第7話:新しい職場
食堂の入口に、見知らぬ女性が立っていた。
五十代。背筋がまっすぐで、銀が混じった髪をきっちりと結い上げている。目が鋭い。鋭いのだけれど、冷たくはない。品定めをしている目だ。朝食の席にノアの姿はなかった。
「ユリア様ですね。マルタと申します。この屋敷の家令を務めております」
家令。つまり、屋敷のすべてを統括する人間。モーリス家にもいたけれど、あそこの家令は父の顔色しか見なかった。
「今日から屋敷の規則をお伝えします。よろしいですか」
『規則の伝達。査定面接に類似する緊張パターンを検出——』
……ただの屋敷案内だって。
マルタに連れられて、屋敷を歩いた。
書庫にはインクの匂いが染みついていた。執務室は木の香り。台所を通ったとき、パンの焼ける匂いがして、腹が鳴った。マルタは何も言わなかった。
それぞれの場所で、そこを担当する使用人が会釈をしてくれた。全員と、目が合った。
モーリス家では、すれ違う使用人は目を逸らすか、足を速めるかだった。ここでは誰もそうしない。普通の会釈。一人の若い女性は、小さく笑いかけてくれた。笑顔だった。使用人から向けられる笑顔。たったそれだけのことが、胸の奥に刺さる。
マルタの歩幅が、私に合っている。さりげなく、でも明らかに。合わせてくれている。気遣いを「規則」の顔で行う人だ。
歩きながら、マルタが淡々と規則を伝える。
「朝食は七時。業務開始は九時。昼の休憩は一時間」
「……細かいですね」
「必要なことです。さて——」
マルタが足を止めた。少し改まった調子で。
「残業は、領主様の許可制です。無断での残業は禁止されています」
足が止まった。
「残業が——禁止?」
「はい」
マルタは当然という顔で頷いた。
「疲弊した者に正しい判断はできません。それがこの屋敷の方針です」
『……前世の上司全員に聞かせたい』
同感。
肩の力が、すとんと抜けた。どれだけ長く力を入れていたのか、力を抜いた瞬間にわかった。
ここでは——禁止。
「それと」
マルタが続ける。
「問題を発見した場合は、必ず報告してください」
足が、また止まった。
「……報告したら、どうなりますか」
聞いてから、自分の声が小さいことに気づいた。手が、いつの間にか服の裾を握っている。
報告した結果を、身体が覚えている。「余計なことを言うな」。「お前の仕事じゃないだろ」。報告書を出して、翌日から口を利いてもらえなくなったあの週のこと。
マルタは眉を上げた。まるで、おかしなことを聞かれたと言いたげに。
「評価されます。当然でしょう?」
——当然。
沈黙が落ちた。マルタは何も付け足さなかった。当然のことに、説明は要らないとでも言うように。
その二文字が、思ったよりずっと重かった。
「報告の内容が正しければ、評価に反映されます。間違っていた場合も、報告したこと自体は評価されます。萎縮して問題を隠す方が、この屋敷では問題です」
知ってた。頭では。
でも、こうやって目の前で、当たり前の顔で言われると。
「……わかりました」
目が熱くなった。泣いてはいない。たぶん。
屋敷の案内が終わって、書斎に戻る途中。
マルタが窓辺で足を止めた。
「あちらをご覧ください」
窓の外に、山岳地帯が広がっていた。
切り立った岩壁。灰色と茶色が層になった断崖に、午後の光が当たっている。狭い峠道が山肌を縫うように伸びて、その先で霞に消える。稜線の上を、鳥が二羽、旋回している。風が峠を吹き抜ける音が、窓越しにかすかに聞こえた。
——雄大で、険しい。何もない、辺境の山。前世のオフィスの窓からは、隣のビルしか見えなかった。空すらまともに見えなかった。ここでは、空が広い。不思議と、嫌じゃない。
「あの山の向こうが、王国との国境です」
マルタが淡々と説明した。
「峠道は一本。大きな隊商でも一列で通るのがやっとです。補給路も限られています」
『地形分析:防御に極めて適した地形。攻撃側のコストが著しく高い。峠道の道幅から推定——補給路の最大通過量は——』
……職業病だ。景色を見ても、脅威分析が始まる。
でも、覚えておこう。いつか役に立つかもしれない。
「このグレイシア領は、ルーセン公国の東端に位置しています。王国との国境を預かる、言ってしまえば、門番のような領地です」
「門番……」
「ええ。だからこそ、ここでは情報を重視します。何が起きているか、何が起きそうか。それを把握できる人間が、ここでは必要とされます」
マルタの目が、まっすぐ私を見た。
「ユリア様。昨夜のことは、屋敷中に伝わっています」
——暗殺者のこと。
「領主様の命を守ったのは、あなたの観察力です」
「あれは——たまたまで」
「たまたまではありません」
マルタの声は事務的だったけれど、そこには確かな重みがあった。
「良い仕事でした。今後も、よろしくお願いいたします」
……評価。
問題を見つけて、報告して、行動して。その結果を、ちゃんと見て、ちゃんと言葉にしてくれる人がいる。
これが、ここでは「当然」。
四十七年。それだけの時間を、別の「当然」の中で過ごしてきた。
「マルタさん」
「はい」
「ここでは、みんなこうなんですか」
「こう、とは?」
「報告したら、評価される。残業は禁止。問題を見つけたら、ありがとうと言われる」
マルタは少しだけ考えるように間を置いた。
「……当然のことを、驚かれるのですね」
その声は、事務的な中に、わずかに、哀しみに似た何かが混じっていた。
「はい。この屋敷では、そうです。領主様の方針であり、私の方針でもあります」
領主の方針。ノアの方針。
研修で聞いた言葉が浮かんで、消えた。あのとき他人事だと思って聞いていた。ここでは、当たり前にある。
「……ありがとうございます、マルタさん。この屋敷の規則、全部守ります」
「残業禁止もですか」
「……善処します」
「善処ではなく遵守でお願いいたします」
——この人、厳しいな。
でも、嫌じゃない。
書斎に戻って、帳簿を開いた。数字が並んでいる。いつもの光景。いつもの作業。
でも今日は、窓の外に山が見える。遠くまで見える。塀で囲まれた庭じゃない。
——ここで、働いてみよう。
少しだけ、そう思えた。




