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第6話:侵入検知

 インクの匂いが、書斎に染みついている。知っている匂い。前世も、今世も。


 ここで帳簿を見始めて、一週間。交易品の仕入台帳、在庫記録、税収の集計。数字と向き合う時間は、二回の人生を通じて一番慣れ親しんだものだ。


 変わったのは、環境だけ。


 前世ではExcelとにらめっこだった。ここでは、「ありがとうございます、ユリア様」と言われる。


 まだ、慣れない。



 その日の午後、庭に出た。


 書斎に籠もりきりだと体が鈍る。モーリス家ではそもそも庭を歩く気力すらなかったけれど、ここでは、まあ少しだけ足を動かしてみようかという気になる。


 庭は手入れが行き届いていた。低く刈り込まれた生垣。石畳の小径。使用人たちが水を撒いたり、花壇の手入れをしている。


 そのとき。


 視界の端で、何かが引っかかった。


 庭師の男が一人、花壇の脇にしゃがんでいる。若い。二十代半ばくらい。新顔だ。ここ一週間で見たことがない。


 別に、おかしくはない。使用人が増えることくらい、屋敷では珍しくないだろう。


 ただ。


 男の視線が、おかしい。


 花壇に向いているはずの目が、ちらちらと屋敷の本棟を見ている。主人棟の窓。ノアの執務室がある棟だ。


 『行動パターン異常を検出。該当者:庭師。注視対象:主人棟の窓配置』


 ……偶然かもしれない。新入りの庭師が、屋敷の建物に興味を持っただけかもしれない。


 でも。


 前世、別の会社のセキュリティ監視室(SOC)で三年、モニターを睨み続けた目が、言っている。


 あれは、花を見ている人間の視線じゃない。


 建物の構造を確認している。窓の位置、扉の数、死角になる場所。侵入経路を把握しようとしている人間の動きだ。


 『追加情報:対象は鍬の持ち方に不慣れ。柄を握る手が安定しない。職業的動作との不一致率:高』


 鍬の持ち方。そこまで見てるのか、この脳内セキュリティ担当は。


 ……でも、同感。あの持ち方は「道具に慣れていない人間」の持ち方だ。研修で見せた映像を思い出す。不正アクセスの典型。「権限を持っているふりをする人間」は、道具の使い方でバレる。


 私は庭を出て、屋敷に戻った。



「ノア様。少し、お話が」


 執務室のノアは、書類から顔を上げた。


「どうしました?」


「今夜、お部屋を移動された方がいいかもしれません」


 ノアの目が一瞬だけ細くなった。穏やかな表情は変わらないのに、目だけが鋭くなる。こういう切り替えがあるのだ、この人には。


「理由を伺っても?」


「……勘、です」


 ノアが黙って見ている。


「いえ——勘じゃありません。職業病です」


 正直に言った。前世のことを、直接は言えない。でも、嘘はつきたくなかった。


「庭に新しい庭師がいます。あの人、花の世話をしているように見えますが、実際は屋敷の構造を観察しています。鍬の持ち方も不自然です」


「……続けてください」


「もし私が——この屋敷に害を為そうとする人間なら。まず建物の構造を把握します。窓の位置、扉の動線、夜間の警備の薄いところ。それから、実行に移す」


 ノアは口を挟まなかった。ただ聞いている。


「新入りの使用人に紛れるのは、一番簡単な侵入方法です。正面から来るより、内側に入ってしまうほうが効率がいい。前世の——いえ、以前学んだことが、そう教えています」


 沈黙。


 言いすぎた、と思った。こんな話、普通は信じない。令嬢が何を言っているのかと思われても仕方がない。


 ノアは椅子の背にもたれて、少し考えるように天井を見た。


 それから。


「わかりました。今夜は別の部屋を使います」


「……え。それだけ?」


「ええ。あなたの分析を信じます」


 ノアの即断に、脳内セキュリティ担当すら言葉を失っていた。


「それと——警備に、いくつか指示を出してもいいですか?」


 ノアは穏やかに微笑んだ。


「お任せします」



 その夜。


 ノアの部屋は空になっていた。灯りだけがいつも通りに灯されている。外からは、誰かがいるように見えるはずだ。


 『ハニーポット。偽のターゲットを用意して攻撃者を誘い込む手法——の、原始的な版ですね』


 ハニーポットなんて大層なものじゃない。ただ、部屋を空にして待っただけだ。


 でも、SOCで山ほど見てきた。侵入者は、ターゲットが「予想通りの場所にいる」と信じて動く。その思い込みが、致命的な隙になる。


 私は隣の部屋で、扉の隙間から廊下を見ていた。


 夜が更けていく。


 最初に消えたのは、厨房の物音だった。食器を洗う水の音、棚を閉める音。次に、使用人たちの足音が一つずつ減っていく。マルタの確認の声。扉が閉まる音。——また一つ。また一つ。


