第36話:新しい日常
指先が、温かい。
それが最初にわかったことだった。目を開ける前に、指先が温かい。
天井の木目。見慣れた部屋。見慣れた朝日。
この世界で初めて目覚めた朝も、こうやって天井を見上げた。あの時は、二つの記憶がぐちゃぐちゃに混ざっていて、指先が冷たくて、体の芯まで疲れ切っていた。「ここはどこだ」と思った。布団を頭まで引き上げて、世界から隠れたかった。
今は、布団を蹴る足が、軽い。八時間眠れた。マルタが消灯を監視しているおかげで。
窓を開けた。
冬の終わりの空気。街の暖炉の煙が、かすかに混じる。山の稜線に朝日が当たって、白い峰が薄く金色に染まっている。遠くで鶏が鳴いた。荷車の車輪が石畳を転がる。市場の声。——生きている音だ。
深く息を吸った。肺が広がる。
前世の最後の朝。目覚ましが鳴って、身体が動かなかった。耳鳴りだけの朝。あの朝には、鶏の声も、荷車の音も、なかった。
見るたびに少しずつ、当たり前になっていく。当たり前が一番贅沢だと知っている。
『本日の予定:領地視察、交易商人との会合、ベルガルド公国からの安全対策相談、夕方にノア様と——』
……最後の一個は業務じゃないでしょ。
「おはようございます、ユリア様」
振り返ると、ノア様が執務室の入口に立っていた。朝日が横から差して、髪の輪郭が光っている。
目が合った。まだ慣れない。この人の顔をまっすぐ見ると、耳の後ろが熱くなる。
ノア様が微笑んで、言い直した。
「おはようございます、グレイシア領防衛顧問殿」
「……その呼び方、やめてくださいって言いましたよね」
「公式の場では使わないと約束しました。二人の時は別です」
——この人、こういうところだけ譲らない。
防衛顧問。「おせっかい」が認められた結果の、正式な役職。権限がある。給与も出る。マルタが残業を監視する権限もついてきた。最後のは余計だ。
ノア様が書類を広げた。仕事モード。
「午前中に領地視察。午後、交易商人との会合——」
「ベルガルド公国の件は?」
「夕方に。交易路の安全対策について相談だそうです」
「あなたの評判が広がっていますね。『守るだけで敵が自滅する参謀』と呼ばれているそうですよ」
「……大袈裟ですね」
「いいえ。事実です」
ノア様の目が、仕事モードを逸脱していた。
「行きましょうか」
「はい」
廊下に出ると、マルタが盆を持って待っていた。湯気の立つカップが二つ。
「朝食前に。——冷めますので、早く」
受け取る。指先にじわりと熱が伝わる。マルタはもう背を向けて歩き始めている。
「……マルタ」
「はい」
「ありがとうございます」
マルタが一瞬だけ足を止めた。振り返らない。
「業務です」
それだけ言って、厨房へ消えた。いつもの一言。でも、あの人が淹れるお茶は、いつも私が好きな温度だ。「業務です」の一言に、どれだけのものが詰まっているか。あの夜、戦いの前に「残業禁止です」と言ってくれた声を、まだ覚えている。
フェリクスが角を曲がってきた。帳簿を三冊抱えて、眼鏡がずれかけている。
「おはようございます」
几帳面に頭を下げる。その拍子に、一番上の帳簿が滑った。
私が手を伸ばすより先に、ノア様が受け止めた。
「……申し訳ありません」
「大丈夫ですよ」
ノア様が帳簿を戻す。フェリクスが小走りに去っていく。あの日、リネットの証言を黙々と記録し続けたペンの音。公式記録の署名を見守る、静かな横顔。この人はいつも正確に、淡々と、すべてを記録する。それが帳簿係としての矜持だと言わんばかりに。
使用人が笑顔で挨拶をくれた。名前を知っている。修繕の時に足場を支えてくれた人だ。こちらの名前も、覚えてくれている。
リネットからの報告書が昨日届いていた。エスト公国との連絡係。自分で選んだ仕事。報告書の端に小さく「お元気で」と書いてあった。不器用な手紙。あの証言の日、広間で私を見た目を思い出す。もう怯えてはいなかった。
廊下の窓から、中庭が見えた。
あの庭のベンチで、リネットに許しを伝えた。あの廊下で、使者の前に立つノア様の背中を見た。この屋敷で、マルタに「当然」を教わった。全部、ここだ。
初めてこの屋敷に来た時、「何もない辺境」だと思った。
今は、守りたいものが多すぎる。
……ああ。
立ち止まった。
胸の奥の、あの結び目。ずっと引っかかっていた「のはず」。守れたはずなのに足りない、十分なはずなのに取れない、あの結び目が、ない。
いつ消えたのか、わからない。気づいたら、もうなかった。
マルタのお茶。フェリクスの帳簿。使用人の笑顔。リネットの「お元気で」。誰も、大げさなことは言わなかった。「ありがとう」も「あなたのおかげ」も、ほとんど聞いていない。
前世では、それが辛かった。防いでも誰にも気づかれない。「起きなかったこと」に手柄はない。
でも、ここでは、違った。言葉にならなかっただけだ。マルタの好みの温度のお茶。フェリクスの正確な記録。リネットの報告書の端の一言。全部、言葉の代わりだった。
前世で欲しかったのは、評価じゃなかった。「ここにいていい」という、ただそれだけの——。
隣を歩くノア様の袖が、かすかに触れた。
「……どうしました?」
「いえ」
指先が温かい。あの日、冷たかった指。布団の中で握りしめた拳。「いないほうがいい人間」だと思っていた。
今——ここに、いていいらしい。
おせっかいで、放っておけなくて、正論ばかり言う。前世でも今世でも、変わらなかった。変わらなくて、よかった。
『最終結論:人生設計の見直し完了。新しい目標——この日常を、守り続けること』
……うん。あの日、「未知環境を検出」と勝手に起動したお前が、今は、こんな穏やかなことを言う。
うるさくて、空気が読めなくて、余計なことばかり分析する。でも、お前がいなかったら、ここにいない。
山の裾野に、雪解けの筋が見えた。どこかで、水の流れる音がする。冬が終わりかけている。あの峠道の焦げた防御壁の跡も、春になれば草が覆うだろう。
——ノア。
名前を、声に出した。
ノア様が足を止めた。少し驚いた顔。それから、今まで見たどの笑顔とも違う、四番目の表情。
「……はい」
何か気の利いたことを言おうとして、やめた。
「行きましょう」
「ええ」
朝日の中を、二人で歩いた。廊下の窓から差す光の中に、二つの影が並んでいる。
今回の人生は——悪くない。
【完】




