第33話:自問
リネットの証言から数日が過ぎた。
屋敷の壁を修繕している音が聞こえる。石灰の白い粉の匂いが、廊下の奥から流れてくる。庭の方では、兵が解散する声。「お疲れ様でした」。その言葉が、自然に聞こえる。戦時中は誰も「お疲れ様」なんて言わなかった。
どこかで、誰かが笑った。久しぶりに聞く種類の笑い声。用事がなくて、緊張もなくて、ただおかしくて笑っている声。
戦後処理は続いている。周辺三公国との確認書簡。戦費の精算。防御壁の補修費用の見積もり。帳簿と書類の山は相変わらずだけど、もう「命がかかっている」わけじゃない。
フェリクスが最後の精算報告を持ってきた。眼鏡を直す仕草が、いつもより柔らかい。
「これで戦費関連の処理は完了です。ご確認を」
「ありがとうございます」
数字を追う。合っている。フェリクスの書類は、いつだって正確だ。
仕事をしている間は、いい。数字は嘘をつかない。数字の間にいる限り、余計なことを考えなくて済む。
でも。
手を止めた瞬間に、戻ってくる。
窓の外の夕日を見て思ったこと。景色を守れた。帳簿を守った。領地を守った。それだけで、十分、のはず。
「のはず」が、まだ取れない。
『感情分析:達成感、安堵、そして——未解決の問題が残存。特定を推奨』
……特定できるなら、とっくにしてる。
書庫に書類を戻しに行くついでに、廊下を歩いた。
夕方の屋敷は静かだった。戦時中のぴりぴりした空気はもうない。使用人たちの足音が穏やかに響いている。廊下の奥からマルタの指示が聞こえる。日常が戻っている。
書庫の手前で、使用人が立ち往生していた。
両手に書類の束。壊れかけの木箱を脇に抱えている。底板が軋んで、今にも抜けそうだ。書類が一枚、端から滑り落ちかけている。髪が顔にかかっているのに、払う手がない。
「手伝います」
声が出ていた。考える前に。足が動いていた。
——たまたま通りかかっただけだ。書庫に行くついでだった。効率の問題。
「あ、ユリア様! すみません、大丈夫ですから——」
「いえ。この木箱だけでも」
この人の名前を、知っている。エリカ。修繕班の書類管理をしている人。朝、廊下で会うと控えめに会釈をしてくれる人。赤みがかった髪を耳の後ろで留めている。顔にかかった髪を、ふっと息で吹き上げた。両手が塞がっているから。
木箱を受け取った。思ったより重い。底板の角が手のひらに食い込む。持ち直して、脇に抱えた。
並んで書庫まで歩く。角を二つ曲がる間に、エリカが小声で言った。
「あの、壁の修繕見積もり——石工さんが、前回より安くなるって。ユリア様が数字を見てくださったおかげで」
覚えている。先週、帳簿を突き合わせて、石材の相場より高い項目を指摘しただけだ。数字を追った結果にすぎない。でもその数字の先に、この人の仕事がある。
扉を開ける。書庫の匂い。古い紙とインク。帳簿と同じ匂いだ。でも、ここではその匂いが怖くない。王国にいた頃、帳簿を開くたびに感じた胃の底の重さが、ない。
棚に木箱を置いた。書類も隣に積む。
大した手間じゃない。ほんの数分のこと。「たまたま」で済む範囲の。
「助かりました。ありがとうございます、ユリア様」
エリカが深く頭を下げた。顔を上げた時の目が、まっすぐだった。遠慮はあるけれど、恐怖がない。
記憶の底で、別の顔が重なった。リネット。厨房の裏で、声もなく「ありがとう」と口を動かした人。あの時は奇跡みたいな一瞬だった。エリカのこれは、ただの日常だ。「ありがとう」が日常として、ここにある。
使用人が小走りに去っていった。
廊下に一人、残された。
窓から夕日が差し込んでいる。冬の低い光。床に長い影。
ふと、気づいた。
『——』
何も言わなかった。
リスク管理脳が。
いつもなら分析が走る。「介入の合理性を判定」。「リスク分析:低優先度の案件」。「業務外のタスクを検出——」。うるさいくらいに、何か言うはずなのに。
何も。
足が止まった。
呼吸が、変わった。速くなったんじゃない。止まりかけた。何かに、引っかかった。
窓の外が目に入った。夕日が廊下の石壁を赤く染めている。きれいだ、と思う余裕がある。でも足が動かない。
……なんで?
壁に寄りかかった。膝の裏がかすかに震えている。泣きそうとも違う。怖いとも違う。名前のつかない感覚が、胸の奥で輪郭を探している。天井を見上げる。
——おかしい。
この領地に来てから、ずっとそうだった。
帳簿の不正を見つけた時、「サラミ法の不正パターン。介入した方が合理的」。正しかった。でも、帳簿を開いたのは分析のためじゃない。数字がおかしいと感じた、それだけだった。
暗殺者を察知した時も。庭師の足音がおかしいと感じた瞬間、分析より先に背筋が冷えた。「脅威レベル:高」なんて、後付けだ。
リネットを許した時ですら。あの人の目を見て、声を聞いて、放っておけなかっただけだ。
何かをする前に、いつも理由が必要だった。
「合理的だから」。「リスクがあるから」。「放置した場合の損失が——」。
全部、後付けだ。
前世もそうだった。脆弱性を指摘するのも、インシデントを報告するのも。上司に理由を求められるから、「コンプライアンス上の義務です」「放置した場合の損害額は——」。そう言わないと、聞いてもらえなかった。本当は、ただ、危ないと思ったから声を上げただけなのに。
そうしないと、おせっかいになる。余計なことになる。空気が読めないと言われる。
だから理由をつけた。四十七年間。ずっと。理由がないと動いてはいけないと、自分に、言い聞かせ続けた。
廊下の向こうで、誰かが戸を閉める音がした。
……でも。
さっき。
木箱を持ってあげた時。「合理的」なんて、一瞬も考えなかった。「リスク管理」でもなかった。
困っている人がいた。手が足りなかった。だから、手を出した。
それだけ。
それだけのことに、分析は、走らなかった。
窓に近づいた。ガラスに手を当てる。冷たい。指先から冷えが伝わる。でも、不快じゃない。
夕日が山の稜線に沈んでいく。赤い空。白い峰。光が、手のひらの上に落ちている。
この景色を、何度見ただろう。この窓から最初に山を見た時、私はただの帳簿係だった。いつの間にか、帳簿だけじゃなくなっている。
全部、「リスク管理の結果」だと思っていた。
——本当に?
手のひらを見た。まだ木箱の角の感触が残っている。
何でもないことだった。困っている人を、ちょっと手伝っただけ。
前世でもそうだった。
エレベーターホールの消毒液の匂い。会議室に残るホワイトボードマーカーの匂い。パーティションの向こうで、誰かの溜息。あの場所の空気が、不意に蘇る。
「また守谷さんがなんか言ってる」。隣の席から、聞こえるように。私は画面を見つめたまま、脆弱性報告書を書き続けた。指先が冷たかった。
上司に「お前の仕事じゃない」と言われても、報告した。理由なんて、なかった。ただ、放っておけなかっただけだ。
ここでは、ノアが「おせっかいも才能です」と言った。マルタが「当然のことです」と頷いた。
理由がなくても、手を出していい場所がある。四十七年間、知らなかった。
夕日の残像が目に残っている。赤い光が、瞼の裏でゆっくり薄れていく。廊下の石壁が、夕日の色から夜の色へ変わっていく。
でも、「何でもないこと」が、一番わからない。




