第5話:ありがとう
知らない天井だった。
——また?
一瞬だけ、初めてこの世界で目を開けた朝と重なった。でも、今回は違う。前世の記憶は消えていない。ここは異世界で、私はユリア・モーリスで、そして——
国境を越えた。朝露の中で倒れた。それだけは覚えている。
『現在地:不明。身体状態:衰弱。周囲の脅威:——検出されず』
リスク管理脳が起動している。反射的に周囲を見回した。
白いしっくいの天井。窓からは穏やかな陽光。清潔なシーツ。枕元に水差しと、小さな花瓶に活けられた野花。
……花?
モーリス家の私の部屋に、花が飾られたことは一度もなかった。
「お目覚めですか」
穏やかな声。
ベッドの横に、青年が座っていた。椅子に腰をかけて、膝の上に開いた書類を載せている。仕事をしながら、ここにいたらしい。
目が合った。
深い翠色の目。少し長めのアッシュブラウンの髪を自然に流している。彫りの深い顔立ち。
『未知の人物を検出。脅威レベル:不明』
はいはい。
「……ここは」
声がかすれていた。喉が乾いている。
「グレイシア領の屋敷です。国境近くの川沿いで倒れていらしたので、お連れしました」
グレイシア。聞いたことがある。ルーセン公国の辺境領。王国との国境に接する——
つまり、私は。本当に、国境を越えたのだ。
「私はノア・グレイシアと申します。この領地を預かっています」
領主。この人が。二十代前半に見えるのに。
「お名前を伺っても?」
『推奨:偽名を使用——』
……いや。
もう、嘘をつく気力がない。それに、嘘をついてどうする。身分を隠して逃げ続けるほどの体力は残っていない。
「ユリア。ユリア・モーリスです」
モーリス。その名前を聞いて、目の前の青年、ノアの表情を窺った。
悪役令嬢。問題児。王国で疎まれていた女。
何かしらの反応があるはずだ。眉をひそめるか、目を逸らすか、声のトーンが変わるか。
ノアは、穏やかに頷いた。
「ユリア様ですね。まずはゆっくりお休みください」
……それだけ?
名前を聞いて、動揺も警戒もしない。令嬢の家名を聞けば、普通は身元を探るか、面倒事を避けるか、どちらかだ。
「あの……私のことは」
「存じています」
ノアは穏やかな声のまま言った。
「モーリス家のご令嬢が行方不明だという話は、国境の商人から聞きました」
行方不明。——逃亡者、とは言わなかった。
「お事情はいずれ。今は、休むことが先です」
ノアの目が、一瞬だけ私の手元を見た。何を読み取ったのかはわからない。でも「いずれ」という言葉の選び方が、ただの気遣いではない気がした。知っていて、聞かない。そういう間合い。
水差しから杯に水を注いで、私のほうに差し出した。
受け取る手が震えているのがわかった。水が冷たい。喉を潤すと、乾ききった体に水が染み渡る感触がした。
「食事はあとで運ばせます。お好みがあれば」
「……なんでも」
食事の好みなんて、聞かれたの初めてだ。モーリス家では、出されたものを食べるだけだった。好みを聞かれる使用人のほうが、まだ上等な扱いだった。
ノアは椅子から立ち上がった。書類を抱え直す。
「何かあれば、使用人を呼んでください。無理はなさらず」
穏やかに微笑んで、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かだった。足音が遠ざかる。——早足にはならなかった。モーリス家の使用人たちは、私の部屋の前を通るとき、いつも少し早足になっていた。
布団を引き上げて、顔を埋めた。
清潔な布の匂いがする。洗い晒しの埃っぽい匂いじゃない。ちゃんと日に干した、温かい匂い。
もう少しだけ、この布団の匂いを嗅いでいたい。
三日が経った。
薄い粥から始まった。少しずつ固形のものが増えて、パンと野菜のスープ、柔らかく煮た肉。胃が驚いている。
二回の人生を合わせて初めてかもしれない、こんなに規則正しく食べるのは。
二日目の夕食を運んできた使用人が、盆を置くとき、ちらりとこちらを見た。
「お加減はいかがですか」
小さな声。目が合った。逸らされなかった。モーリス家では、使用人が私と目を合わせることすらなかった。
