第4話:国境
「——たかが令嬢風情が、帳簿に首を突っ込んだと?」
男の声は、廊下の向こうから筒抜けだった。
父の執務室の前を通りかかっただけだ。客人用の香油の匂いが廊下に残っている。盗み聞きをする気はなかった。でも扉が薄いのか、声が大きすぎるのか、聞こえてしまった。
「マーレン商会の件は私が報告を受け、適切に処理した。モーリス卿の判断は迅速だった」
聞いたことのない声。太くて、芝居がかった響き。
「しかし、帳簿を最初に見たのは娘だと聞いている」
指先が、壁に触れたまま止まった。
父の声だった。低い。いつもの平坦な調子。
「ふん。それがどうした」
男の声が鼻で笑った。
「悪役令嬢ごときが見つけた不正を、当主が処理した。それだけの話だ。身の程を知らぬ小娘の手柄話など、王都に届ける必要はない」
——ごとき。
その一語が、胸の奥で引っかかった。
『発言者の分析——推定:王国の上級官僚。口調から見る性格特性:権威主義、過小評価傾向——』
いらない。
足が動かない。立ち去ればいい。聞かなかったことにすればいい。十四歳のときも、前世でも、そうしてきた。
「この件は国庫管理官として、私が直接管轄する。モーリス家の報告として、私の名で王都に上げよう」
管轄。報告。名前。
あのときと同じだ。十四歳の不正発覚。上司の名前で提出される報告書。「守谷さんはサポートが得意だね」。
前世のオフィス。上司の背中。自分の名前が一度も出ない会議の議事録。全部、重なった。
「——わかった」
父の声。
それだけ。いつもの三文字。
あの男が、父から手柄を奪ったのだ。父が私から奪った手柄を、さらに上の人間が奪った。奪う側にも、奪われる側にも、私の名前は最初からなかった。
廊下で立ち尽くしている自分に気づいた。足が震えていた。寒いのだと思った。
自室に戻って、扉を閉めた。
鍵をかける指が、うまく動かない。
——おかしい。
手柄を取られるのは慣れている。十四歳のときも、前世でも。今さら動揺するようなことじゃない。
なのに、体がおかしい。
頭の芯が痺れている。視界の端が暗い。心臓が妙に速い。
『身体反応の異常を検出。ストレス指標:危険域。推奨:即時休息——』
知ってる。知ってるけど。
膝が、折れた。
冷たい石の床。既視感。この感覚を、知っている。
——会議室に向かう廊下。膝から力が抜ける。床のタイルが近づいてくる。遠くで誰かの声。
前世の、最後の日。
あのときと同じだ。体が限界を超えるとき、最初に膝が折れる。私の体はそういうふうにできている。前世も、今世も。
床に手をつく。指先が冷たい。石の感触。ここはオフィスじゃない。異世界の屋敷の、自分の部屋の床。
——でも、やっていることは同じだ。
無理をして、気づかれないように、倒れるまで。
この体は十五歳だ。前世の三十二歳より若い。でも、ずっと前から酷使されている。ろくに食事も摂れず、ろくに眠れず、ろくに休めず、十五年間。
前世は三十二年かかった。今世は十五年で、もう膝が折れている。
『警告。前世との類似度:97%。残存——』
聞きたくない。
でも、体が教えている。次はない。次に膝が折れたら、もう立てない。
どのくらい、床に座っていただろう。
窓の外が赤い。夕暮れ。厨房から夕食の支度の音が聞こえる。鍋の蓋が鳴る音。誰かが笑う声。
この屋敷は回っている。私がいなくても。
前世の会社もそうだった。誰かが辞めても、誰かが倒れても、翌週には業務は回っていた。引き継いで、帳尻を合わせて、何事もなかったように。
——私がいなくても、何も変わらない。
なら、いなくなっても、何も壊れない。
立ち上がった。膝がまだ笑っている。壁に手をついて、体を支えた。
『推奨アクション:脱出。ただし、計画的に——』
計画なんて立てている余裕はない。
前世の私なら、リスク評価をして、実行計画を練って、想定されるインシデントへの対応策を整えてから動いただろう。でも今世の私は十五歳で、膝が折れていて、次がない。
最低限のものだけ、鞄に詰めた。着替え。少しの金貨、自分の小遣いからこっそり貯めていたもの。水筒。
マントを羽織る。深い色の、目立たないやつ。
窓の外はもう暗い。月が薄い。
——今夜しかない。あの男がいる間は屋敷中が慌ただしくなる。使用人たちは客人の世話に追われて、私の部屋になんか誰も来ない。いつものことだ。
裏口に向かう。使用人通路を通って、厨房の脇を抜けて。
暗い廊下。自分の足音だけが響く。石の床が冷たい。壁に触れると、指先に結露の湿り気。この廊下を何百回と歩いた。帳簿を抱えて、使用人の視線を避けて、自分の部屋まで。いつも同じ道。今日が、最後になる。
角を曲がったところで、足が止まった。