 最後に残ったのは、虫の声だった。壁の隙間で、細く鳴いている。


 それも——消えた。


 無音。


 石の床から冷えが這い上がってくる。膝を抱えた姿勢で、もう何時間経っただろう。呼吸が聞こえる。自分の呼吸。胸の鼓動。——あの深夜シフトと同じ感覚だ。画面の向こうの攻撃者を待つ、あの張り詰めた静けさ。


 でも、違う。画面の向こうには物理的な殺意はない。今夜は——ある。


 闇に目が慣れていく。廊下の石壁の模様が、少しずつ見えてくる。心拍が、耳の中で鳴っている。


 深夜。


 足音。


 軽い。慣れた歩き方。でも、この屋敷の人間の足音ではない。屋敷の人間は石の廊下の継ぎ目を知っている。軋む場所を避けて歩く。この足音は、均一すぎる。


 影が、ノアの部屋の扉の前で止まった。


 手が、扉にかかる。


 ——開いた。


 影が、部屋に滑り込んだ。


 その瞬間。


 廊下の両端から、警備兵が動いた。扉が塞がれ、部屋の中から短い格闘音が聞こえた。


 三十秒。その間、私は扉の隙間から見ていた。警備兵二人の動きが連携している。一人が腕を押さえ、もう一人が武器を奪う。訓練通りの動き。マルタが組んだ配置が、正しく機能している。


 それで終わった。


 警備兵が男を取り押さえて廊下に引き出す。庭師の服。腰には短剣。暗い目が、私を見て一瞬だけ驚いた顔をした。


 暗殺者。


 何度も報告書に書いた二文字が、目の前にいる。不正アクセスではなく、本物の殺意を持った侵入者が。


 背筋が冷えた。本当に——来た。


 予想は当たった。——よかった、と体の奥が緩んだ瞬間、短剣の刃が光って、膝から力が抜けかけた。あの頃、攻撃は画面の中の文字列だった。IPアドレス、ログ、タイムスタンプ。——今は違う。人の手が、人を殺すために動いた。


 息が止まっていたことに気づいた。吸った。冬の夜の空気が、乾いた喉に刺さった。


 予想して、備えて、守った。ただそれだけだ。


 膝の力が抜けたのは、暗殺者が連行された後だった。壁に手をついた。指先が震えている。さっきまで震えていなかったのに。緊張が解けて、後から来る。大規模インシデントを処理した翌朝、コーヒーカップを持つ手が震えたのと同じだ。遅れて来る反応。


 しばらく、そのまま壁にもたれていた。石の冷たさが、背中から体温を奪っていく。でも、不思議と安心する冷たさだった。



 翌朝。


 ノアの執務室に呼ばれた。


「昨夜はありがとうございました」


 ノアは穏やかに言った。いつもの調子だ。命を狙われた翌朝なのに、この人は本当に平常運転だな。


「捕縛した男を調べたところ、王国から入った人間のようです」


 王国。


 ……やっぱり。


「モーリス家か、その上からの指示かは、まだわかりません。ですが——」


 ノアが少し間を置いた。


「ユリア様の『職業病』が、なかったら危なかったかもしれません」


「……たまたまです」


「たまたま庭師の鍬の持ち方に気づいて、たまたま窓の視線パターンを分析して、たまたま侵入経路を予測した、と」


 列挙されると、恥ずかしい。


「君の『勘』、信じてよかった」


 ノアの目が笑っていた。からかっているのではなく、本当にそう思っている目だ。


 暗殺者を止めて、「よくやった」と言われた。


 指先が、帳簿を持つときとは違う震え方をしていた。


 防いだこと自体は、以前にもあった。脆弱性を塞いだ。攻撃を検知した。被害を食い止めた。でも「起きなかったこと」に手柄はない。「なんで防げなかったんだ」と責められることはあっても——。


「あの、ノア様」


「はい?」


「帳簿の件、お受けします」


 ノアが、少し目を丸くした。


「もう少し考えると仰っていたのでは」


「考えました」


 もう。信じてみようと思った。この人を。この場所を。


 少なくとも、ここでは守ったことを、ちゃんと見てくれる人がいる。


 『判断を承認。リスク許容範囲内です。——ようこそ、新しい職場へ』


 ……脳内セキュリティ担当に歓迎されるのは、複雑な気分だ。


 窓の外では、朝日が山の稜線を照らしていた。


 ——守るだけで、敵が勝手に転ぶ。


 そういう守り方が、あるのかもしれない。


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― 新着の感想 ―
もしかすると人生で初めて評価されたのかもしれない。
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