「……少し、良くなりました」
使用人は小さく頷いて、出ていった。それだけのこと。でも、盆の上のスープから立ち上る湯気が、目に沁みた。
体力が、少しずつ戻ってきた。
ベッドから出て、窓辺に立てるようになった。窓の外には、穏やかな山間の街並みが広がっている。石畳の通り。行き交う荷馬車。遠くに見える山の稜線。
モーリス家の窓から見えた景色とは、違う。あの屋敷の庭は、塀で囲まれていて空しか見えなかった。
ここからは、遠くまで見える。
四日目の朝。廊下に出てみた。
屋敷は大きい。モーリス家ほどの華美さはないけれど、手入れが行き届いている。壁のしっくいは白く、窓からは光がたっぷり入る。
使用人とすれ違った。中年の女性が会釈をして通り過ぎる。目が合った。——目を逸らされなかった。
それだけのことが、喉の奥をきゅっと締めた。
廊下の奥から声が聞こえた。何人かが慌てている。
「帳簿の数字が合わない」
「先月の交易記録と突き合わせて——いや、ここが違う」
「早く直さないと領主様への報告が……」
足が止まった。
『帳簿の異常を検出。——いえ、あなたには関係ない案件です』
わかってる。
ここは他人の屋敷で、私は保護されているだけの身で、帳簿なんか覗く立場じゃない。
でも。
「……あの。帳簿、見せてもらえますか?」
使用人たちが振り返った。驚いた顔。
「少し、得意なので」
得意。まあ、嘘ではない。前世で十年、今世で五年。帳簿と数字には十五年の付き合いがある。
使用人が恐る恐る帳簿を渡してくれた。
ページを開く。数字の列。インクの色。筆跡。
——ああ、これ。
「ここです。三行目の転記ミス。元帳の数字を書き写すときに、千の位が一つずれてます」
使用人が元帳を確認する。目が丸くなった。
「本当だ……! ありがとうございます、お嬢様!」
ありがとう。
……え。
使用人が頭を下げている。隣の男性も、「助かりました」と笑っている。
前世では。帳簿のミスを指摘したら「余計なこと言うな」だった。今世の王国では「悪役令嬢が口を出すな」だった。
ここでは。
「お見事ですね」
声に振り返ると、廊下の奥にノアが立っていた。いつからいたのだろう。書類を抱えたまま、こちらを見ている。
「あ——いえ、勝手なことを、すみません——」
「いいえ。助かりました」
ノアは数歩、近づいてきた。
「ユリア様のおかげで、この方たちが叱られずに済みました」
——この方たち、が。
ミスをした使用人を責めるのではなく、「叱られずに済んだ」と言った。部下を守る言い方だ。
「ありがとうございます」
ノアが、頭を下げた。
領主が。倒れていた私を拾ってくれた、この人が。帳簿のミスを見つけただけの私に、頭を下げた。
胸の奥で、何かがきしんだ。
痛いのとは違う。硬くなっていた何かに、亀裂が入るような感覚。
頑張って、感謝されるなんて。
おせっかいを焼いて、「ありがとう」と言われるなんて。
前世でも。今世でも。
初めてだった。
目の奥が、熱い。瞬きを一つ。帳簿を持つ手が、まだ震えている。——止まらない。止める方法がわからない。
「この程度のこと、お礼を言われるようなことでは——」
「この程度のことに気づける人は、そう多くありません」
ノアは穏やかに言った。
「もしよろしければ、領地の帳簿を見ていただけませんか?」
「え」
「人手が足りなくて。数字に強い方がいると、とても助かるのですが」
……仕事の話?
保護されている身で、仕事をもらえるということ?
……仕事の話? 保護されている身で、仕事。取引、じゃない。……たぶん。
「……考えさせてください」
「もちろん。急ぎません」
ノアは穏やかに微笑んで、去っていった。
廊下に一人、残された。
指先が、まだ震えている。さっき帳簿を持ったときの、インクの匂いが残っている。
前世の匂いと、同じ匂い。
でも、前世とは違う結果が返ってきた。
この人は、味方なのだろうか。
それとも。
『推奨:信頼は段階的に。ただし、現時点での脅威レベルは低い』
……珍しく、まともなこと言うじゃない。




