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第8話:小鳥

 朝は七時。九時。昼休み。終業。


 マルタの規則どおりに日が過ぎていく。枠があるほうが楽だ。前世では「あと少し」の連鎖で深夜まで残っていた。今世の王国でも同じ。ここでは時間が来ると、マルタが書斎の扉を叩く。「終業です」。有無を言わせない。


 快適、なのだろう。たぶん。



 その日の午後。書斎で仕入台帳を広げていると、廊下から使用人たちの声が聞こえた。


「新しい侍女が来たらしいわ」

「王国からの流れ者だって」


 指が止まった。


 ——王国から。


 一週間前、この屋敷には暗殺者が来た。王国から。


 気にしすぎかもしれない。国境の領地だ。王国からの流れ者は珍しくないだろう。


 帳簿に目を戻した。数字に集中する。したつもりだった。



 夕方。食堂に向かう廊下で、すれ違った。


 栗色の髪。低い位置で束ねた結い方。小柄な背中。伏せた目。


 足が止まった。心臓が、一拍飛んだ。


 栗色の髪。あの束ね方。あの肩の丸め方。忘れたことは、一日もない。


 リネット。


 モーリス家の、経理補助の侍女。帳簿の不正を指摘したとき、「立場」を理由に声を上げられなかった人。廊下ですれ違いざま、声にならない「ありがとうございます」を唇だけで伝えてくれた人。


 そしてあの夜。裏口の前でろうそくを持って、一歩、横にずれてくれた人。


 リネットの視線が、一瞬だけ上がった。


 目が合った。


 彼女の目が見開かれた。血の気が引いていく。紙のように白くなった。


 次の瞬間、リネットは視線を床に落とした。まるで見知らぬ人間とすれ違うように、足早に通り過ぎていく。


 背中が、小さく震えていた。


 『対象の反応:極度の動揺。恐怖に近いパターンを検出——』


 恐怖。


 私を見て、怖がっていた?


 ……違う。たぶん。


 私を怖がっていたんじゃない。私に「見つかった」ことを、怖がっていた。



 食事の席に着いた。スープの湯気が鼻先をかすめる。匂いが、遠い。温かいはずなのに、味がぼんやりしている。パンの耳の固さだけが口の中で残った。食器がぶつかる音。椅子が引かれる音。全部が遠い。耳は聞いているのに、頭が受け取らない。


 周りでは使用人たちが笑い声を上げている。今日の仕事の話、明日の天気の話。日常だ。この食堂にとっては、何でもない夕方。


 私だけが、違う場所にいる。


 リネットが、ここにいる。


 なぜ。


 彼女はモーリス家の侍女だ。王国の貴族の屋敷に仕える人間が、わざわざ国境を越えて。


 自分で来た? 逃げてきた?


 あの夜、私の脱出を黙認した。見なかったふりをしてくれた。もし、それが屋敷で発覚していたら。


 胸の奥が、すうっと冷たくなった。


 母の「みっともない」。父の「下がれ」。あの空気の中で、令嬢の逃亡を見逃した侍女が許されるはずがない。


 あの子のせいじゃない。私が、勝手に逃げたのだ。


 でも、そんな理屈が通る屋敷じゃなかった。


 『処罰——降格か、追放。でも、なぜここに。偶然? ——保留』


 判断保留。珍しく、まともな結論だ。



 翌朝。書斎に向かう途中で、マルタを呼び止めた。


「新しく来た侍女のこと、少し聞いてもいいですか」


 声のトーンを平静に保つ。何気ない質問のふりをする。マルタにそれが通じるかどうかは、別の話だけれど。


 マルタの目が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。何を察したのだろう。私とリネットの関係か。それとも、質問の仕方そのものから、何かを読んだのか。


「リネットのことですか」


「……名前、ご存じなんですね」


「当然です。この屋敷に入る人間は、全員私が面談しています」


 マルタは淡々と語った。


「王国から来ました。仕えていた屋敷を追い出されたそうです。詳しい事情は語りたがりませんでしたが、手がひどく荒れていましたね。水仕事を長くやらされていたのでしょう」


 水仕事。経理補助だったリネットが。降格。いや、それ以上かもしれない。


「身元は確認済みです。問題があれば、すぐに報告します」


「……ありがとうございます。あの、もう一つだけ」


「はい」


「彼女——家族のことは、何か話していましたか」


 マルタが少し間を置いた。記憶をたどるように目を細める。


「妹が二人いると言っていました。王国に残してきた、と。そのことを口にしたとき、目が、赤くなりましたね」


 心臓が跳ねた。拳を握る。爪が掌に食い込む。ゆっくり、開く。


 妹が、二人。


 王国に、残してきた。


 ……残さざるを得なかった、のかもしれない。


「それと」


 マルタが一拍置いた。声のトーンが少し変わった。


「あの子、面談のとき一つだけ聞いてきました。『ここに、モーリス家のお嬢様はいらっしゃいますか』と」


 心臓が、跳ねた。


「答えたんですか」


「いいえ。身元確認が済むまで、情報は出しません。『存じません』と」


 マルタの判断は正しい。当然の対応だ。


 でも、リネットは、私のことを聞いた。


 逃げてきたのなら、わざわざ私の居場所を尋ねる必要がない。隠れたいなら、私と関わらないほうが安全だ。


 なのに、聞いた。


 『矛盾——逃亡者なら接触を避けるはず。なのに、聞いた。目的が——?』


 ……考えすぎだ。


 彼女はただ、知り合いを頼りたかっただけかもしれない。追い出されて、行く当てもなく、せめて知っている顔がいる場所へ。


 でも。


 あの廊下で目が合ったとき、リネットの目に浮かんでいたのは、安堵ではなかった。


 安堵なら、もう少し緩む。ほっとした人間の表情は目尻に出る。あれは違った。


 あれは——罪悪感に似た、何かだ。


 何かを抱えている目。言えないことがある目。前世のSOC、セキュリティの監視部署で何度も見た。情報を隠している人間の、目。



 書斎に戻った。帳簿を開く。


 数字が並んでいる。いつもの作業。いつもの日常。窓の外には山が見えて、空が広い。マルタの規則があって、残業は禁止で、報告は評価されて。


 良い場所だ。


 良い場所なのに、胸の奥に刺さった小さな棘が取れない。


 リネット。あの夜、ろうそくの光の中で一歩横にずれてくれた、臆病な小鳥。でも、あの一歩は勇気だった。あの夜の中で、一番勇敢だったのはリネットだ。私は逃げた。あの子は——残った。残って、罰を受けた。


 あの子が、何を抱えてここに来たのだろう。


 『推奨:経過観察。判断は、情報が揃ってから』


 ……今回は、素直にそうする。


 帳簿に目を戻した。数字を追う。仕入額、在庫数、税収の推移。いつもの作業に没頭する。


 ——没頭しようとする。


 嫌な予感だけが、数字の裏に貼りついて離れなかった。


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