第35話:告白
峠を越えてくる馬車の音が、朝から途切れない。
交易路が再開したのだ。防御壁の補修工事の槌音が遠くから響き、市場のざわめきが風に乗って届く。
私の仕事も、少しずつ増えてきた。防衛顧問。まだ、この肩書きに慣れない。
『業務量分析:適正範囲内。ブラック企業化の兆候:なし』
……前世とは、違う。
朝の執務を終えて、書類を片付けていた時。
「ユリア様」
ノアの声。振り返ると、執務室の入口に立っていた。いつもの穏やかな笑顔。
「少し、お時間をいただけますか?」
「はい、何でしょう」
「……あの。これは、仕事の話ではないのですが」
珍しい。ノア様が言い淀むなんて。
この人が「仕事じゃない」と前置きするのは、初めてかもしれない。声のトーンが違う。仕事モードでも穏やかでもない。聞いたことのない、声。
『パターン不一致。該当する分類が——』
リスク管理脳が分析を始めかけて、止まった。——お前も、わからないのか。
執務室に朝の光が差し込んでいる。書類の匂い。インク壺。いつもと同じ日常。なのに、空気の中に何か異質なものが混じっている。
「庭を、少し歩きませんか」
廊下を並んで歩いた。足音が二つ、石の床に響く。あの日、南の山道に走った時とは違う。今は歩いている。歩いているだけなのに、心拍が上がっている。
いつもと同じ距離。半歩ぶんの間隔。なのに、その半歩が、やけに意識に引っかかる。ノアがいつもより半歩遅い。合わせているのか。それとも——何か言おうとして、言葉を選んでいるのか。
廊下の窓から、冬の終わりの光が差している。冷たさが少しだけ柔らかい。なぜか、それが怖い。
庭に出た。
冬の終わり。花壇にはまだ何も咲いていないけれど、土が柔らかくなり始めている。湿った土の匂い。まだ芽を出していない枝の先が、ほんのわずかに膨らんでいる。空が高い。冬の名残の冷たさが頬に触れるけれど、風は柔らかい。
しばらく、並んで歩いた。二人とも黙っていた。
遠くで鍛冶の音がする。市場の声がかすかに届く。日常は続いている。なのに、この庭だけが、止まっている。砂利を踏む音だけが、やけに大きく聞こえた。
心拍が上がっている。なぜ。ノアの横顔を見ているだけなのに。この感覚を、前にも感じたことがある。「分類不能」と棚上げしていた、あれ。
ノアの横顔が、いつもと違う。穏やかな表情の下に、何かを、決めようとしている顔。
砂利を踏む音が止まった。足が止まった。風の音だけが残る。
ノアの指先が、わずかに震えている。この人の手が震えるのを見たのは、前夜の戦いの前以来だ。
「ユリア様」
「はい」
「私は——あなたと、ずっと一緒にいたいと思っています」
『状況分析:——え?』
脳内セキュリティ担当が固まった。珍しい。
「仕事の関係ではなく——もっと」
ノアの声は穏やかだった。でも、耳の先がわずかに赤い。この人が、緊張している。
「……待ってください」
「?」
「それって——恋愛的な意味、ですか」
言ってから、顔が熱くなった。なんでわざわざ確認するんだ。
沈黙。
鳥の声が消えた。さっきまで聞こえていた鍛冶の音も、市場の声も。風が止まっている。世界が息を止めている。心拍だけが聞こえる。自分の。
ノアのこはく色の目の奥が、揺れている。数秒。たぶん、数秒だ。でも、永い。
「はい」
迷いのない声だった。
耳が、熱くなった。首筋に温度が上がる。指先だけが冷たい。末端と中枢で温度が違う。身体が先に反応している。頭が追いつかない。
嬉しいのか。怖いのか。わからない。両方だ。両方が、同時に来ている。
信じて裏切られた記憶が、一瞬だけ横切った。前世。期待して、失望した夜。「みんなも頑張ってるのに、守谷さんだけ帰るの?」と言われた後の、帰りの電車。窓に映る、疲れた顔。「もう信じない」と唇だけで言った夜。人を信じることのリスクを、十年かけて学んだ。
その記憶が浮かんで。消えていく。今の温かさに、上書きされていく。
『脅威レベル:——該当なし。これは脅威ではない』
リスク管理脳の声が、静かだった。分析じゃない。ただの確認。
『……この人物の信頼性は、検証済みです』
——知ってる。
知ってた。この人と近くにいると心拍が上がった。距離を検出し始めた頃。未知のパターン。分析不能。ずっと「分類不能」のまま棚上げしてきた。
でも、脅威じゃないことだけは、最初からわかっていた。
「私、おせっかいですよ」
「知っています」
「正論ばかり言いますよ」
「助かっています」
「前世では——以前は、『扱いにくい』って言われてました」
「今は、『頼りになる』と言われていますよ」
……ずるい。全部、返されてる。
欠点を並べるたびに、この人は肯定に変えてくる。戦いの前夜に「怖くないですか」と聞いた時もそうだった。「一人じゃないので」と返された。
あの戦いで、ノア様は私を、一番安全な場所に配置した。あの時は「指揮官としての判断」だと思った。でも、今なら。
喉が詰まった。
「おせっかい」は欠点だと、二回の人生をかけて思い込んでいた。でもこの人は、最初から知っていた。それが私の「前提条件」だということを。
喉の奥が熱い。目の奥も。
「……私も、です」
「え?」
「私も、あなたと——一緒にいたいです」
声が震えた。馬鹿みたいだ。リネットの証言の時は泣かなかったのに。三千の軍勢を前にしても声は震えなかったのに。
ノアの顔が、ぱっと明るくなった。いつもの穏やかな笑顔じゃなく、本当に嬉しそうな、子供みたいな顔。三番目の表情の、さらに奥。初めて見る表情。
「ありがとうございます」
……なんで私がお礼言われてるの。
『感情分析:幸福度、過去最高値を——』
うるさい。今は、静かにさせて。
屋敷に戻ると、廊下でマルタとすれ違った。
マルタは一瞬、私の顔を見て、ほんの少しだけ、目を細めた。
「ユリア様。——今日は、特にいい表情をされていますね」
その台詞。前にも、似たようなことを言われた気がする。
「……何のことですか」
「いえ。お茶を淹れますね」
マルタの背中が遠ざかる。気づいていた、この人。たぶん、ずっと前から。ノアの配置を決めた時、何も言わなかったこと。お茶を持ってきた時の表情。全部、見ていた。全部、わかっていた。言わないだけ。この人は、いつもそうだ。
窓の外に、春を待つ空が広がっている。冬の雲が少しずつ薄くなって、光が白から金に変わりかけている。
息を吐いた。長く、ゆっくり。今度は、分析しない。
『関係性の再定義が必要です。——ただし、急ぐ必要はありません』
……うるさい。うるさいけど、今回は、同意する。
庭を歩いた足音を思い出す。行きと帰りで、半歩の距離が変わった。近づいた。合わせたのは、どちらだろう。
ノア様、と呼ぼうとして。唇が動きかけて、止まった。胸の奥が温かい。これからも——「ノア様」なんだろうか。




