表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

33/36

第33話:自問

 リネットの証言から数日が過ぎた。


 屋敷の壁を修繕している音が聞こえる。石灰の白い粉の匂いが、廊下の奥から流れてくる。庭の方では、兵が解散する声。「お疲れ様でした」。その言葉が、自然に聞こえる。戦時中は誰も「お疲れ様」なんて言わなかった。


 どこかで、誰かが笑った。久しぶりに聞く種類の笑い声。用事がなくて、緊張もなくて、ただおかしくて笑っている声。


 戦後処理は続いている。周辺三公国との確認書簡。戦費の精算。防御壁の補修費用の見積もり。帳簿と書類の山は相変わらずだけど、もう「命がかかっている」わけじゃない。


 フェリクスが最後の精算報告を持ってきた。眼鏡を直す仕草が、いつもより柔らかい。


「これで戦費関連の処理は完了です。ご確認を」


「ありがとうございます」


 数字を追う。合っている。フェリクスの書類は、いつだって正確だ。


 仕事をしている間は、いい。数字は嘘をつかない。数字の間にいる限り、余計なことを考えなくて済む。


 でも。


 手を止めた瞬間に、戻ってくる。


 窓の外の夕日を見て思ったこと。景色を守れた。帳簿を守った。領地を守った。それだけで、十分、のはず。


 「のはず」が、まだ取れない。


 『感情分析:達成感、安堵、そして——未解決の問題が残存。特定を推奨』


 ……特定できるなら、とっくにしてる。



 書庫に書類を戻しに行くついでに、廊下を歩いた。


 夕方の屋敷は静かだった。戦時中のぴりぴりした空気はもうない。使用人たちの足音が穏やかに響いている。廊下の奥からマルタの指示が聞こえる。日常が戻っている。


 書庫の手前で、使用人が立ち往生していた。


 両手に書類の束。壊れかけの木箱を脇に抱えている。底板が軋んで、今にも抜けそうだ。書類が一枚、端から滑り落ちかけている。髪が顔にかかっているのに、払う手がない。


「手伝います」


 声が出ていた。考える前に。足が動いていた。


 ——たまたま通りかかっただけだ。書庫に行くついでだった。効率の問題。


「あ、ユリア様! すみません、大丈夫ですから——」


「いえ。この木箱だけでも」


 この人の名前を、知っている。エリカ。修繕班の書類管理をしている人。朝、廊下で会うと控えめに会釈をしてくれる人。赤みがかった髪を耳の後ろで留めている。顔にかかった髪を、ふっと息で吹き上げた。両手が塞がっているから。


 木箱を受け取った。思ったより重い。底板の角が手のひらに食い込む。持ち直して、脇に抱えた。


 並んで書庫まで歩く。角を二つ曲がる間に、エリカが小声で言った。


「あの、壁の修繕見積もり——石工さんが、前回より安くなるって。ユリア様が数字を見てくださったおかげで」


 覚えている。先週、帳簿を突き合わせて、石材の相場より高い項目を指摘しただけだ。数字を追った結果にすぎない。でもその数字の先に、この人の仕事がある。


 扉を開ける。書庫の匂い。古い紙とインク。帳簿と同じ匂いだ。でも、ここではその匂いが怖くない。王国にいた頃、帳簿を開くたびに感じた胃の底の重さが、ない。


 棚に木箱を置いた。書類も隣に積む。


 大した手間じゃない。ほんの数分のこと。「たまたま」で済む範囲の。


「助かりました。ありがとうございます、ユリア様」


 エリカが深く頭を下げた。顔を上げた時の目が、まっすぐだった。遠慮はあるけれど、恐怖がない。


 記憶の底で、別の顔が重なった。リネット。厨房の裏で、声もなく「ありがとう」と口を動かした人。あの時は奇跡みたいな一瞬だった。エリカのこれは、ただの日常だ。「ありがとう」が日常として、ここにある。


 使用人が小走りに去っていった。


 廊下に一人、残された。


 窓から夕日が差し込んでいる。冬の低い光。床に長い影。


 ふと、気づいた。


 『——』


 何も言わなかった。


 リスク管理脳が。


 いつもなら分析が走る。「介入の合理性を判定」。「リスク分析:低優先度の案件」。「業務外のタスクを検出——」。うるさいくらいに、何か言うはずなのに。


 何も。


 足が止まった。


 呼吸が、変わった。速くなったんじゃない。止まりかけた。何かに、引っかかった。


 窓の外が目に入った。夕日が廊下の石壁を赤く染めている。きれいだ、と思う余裕がある。でも足が動かない。


 ……なんで?


 壁に寄りかかった。膝の裏がかすかに震えている。泣きそうとも違う。怖いとも違う。名前のつかない感覚が、胸の奥で輪郭を探している。天井を見上げる。


 ——おかしい。


 この領地に来てから、ずっとそうだった。


 帳簿の不正を見つけた時、「サラミ法の不正パターン。介入した方が合理的」。正しかった。でも、帳簿を開いたのは分析のためじゃない。数字がおかしいと感じた、それだけだった。


 暗殺者を察知した時も。庭師の足音がおかしいと感じた瞬間、分析より先に背筋が冷えた。「脅威レベル:高」なんて、後付けだ。


 リネットを許した時ですら。あの人の目を見て、声を聞いて、放っておけなかっただけだ。


 何かをする前に、いつも理由が必要だった。


 「合理的だから」。「リスクがあるから」。「放置した場合の損失が——」。


 全部、後付けだ。


 前世もそうだった。脆弱性を指摘するのも、インシデントを報告するのも。上司に理由を求められるから、「コンプライアンス上の義務です」「放置した場合の損害額は——」。そう言わないと、聞いてもらえなかった。本当は、ただ、危ないと思ったから声を上げただけなのに。


 そうしないと、おせっかいになる。余計なことになる。空気が読めないと言われる。


 だから理由をつけた。四十七年間。ずっと。理由がないと動いてはいけないと、自分に、言い聞かせ続けた。


 廊下の向こうで、誰かが戸を閉める音がした。


 ……でも。


 さっき。


 木箱を持ってあげた時。「合理的」なんて、一瞬も考えなかった。「リスク管理」でもなかった。


 困っている人がいた。手が足りなかった。だから、手を出した。


 それだけ。


 それだけのことに、分析は、走らなかった。


 窓に近づいた。ガラスに手を当てる。冷たい。指先から冷えが伝わる。でも、不快じゃない。


 夕日が山の稜線に沈んでいく。赤い空。白い峰。光が、手のひらの上に落ちている。


 この景色を、何度見ただろう。この窓から最初に山を見た時、私はただの帳簿係だった。いつの間にか、帳簿だけじゃなくなっている。


 全部、「リスク管理の結果」だと思っていた。


 ——本当に?


 手のひらを見た。まだ木箱の角の感触が残っている。


 何でもないことだった。困っている人を、ちょっと手伝っただけ。


 前世でもそうだった。


 エレベーターホールの消毒液の匂い。会議室に残るホワイトボードマーカーの匂い。パーティションの向こうで、誰かの溜息。あの場所の空気が、不意に蘇る。


 「また守谷さんがなんか言ってる」。隣の席から、聞こえるように。私は画面を見つめたまま、脆弱性報告書を書き続けた。指先が冷たかった。


 上司に「お前の仕事じゃない」と言われても、報告した。理由なんて、なかった。ただ、放っておけなかっただけだ。


 ここでは、ノアが「おせっかいも才能です」と言った。マルタが「当然のことです」と頷いた。


 理由がなくても、手を出していい場所がある。四十七年間、知らなかった。


 夕日の残像が目に残っている。赤い光が、瞼の裏でゆっくり薄れていく。廊下の石壁が、夕日の色から夜の色へ変わっていく。


 でも、「何でもないこと」が、一番わからない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