忘却の姫
彼女は覚えているだろうか。幼き日の約束。
「いつか元気になったら。病が癒えれば。その日は必ず。あの花畑で会おう」
あの懐かしき日のように。花畑の中で、お姫様遊びをしよう。僕は王子様になって、あなたに花の冠を。
夏の終わりの青い空。僕は目を閉じる。思いは昔を周遊する。
*
それは絶望
しかし、病魔が彼女を襲う。記憶を失う病らしい。
珍しい病で、症例は少ない。が、沢山のことを忘れて行くうちに、気を違える者もいる。自ら身を投げる者もいる。
中学生の時、彼女は遂に入院した。病室での彼女の口癖は
「私、死んだら、一本の花になりますの」。
『いつか元気になったら。病が癒えれば、あの花畑で会おう』
幼き日の約束は、彼女の死に場所になった。
「死ぬなんて。そんなこと。弱気になってはいけません」
「いつか必ず死にますわ。腐ってどろどろになるより、私、一本の花がいい。この病は、きっと治りませんから」
それでも彼女はにこりと笑う。儚い瞳が揺れている。
「治るなんて、そんな希望を持たなければ良いのです。希望を持たねば絶望しません」
彼女は既に絶望の底にいたのだ。
屁理屈
僕は足繁く彼女を訪れた。とある夏の日。炭酸飲料を手渡した。
「私、炭酸は飲みません」
最初はあれこれ文句を言っていたが
「おいしいですのね」
飲み始めると、にこにこ笑い出した。
「本当においしい。もう一本ありませんの」
これはある種の栄養ドリンクで、
「一日一本。それ以上は飲むなと書いてあります」
と瓶の底には注意書き。
「残念ですわ。では、明日の分を今飲みますので一本下さいな」
汚い奴
汚く脂ぎった黒。貪欲な瞳。鋭いかぎ爪。彼女の手中に黒い鳥。カラスの雛である。彼女が外を散歩した時に拾ってきたそうだ。
「うわあ。カラス。汚いですよ」
彼女は無垢に「何故?」と笑い、ひなは小刻みに震える。それさえも、生きる戦略と見えるのだ。汚いのは一体、どちらだろう。
つまらない、かけがえのない
「死んだら花になりたいわ」
白い病室。窓から約束の花畑が見える。窓辺を指差し
「私が花になったら、あそこにいます」
と静かに笑う。忘却の病。内側からすべてを焼き尽くす。生きることさえ忘れてしまう。僕は懇願した。
「死なないで」
「だけど、私が死んでも何も変わりはしませんの。月は落ちぬし地球は回る」
「僕の心は大きく変わる」
「わがままね」
と彼女は大声で笑った。よく笑う人だ。僕は、それが悲しい。
「私のようなつまらない人間。いても、いなくても、同じ。死んでしまえば一塊の汚物。それは嫌だわ。だから私は花になる」
「そんなことを言うなんて」
僕は叫んだ。細い腕。白い肌。今にも消えてしまいそうなほど、弱い人。
「僕もくだらぬ人間です。あなたと同じ。人間誰しもつまらない。つまらぬ人間の一人です。あなたもつまらない人間かもしれませんが、僕にとってはつまらない人間ではないのです」
転倒を恐れるな
「おかしな人ね」
彼女はまた笑っている。今日は僕が何度も転んだからだ。
彼女の点滴の線が抜けなかったのが幸いである。
そんなクモの巣のような病室で、彼女は一度も転ばなかった。
僕が時々転ぶ理由。それは僕が自分で歩くから。
リピート
まだ暑さが残るとある日に。彼女に炭酸飲料を手渡した。
「私、炭酸は飲みません」
最初はあれこれ文句を言っていたが
「おいしいですのね」
飲み始めると、にこにこ笑い出した。
「本当においしい。もう一本ありませんの」
これはある種の栄養ドリンクで、
「一日一本。それ以上は飲むなと書いてあります」
と瓶の底には注意書き。
「残念ですわ。では、明日の分を今飲みますので一本下さいな」
彼女はずっと笑っている。
同じような出来事があったのに。彼女はもう忘れている。
だが。まだ笑い方だけは忘れていない。
拒絶
「あなたは、誰?」
突然、彼女が呟いた。そうして、しばらくして
「あら。ごめんなさいね。忘れてしまいそうでした」
と謝罪して、改めて僕の名を呼ぶ。
周遊する思いが今に至るまであと少し。僕もあなたを忘れたい。
こんな辛い出来事は無かったから。
恐怖
あれは、もう、先日の出来事なのだな。病室で彼女はぐにゃりと笑った。長い沈黙。僕は静かに切り出した。
「どうしたのです」
「どうした、だなんて。いつも通りですわ」
先ほどと変わらない悲しい笑い。
「どうして笑っているのです」
僕は言葉を変える。彼女は顔を歪めたまま反応する。
「笑うと心なしか楽しくなるでしょう。だから笑わなければなりません。私は笑わなければなりません」
残暑の斜陽。花瓶の花に紅が差す。彼女の白い肌を染め分ける。
「でも」
僕の目は時に冷艶だとさえ言われるが。彼女を見つめる。
「それは義務ではないこと。無理をしなくていいですよ」
返す彼女の視線は消えるように儚い。ゆらゆら揺れて水面がざわめきたった。たちまち一筋の川。
僕の前で初めて彼女が泣いた。
残りの時間
彼女は忘却の病に臥している。
「僕は忘れませんよ」
この病はそんな簡単なものではないのだと。そんなこと。僕は知っている。知っているけど。知っているが。そうだけど。
彼女はいつしかすべてを忘れるだろう。僕のことも忘れるだろう。共に過ごしたあの時間。思い出も。秘密の場所も。約束も。
僕どころか、彼女は、彼女自身を忘れるだろう。生きることも。何もかも。すべて。
「死ぬと分かれば。教えてくださいね。と私が言ったの」
彼女はベッドの上で半身をおこす。リンゴを頬張っていた。近くの机には名詞カード。リンゴ。ナシ。ミカン。
「生きるというのは長い時間。私がいなくなっても忘れないで。いいえ。私、花になりますの。世界で一番きれいな花。それが私」
人は時が有限であると忘れている。あまりに長く、途方も無い。
「人が動けぬのはそのためよ」
彼女は前進しない理由を時間のせいだとこじつける。
「私、時間がないと分かれば、一秒たりとて無駄にしない」
さよなら
さいごが訪れた。病室に彼女はいなかった。僕の知る彼女はいなかった。
扉を開けると金張り声。絶叫。彼女からの声だった。
「あれは何ですの。あれは何ですの」
もはや言葉も覚えてなかろう。同じ言葉を繰り返す。周りの制止も聞こえまい。
彼女は腕を振り回す。絶叫。花瓶の割れる音。ベッドの上から彼女が落ちた。
「これは何ですの。気色の悪い。不気味な虫ね」
五本の虫が這っている。細くて白い、陶器のような虫。
「何。何ですの。この虫は。私の体から、この。白い。白。これは。これは何ですの。これは何ですの」
「指じゃないか」
僕の正解なんて、聞こえていまい。彼女は自らの右腕を、左腕で押さえつける。周りの人間の行動よりも早く。刹那。
くだけた花瓶をつかみ取る。おのが右手に突き刺した。
「離れませんわ。私の腕の五本の虫が」
血が走り、彼女が組み伏せられる。この迅速な行動のなんと遅く感じたことか。引きずられるようにベッドに連れ戻される。
「あれは何ですの。あれは何ですの。あれは何ですの」
答える者は誰もいない。僕は彼女の名を呼んだ。これも答える者がいない。返事が無い。「あれは何」を繰り返す。
ゆっくり彼女に近づいた、儚く、うつろな目。僕を捉える。
「これは。何ですの」
彼女はそれに手を伸ばす。そして、そっとそれに触れる。
涙である。僕の、悲しみである。
「これは何ですの」
目は見えるのだ。耳もまだ、僕の声を捉えてくれよ。
「さようなら」
花瓶の欠片を踏みつけて音がする。花はずっと前から枯れている。彼女の手が滑り落ちた。静かに
「さよなら」
と答えた。
*
目を開ける。夏の終わりの青い空。
昔のことを思い出していた。
視線の先に
「四葉だ」
季節外れのクローバー。
彼女が見たら喜ぶだろう。
幼き日の約束。花畑。
忘却の彼女はきっとここにいるのだろう。
夏の気配がまだ残る。たゆたう景色。天高き青い空。
一輪の花。風に吹かれて揺れていた。
忘却の彼方
「探しましたのよ」
僕の頭上で声がした。ぽすん、と音がして、頭に落とされる何か。
振り返ると、花畑。
彼女がいる。
「私。すべて忘れてしまいました。楽しいこと。悲しいこと。大切なこと。でも」
彼女はゆっくり歩みだす。慣れないものだ。彼女がつまずく。歩くなんて、何年ぶりなのだろう。
僕が手を取ると、彼女は笑って答える。
「あなただけは。どうしても」
彼女は立ち上がる。僕の頭上を指差した。そこには、不器用な花冠。
「へただなあ」
「だって、忘れてしまったのですもの」
ほつれがひどい部分を四葉のクローバーで結う。
僕は花畑にしゃがみ込む。
「私の冠。作ってくれますの」
「あたぼうよ。だって、君は、忘却のお姫様」
風に吹かれて揺れる花。秋の気配を連れてくる。新たな季節が訪れる。




