春夏秋冬慶と言う男
〈思い出す〉
扉を開くと、部屋の男は声を落とす。
「誰だ」
「森尾守男だよ。お前が呼びつけたくせに」
部屋の主は、モリオと名乗る来訪者を見つめ、
「ああ」
と思い出した。来訪者は再び溜め息をついて、
「おい。ヒトトセ。俺を呼び出して何の用なんだ」
と問う。ヒトトセと呼ばれた男は赤面してモゴモゴしていたが、やがて喉から声を絞り出す。
「俺。恋をしちまったのかもしれねえ」
〈冬の雨〉
雨も手伝い、部屋は薄暗い。電灯を換えるべきだ。部屋は散乱している。読みかけの雑誌。机の上の煎餅。ボールまで転がっていると来た。無精者め。モリオの心中も知らずヒトトセはいけしゃあしゃあと
「自分の部屋は良いものだ。楽なのが良いね」
と抜かした。
〈ついでの努力〉
「ポットならあそこだ。自由に飲め」
ヒトトセが指差す先には急須もあった。モリオが二人分の茶を入れると、対面して座布団に座る。
「モリオ。俺。好きな人がいるんだよ」
「さっきも似たようなことを聞いたぞ」
「そうか。最近どうも忘れっぽくてな」
ヒトトセはしきりに茶を飲んでいる。好きな人の話ともなると、緊張するのだろうか。モリオは見かねて
「便所が近くなるぞ」
とたしなめる。だが、ヒトトセは不敵に笑う。
「いや。緑茶多量接種なまぐさ防止健康法だ」
なんだそりゃあ。モリオより早くヒトトセが言う。
「トイレに行くついでに、いろんなことが出来る」
〈長所〉
ヒトトセはようやく本題を切り出した。
「で。その惚れた女ってのは優しい人なんだ。気配りは細やか。いつでも俺の話を笑って聞いてくれる」
モリオは相槌を適当に打っている。
「それに比べて俺は駄目だ。気の利いたことは言えないし。デートスポットを知っているわけでも無い。運動音痴でサッカーも出来ない。ノロマ。ものぐさ」
ヒトトセは茶をあおった。
「俺がこんなにくじけたことを言っても、彼女は笑う。『自分の短所を認めることが出来る人ね』って」
〈即効性〉
「女の人へのプレゼントは何がいいんだろう」
ヒトトセのこの発言には下心が含まれているに違いない。モリオは本音を隠しつつ
「新商品の美容液が出たらしい。キャッチフレーズは『肌に塗った瞬間スベスベに』。どうだろう」
と助言を送った。だが、ヒトトセは意外にも
「駄目だな」
と即答した。モリオは驚き、声をあげる。
「なんだ。もう使っているのか。その女性は」
「使っていない。が。キャッチフレーズが駄目だ」
「何が気に食わないって言うんだよ」
モリオはいぶかしげに尋ねる。ヒトトセは答えた。
「肌につけた瞬間スベスベなら、手のひらがスベスベになるってことだろう」
〈一周〉
「デートスポットはどこがいいんだろう」
彼のこの発言には下心が。モリオは本音を隠しつつ
「別に遠くじゃなくてもいいだろう」
と答えた。ヒトトセは膝を打って
「そこなんだよ」
と叫んだ。彼はちゃぶ台に身を乗り出して続ける。
「彼女と、昔、美術館に行ったんだ。こんなきれいなところに行けたら良いねって喋った。こんな美しい場所は、世界で一番遠い場所にあるに違いないって」
「その女性は何と答えたんだ」
「『世界を一周したら、最後の足跡は私達のまさに真後ろですわね』」
〈アルバム〉
モリオは相槌を打ちつつ、部屋にあったサッカーボールをもてあそびはじめた。運動は好きではないが、彼が唯一ルールを理解している種目でもある。散らかっている部屋は手を伸ばせば必要なものが得られる一方で、思い出が転がっているような感覚を引き起こす。
〈愛の言葉〉
「実は。今日も、晩御飯を一緒に食べるんだ」
とヒトトセが俯いて言葉をこぼす。
「ならば。『好きです』って言ってしまえよ」
「ば。ば。ば。馬鹿言いやがれ。そんなのは」
ヒトトセの顔が赤く染まる。モリオは語り出す。
「夏目漱石はアイラビューを『月が綺麗ですね』と訳したと言う。だが、俺ならば『ありがとう』と訳すね」
〈彼の宝物〉
「見てくれ。モリオ。俺の宝物だ」
ヒトトセは茜色に輝く小箱を取り出した。ヒトトセが箱を動かすと、中から音がする。箱を開く。
「どうだ」
中の物は、金、銀、赤、さまざまに乱反射している。
「何だ。自慢か。俺はそんな浮ついたものは」
モリオが唇を尖らせる。片方は煎餅を齧りながら
「いいだろう。バレンタインに貰ったんだ」
と銀紙に包まれたチョコレートを見せびらかす。
〈最近どうも忘れっぽくて〉
「そろそろ、晩御飯の時間だな。俺は帰るよ」
モリオは出涸らしの茶を飲み切って、扉に手をかける。ヒトトセは目線だけで見送り、そして言い放った。
「お前誰だ」
〈また思い出す〉
来訪者は振り返り、今日何度目かの溜め息をついた。
「森尾守男だよ。お前が呼びつけたくせに」
部屋の主は、モリオと名乗る来訪者を見つめ、
「ああ」
と思い出した。だがモリオは
「相談に乗ると約束したのに、遅くなっちまった。もう晩飯だぜ。俺は。また。明日。来るよ」
と形ばかりの謝罪で、部屋を出た。ここのところ、毎日約束を交わしている。まあいいや。遊ぶ口実が出来てさ。モリオは沈思し、また溜め息。
ボケやがって。
ヒトトセとモリオは大学以来六十年の友人である。モリオはヒトトセに忘れられたって、思い出して貰えれば十分であった。怒りは覚えない。仕方の無い事なのだし、なにより、ヒトトセは友人であるのだ。
廊下の向こうから声が飛んで来た。
「モリオさん。もうお帰りですか」
廊下に立つ女性。彼女こそ、ヒトトセが言っていた『惚れた女』である。
「晩御飯をご一緒したかったのですけれど」
という女性の言葉を、モリオは制した。
「ヒトトセには、残された時間を、こんな男よりも、最愛の女性と二人で過ごして欲しいと思って」
廊下を歩いて玄関へ。彼女はモリオの傘を手渡した。互いに老いた手。彼女の薬指には光る指輪。
「今日も邪魔したね」
モリオが傘を開くと、打ちつける雨は意外と静かであった。濡れた道を歩き、振り返ると、彼女はまだ門先に立っている。モリオは苦笑いをこぼす。早く夫のもとに戻ってやれよ。頭が惚けて、妻の名前を忘れても、尚、愛を忘れない、あの男の元へ。




