月へ
「私、宇宙へ行くわ」
眼前の女は言い放つ。昼飯時のキャンパス内は騒々しい。だが、彼女の言葉だけは耳に届いた。空は快晴。時は五月。外で昼食というだけで、じわりと汗ばむ。
大学は思い描いた場所とは少し違った。楽しくない訳ではないが、理想と何かが違う。まだ入学したばかりだからかもしれない。だのに大学で再会した幼なじみは昔と寸分も変わらない。夜空の星々に今なお夢を見る事の出来る乙女だった。
宇宙へ羽ばたく。いいねえ、ロマンだ。俺達は二人で望遠鏡を覗きあっては、いつか二人で月に行こうと約束を交わしあった。こんなロマンチストなサイエンティストがいただろうか。言葉は重い。思わず口から溢れてしまう。
「夢なんて。もう、無いさ」
俺の目は現実を見ていた。雲には乗れない。惑星は遠い。幼い頃思い描いた未来絵図が、今、現実のものとしてあるだろうか。
「それでも私は宇宙へ行く」
俺の言葉が彼女に届いたのだろうか。女は凛と言い放った。
大学のキャンパスで彼女に会う事は少ない。そもそも学部が違う。夏期休暇に補講に駆り出される。ただぼんやりと、
「まだアイツは夢を追っているんだろうか」
と眠い講義を聞き流しているだけである。俺は夢より単位が欲しい。瞬く間に時は流れた。
日本は先進国の中でも、宇宙開拓においては他国に遅れをとる。アメリカはスペースシャトル打ち上げの後、一分足らずしてそれが美しい花火になって以降、宇宙開拓は下火となった。だが、最近ロシアが遂に人類史上二度目の月面着陸に成功すると、勢いを再び盛り返した。さらに中国、インド、西欧諸国が負けじとその後を追う。時代は宇宙に飛び出した。スペースシャトル打ち上げ回数を数えればアメリカとロシアだけで近々四桁に達するだろう。
彼女と大学構内で出会ったのはただの十数回であった。だが、大学生活は早くも三年目の曲がり角。じきに就職活動に忙殺される日々が訪れるだろう。長男である俺は実家の薬屋を継いで細々と生きるか、夢の欠片も何も無い社会の歯車になるかの選択肢を迫られていた。だらだらと続く大学生活にようやく危機感を抱いた俺は資格の勉強を始める。ふと講義教室から窓の外を見ると真っ昼間だというのに月が出ている。冷徹に地球を見下してやがる。
結局、俺は家を継いだ。夢を追って餓死したくはないし、大企業に勤めるほどの根性も無かった。長男で良かった。大学を卒業すると彼女と連絡を取る事も無くなった。
ある日の真夜中。強い風の音で目を覚ます。携帯がメールの着信を知らせる為に不気味に点滅している。着信あり。彼女からだ。
「来週、私、月に行きます」
一文だった。愛想も何もあったもんじゃない。ある意味彼女らしい。遂に夢を叶えたのだ。対する俺はどうかというと、小っせえ薬局の中で埃まみれになりながらも息をしている。ドブネズミのような生き方だ。何故だか声を上げて泣きたくなった。だがそれも出来ない。隣で静かな寝息が聞こえてくる。
俺は既に二児の父親になっていた。
彼女の発言を疑っていた訳ではないが、月に行くというのは本当だった。日本は宇宙開発に関して先進諸国に遅れをとっている。だが、乗組員には、もちろん日本人も含まれる。そこに彼女の名がある。月面の開拓者。朝刊の言う事なら間違いない。窓の外に視線を滑らせる。住宅街。家の合間に月が見えた。青空に白い弾丸をぶち抜いている。彼女はあそこにいるのだろう。
月と地球は微妙な均衡を保ちつつ、その周りを回る。天文学的数字から見るとその距離は限りなくゼロに近いというのに、月の影響は地球の海の満ち引きのみにあり、白波は決して月には届かない。彼女は遠くに行ってしまった。夢を追いかけて、空の向こう。宇宙の彼方へ。手を伸ばせども、俺は空には届かない。
月と地球の距離は三十八万キロ。その距離は天文単位以下だが、人間にとってみれば果てしなく大きい。どうしてこんなに遠いのに、ここから月が見えるのか。連絡が頻繁にあった訳でもない癖に、それこそ、銃で打ち抜かれたように、俺の心はどこか穴があいてしまったようだ。妻に「疲れていないか」と問われたが、薬局が倒れてどうする、と笑い飛ばしておいた。から元気である。
それから、多くを得て、多くを失った。念願であった店舗拡大に成功はしたが、まだ彼女には会えていない。年齢だけが積みあがっていく。時間にゆとりもできたので、親孝行をしようと思った頃には母が急逝。追うように父も逝った。子供は皆独立したが、お前はついて行かなくても良いようなものの妻も失った。俺には冷たい現実だけが残っている。家にはもう誰もいない。薬棚のひしめく薬局の中に、俺は一人。ああ、ここはこんなに広かったのか。
静寂を破るように、突然の来客。「いらっしゃい」と、テンプレートの文章をすべて言い終える事は出来なかった。絹の白髪。夢を追う瞳はまだ老いぬ。気品のある女性の美しさ。年齢は俺と同じくらいであるはずなのに、随分と若く見える。そう。まごうことなき彼女である。
「久しぶりね」
と彼女は言った。俺は言葉が紡げない。彼女はそっと笑う。
「ここにいると聞いてやってきたのよ」
そしてカウンターの隣に腰掛ける。三十八万キロの距離を超えて、遂に白波は月に届いた。久しぶりだと返答する事さえままならない。積もる話は山ほどあるのだ。会話となる言葉を放ったのは、やはり彼女が先だった。
「お喋りしたい事は、たくさんあるわ。だけど、まず、これを言わなくちゃね」
彼女はおもむろに花を取り出した。種類は知らない。赤色の花束である。仰々しい、結構大きいな、と感想も口から漏れる前に、彼女は俺に向かって笑いかけた。
「月への店舗進出、おめでとう」