リネットが立っていた。
手にろうそくを一本。芯が長い。つけたばかりだ。弱い光が、栗色の髪と伏せた目を照らしている。
呼吸が止まった。見つかった。その一語が頭の中を埋め尽くす。
『対策:言い訳を——』
リネットは、私を見ていた。
鞄を背負った私を。マントを羽織った私を。裏口に向かう私を。
何を言い訳しても通じない格好だった。
沈黙が、長い。ろうそくの炎が揺れて、リネットの顔に影を作った。
——彼女が口を開いたら、終わりだ。叫ばれたら、走っても追いつかれる。使用人を呼ばれたら、屋敷を出る前に捕まる。
リネットの唇が動いた。
何かを言いかけて、やめた。
視線が、落ちた。
ろうそくを持つ手が、ゆっくりと体の横に下りる。光が私の顔から外れて、壁を照らした。
リネットは、一歩、横にずれた。
裏口への通路を、塞がないように。
目は合わなかった。リネットは壁を見ていた。ろうそくの光に照らされた壁の、何もない場所を。
——見なかったことにしている。
『状況分析:黙認。協力の意思あり——ただし消極的。動機は——』
いい。
わかってる。
声をかけることも、手を貸すことも、できないのだ。ただ目を逸らすことだけが、たぶん彼女にできる精一杯。
リネットの横を通り過ぎる。
すれ違うとき、彼女の手が微かに震えているのが見えた。ろうそくの炎が揺れていた。
振り返らなかった。振り返ったら、彼女が困る。
裏口の扉を開けた。夜の冷たい空気が頬を叩いた。草と土の匂い。虫の声。
扉を閉めた。
——もう、戻れない。
夜道は暗かった。
月明かりだけが頼りで、足元がおぼつかない。石を踏んで、枝を踏んで、何度もよろけた。
体力がない。当たり前だ。十五年間ろくに外を出歩いたことのない令嬢の足で、夜道を歩いている。しかも膝は一度折れたばかりで、太ももの筋肉が断続的にぴくぴく震える。
『歩行可能距離の推定——』
言わなくていい。歩けなくなったら、そこで終わりなだけだ。
国境は、屋敷から北へ半日の距離だと聞いたことがある。川を渡れば隣国、ルーセン大公国。モーリス家の管轄は及ばない。
半日。馬車ならともかく、この足で。
森を抜ける。暗い。湿った落ち葉の匂いが足元から立ち上る。木の根に足を取られて、手をついた。手のひらの皮が剥けて、ぬるい痛みが走る。
立ち上がる。歩く。また転ぶ。また立ち上がる。
どこに向かっているのか、正確にはわからない。北。川を越えれば、隣国。それだけだ。地図も持っていない。方角は星を頼りにしている。前世なら、スマートフォンがあった。GPSがあった。ここでは、空と足しかない。
怖い。認めよう。怖い。暗闇に何がいるかわからない。獣の声がする。枝が折れる音がするたびに、心臓が跳ねる。
でも、後ろに戻る方がもっと怖い。
前世の通勤のほうがまだ楽だった。駅まで十五分。たどり着けない日は、なかった。
『不要な比較を検出——』
うるさい。
東の空が白み始めた頃、川が見えた。
幅は十メートルくらい。橋がかかっている。木造の、朽ちかけた橋。手すりの一部が折れて、川面に突き出ている。
橋の向こうが、ルーセン大公国。
番人はいなかった。こんな辺境の国境に、常駐の兵はいないのだろう。朝霧が川面を覆っていて、対岸がぼんやり霞んでいる。
——上流に、光が見えた。松明。距離はあるが、こちらに向かっている。
走れない。この足では。
橋の板がきしむ。一歩ごとに、木が軋む音がする。水音が下から聞こえる。松明の光が、霧の中でじわりと大きくなる。
渡りきった。
振り返った。
橋の向こうに、朝焼けに染まった森が広がっている。モーリス家の、もう私には関係のない景色。
『国境を越えました。エドガルド王国の法的管轄圏外です』
……そう。
膝から力が抜けた。今度は、恐怖ではなかった。何かが抜けていく感覚。
草の上に座り込んだ。朝露が服を濡らす。冷たい。
泣いてはいない。泣く体力も残っていない。ただ——空が広い。この空を、モーリス家の窓からしか見たことがなかった。枠の中の空。今は、枠がない。どこまでも続いている。
——逃げた。
初めてだ。前世では、最後まで逃げなかった。逃げる選択肢すら思いつかなかった。「辞めたら負け」「ここで頑張らないと」「いつか報われる」。そう言い聞かせて、膝が折れるまで。
今世の私は、逃げた。
それが正しいのかどうか、まだわからない。ここから先に何があるのかも。
でも、少なくとも同じ結末にはならない。
同じ轍を、踏まなかった。
朝日が、川面を金色に染めている。
鞄を抱えたまま、草の上に横になった。体が動かない。目を開けていることが、もうできない。
遠くで、馬のひづめの音がした気がした。




