第34話:答え
「ユリア様。戦後の復興計画について、ご相談したいことがあるのですが」
翌朝の朝食の席だった。焼きたてのパンの匂い。温かいスープの湯気がテーブルの上で揺れている。窓から差す冬の朝日が、食器の縁に白い線を落としていた。こんな穏やかな朝に、人生が変わる提案をされるとは思っていなかった。
「はい、何でしょう」
「グレイシア領の防衛体制を、恒常化したいと考えています。今回のような事態に、常に備えられるように」
ノアが書類を広げた。仕事モードの目。簡潔な言葉。でも、いつもの仕事の話とは、どこか違う。
「で、その責任者なんですが——」
「……私、ですか」
「他に適任がいますか?」
声は穏やかだった。でも、目は真剣だった。
「防衛顧問。グレイシア領の正式な役職です」
——正式な役職。
前世では、一度も持てなかった。「一人セキュリティ担当」は肩書きじゃない。ただの現状記述だ。予算もなく、権限もなく、評価もない。便利に使われるだけの呼び名。
——思い出す。前世の夜。セキュリティポリシーの提案書を書いた。三十ページ。一ヶ月かけた。会社を守りたかった。チームを守りたかった。三十ページの中に、守りたいものの全部を詰め込んだ。上司は二分で「今は優先度が低い」と返した。あの提案書は、まだ共有フォルダのどこかに眠っている。眠ったまま、私は死んだ。誰にも読まれないまま。
「給与も出ます。権限もあります。もちろん、残業は許可制ですが」
最後の一言で、テーブルの端に控えていたマルタが小さく頷いた。当然、という顔。
……呼吸が、一拍止まった。
「私は——この領地の人間じゃありません。王国から逃げてきた、ただの——」
「ユリア様」
ノアが、穏やかに遮った。
「肩書きの話をしています。あなたが何者か、という話ではありません」
——あなたが何者か、という話ではない。
王国では「悪役令嬢ごとき」だった。前世では「一人セキュリティ担当」だった。どちらも、私が何をしてきたかとは、関係のない名前だった。
「……考えさせてください」
「もちろんです」
ノアは微笑んだ。穏やかな笑顔。でも、その奥に何かがある。読めない。今は、読まなくていい。
一人で庭に出た。
冬の庭。花壇はまだ枯れている。春を待つ土の匂い。冷たい空気が肺に入って、少しだけ頭が澄む。
昨日の木箱のことが、まだ引っかかっている。理由がなくても手が動いた、あの感覚。
『……質問ですか?』
お。久しぶりに喋った。
『昨日の件について。分析が不要だったのは——判断が自明だったからです』
……自明?
『あなたにとって、人を助けることは——分析対象ではなく、前提条件です』
前提条件。
『補足。OSに組み込まれた基本機能のようなものです。起動するたびに確認する必要はありません』
——ああ。
足が止まった。胸の奥が締まる。呼吸が浅くなった。目の奥が熱い。——泣きそうになっている。なんで。ただ、自分のことを言い当てられただけなのに。前世で四十七年、誰にも言ってもらえなかったことを。今世でも、自分では気づけなかったことを。
膝の力が抜けかけた。近くのベンチに手をついた。石の冷たさが掌を刺す。座り込んだ。花壇の枯れた土を見つめる。何も咲いていない。でも、土の匂いがする。春を待っている匂い。
飲み込んだ。冬の空気を深く吸って、吐いた。
そうか。
「おせっかい」は、分析の結果じゃなかった。
「介入した方が合理的」なんて、後付けの理由だった。
帳簿の不正を見つけた時も。暗殺者を察知した時も。リネットを許した時も。家族を保護した時も。
全部、最初に「放っておけない」があって、後から理由をつけていた。
ただ、放っておけないだけだった。最初から。ずっと。
前世でも。今世でも。
冷たい風が吹いた。花壇の土の匂いが、かすかに混じる。
ベンチに座っていると、ノアが来た。
「答えは出ましたか?」
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「なんで、防衛顧問なんですか。ただの居候に、そこまで——」
「ただの居候?」
ノアが首を傾げた。本気で不思議そうに。
「暗殺者を見抜いて、スパイ網を潰して、情報操作を防いで、三千の軍勢を撤退させた人を、『ただの居候』とは呼びませんよ」
「それは——リスク管理の結果、で——」
また、言おうとした。「合理的だから」。いつもの言い訳。
「ユリア様」
ノアが微笑んだ。穏やかな笑顔。でも、少しだけ、呆れたような。
「あなたは、いつもそう言いますね」
「……何がですか」
「リスク管理。合理的判断。介入した方が効率的」
ノアは庭の花壇に目を向けた。枯れた土。まだ何も咲いていない。
「リネットを許した時も、そう言っていました。でもあの時、泣きそうでしたよ」
——え。
「……泣いてません」
「ええ。泣いてません。でも——」
ノアが花壇から目を戻して、こちらを見た。三番目の表情。穏やかでも仕事でもない、私にだけ向ける目。
「合理的な人は、泣きそうになりません」
返す言葉が、なかった。
ノアが、一瞬だけ目を伏せた。視線が花壇の枯れた土に落ちる。指先が、握られた。ほんの一瞬。すぐに開く。
「……私も、昔、似たようなことが」
そこで、止まった。穏やかな笑顔が、意図的に、戻った。閉じた。何かを飲み込むように、小さく息をついて。目の奥の光が、一段だけ暗くなった。
「——いえ。今日はユリア様の話です」
風が吹いている。穏やかな午後。冬の終わりの、冷たいけれど柔らかい風。さっきまで冷たかっただけの空気が、今は、少しだけ、甘い。花壇の土の下で、何かが動き始めている気配。
——見られていたんだ。
「リスク管理」の皮の下にある、本当の理由を。この人は、最初から、知っていたのかもしれない。
しばらく、二人とも黙っていた。風が花壇の枯れ枝を揺らす音だけが、間を埋めている。沈黙が、苦しくない。二人とも、何かを飲み込んだ後の静けさ。
「……防衛顧問、やります」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
「残業した時は、黙っていてください」
「それはマルタに言ってください」
「……ですよね」
立ち上がった。ノアも立ち上がる。
「ユリア様」
「はい」
「……いい天気ですね」
——なにそれ。
でも。空を見上げた。冬の空。雲が少しだけ、春の方に流れている。
——ここで、働きたい。
理由は、もう聞かなくていい。
ノアの横顔を、ちらりと見た。さっき一瞬だけ揺れた、あの表情。「私も、昔」。その先を、まだ知らない。
『新しい肩書きを登録。グレイシア領防衛顧問。前職:一人セキュリティ担当(無給・無権限・無評価)。現職:防衛顧問(有給・有権限・有評価)。——アップグレード完了』
……お前、たまにいいこと言うね。




