでもしたら」
トイレの精霊がくすりと笑う。
「ガス漏れ確認なんて簡単さ」
静かに一息。
「マッチを擦ればいい」
エコの精神
開かずの扉。夏休みにも返事があった。自由参加補修日。
「ポスターを描け、だと。夏休みの宿題で」
高校生にもなってポスターとは。精霊は呆れてため息で返答。森尾もため息。宿題なのだ。仕方がない。
「お題は、水。いいアイディアはないかな。知恵を拝借」
森尾は扉に相談を持ちかける。しばらく扉からは呼吸の音ばかり。やがて返答。
「プールで遊ぶ子供達」
扉の向こうから。森尾が続きを促す。
「それで」
精霊は続ける。
「子供達の笑顔。輝く水しぶき。太陽きらめく夏の空」
「それはいい」
森尾は拳を振り上げた。空振りだった。精霊の言葉の続き。
「水を大切に」
汚きかな、人間
赤。黄色。秋の彩り。いつも通りの昼下がり。
「精霊。ここから出ないか」
森尾が戸を叩く。
「嫌だ。やめろ。やめてくれ。ここは僕の城。出ない。決して」
もの悲しい季節。秋。森尾は寂しくため息。
「そうか」
人が嫌だということを無理強いしてはいけない。森尾は当時そう思っていた。ため息に続いて呟く。
「精霊は人間が嫌いなのか」
扉の奥から即座に返答。
「嫌いさ。嫌い。大嫌い。人間なんて。醜い肉塊。気持ち悪い」
震えた声。扉を挟んでやっと届いた。精霊の声は小さく続く。
「だけれども。人間と人間。かかわり合いを見るのは好きだ。どろどろとけて、きらりと光る」
笑っているように聞こえた。
本気
森尾が赤点を採ったらしい。精霊の嘲笑。森尾の反論。
「う、うるさい。これが俺の本気ではない」
「それでは本気を出したまえ。本気をどうして出さないのかね」
ぴしゃりと一言。しかし森尾は屈しない。屁理屈を吐く。
「俺が本気を出さないのは、本気を出せると知っているからだ」
妄想
バレンタインデイが近づいた。冬の寒空。扉の前に立つ森尾。普段と変わらぬ昼休み。
「どの女も美人に見える方法を見いだした」
森尾は戸を叩く。精霊がため息をついている。呆れているのだ。森尾は返事も待たない。勝手に語りだす。
「眼を細めて、遠くから女を見ろ。全員美人だ」
森尾の含み笑い。悦に入る。精霊の忠告。
「そんなことか。それなら、僕はもっと女を美人に見る方法を知っている」
森尾はその言葉を逃さない。
「どうやって」
噛み付くような返答。何度も叫ぶ。続きをせかす。扉の奥の声は至って悠長。のんびり答えた。
「眼を閉じればもっと」
終末
雪がちらついた。もうすぐ卒業式。森尾は扉の前に立つ。寒い昼休み。トイレなのだからより一層。息は白い。
森尾は扉を大きく揺する。
「精霊。ここから、でないか」
腕をも折れよ、と扉を叩く。扉の奥で拒絶の声。ノックの音で聞こえない。
「一度顔を合わせて話がしたい。精霊。俺が卒業する前に」
人の嫌だということを無理強いしてはいけない。
森尾の以前の思想はそうだ。それは今でも変わらない。しかし。精霊はどうだ。
「顔を合わせたい」
「嫌だ」
拒絶の言葉。森尾の耳には届かない。嫌な言葉。望まない。
精霊は森尾の嫌だと感じる言葉を吐くばかり。
「精霊。開けるぞ。扉。ぶち破る。ここから出よう。俺はお前を一目みたい」
けたたましい音。扉が開く。小さな悲鳴。余響がくぐもる。
扉の向こうには、誰もいなかった。
「精霊」
森尾は呼んだ。返事はない。無音の世界が耳障り。
「精霊。精霊」
静寂を破るも一時的。不気味な沈黙だけが落ちていく。
外には風吹く春一番。雲を散らして飛んでいく。差す日光が窓を貫く。森尾の体をつんざいた。みるみる朝の雪を消していく。
ノックの音が高鳴った。叩くな。強く。それ以上。彼の体の心臓よ。森尾は前のめりに突っ伏した。咳き込んで、荒い呼吸を繰り返す。沈黙が肺腑をえぐる。
なんてことをしてしまったのだろう。
出会いは実に気まぐれ。一度のノック。
別れも気まぐれ。一度のノック。
森尾は息を吐き出した。やがてよろよろ立ち上がる。
「俺は。なんてことを。なんてことをやってしまったのだ」
彼は重い扉を開ける。廊下とトイレを繋ぐ大きな扉。振り向くとそこは薄暗いトイレ。後悔だけが堰をきる。森尾は踵を返すと光満つ廊下へ消えていく。そうして彼は、二度と戻ってこなかった。
結末
やがてトイレの個室から小さな声。
「中に人がいると知っている癖に。内開きの扉を蹴破りやがった」
男の声。扉を閉めようと試みる。
「うむ。やはり鍵まで壊れた。僕の鼻もひしゃげてしまった。ああ。痛い」
個室から男がのそりと顔を出す。上から下まで、しっかりと学生ボタンを留めている。背はひょろひょろと細長い。その男は抜き足差し足忍び足。隣の個室に移動した。
「それにしても。あの男。一体何者。いつも僕のランチタイムの邪魔をする」
かたん、と金属音がした。




