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第32話:ざまぁ

 証言は、周辺三公国の代表が列席する場で行われた。


 グレイシア領の大広間。天井が高い。冬の朝の光が、縦長の窓から斜めに差し込んでいる。


 ろうそくの蝋と、磨かれた古い木の匂い。それから、冷えた石の匂い。この広間が使われるのは、年に数度しかないのだろう。空気が冷たく、張り詰めている。


 ノアが正面の席に着いている。三公国の外交官が左右に並ぶ。いずれも背筋を伸ばし、手元に羊皮紙と羽ペンを揃えている。椅子が軋むたびに、天井まで音が吸い込まれていく。


 フェリクスが記録係として控えている。いつもの帳簿ではなく、公式記録用の大判の紙を広げていた。


 私は広間の端に座っていた。手を膝の上に置く。指先が冷たい。


 扉が開いた。


 リネットが入ってきた。


 足取りは固かった。手は膝の前で組まれている。でも、顔は上がっていた。


「——リネット。準備ができたら、始めてください」


 ノアの穏やかな声。


 リネットが、一つ息を吸った。


「私は、エドガルド王国の命令を受け、スパイとしてグレイシア領に潜入しました」


 広間が静まった。外交官の一人が構えたペンの先を、止めた。


 リネットの声は小さかったけれど、震えていなかった。いや、震えていた。でも、止まらなかった。


「任務は、グレイシア領の交易情報と軍事情報の収集でした。指示を出したのは、国庫管理官ガルド・フェルトン」


 リネットが事実を並べていく。スパイ網の構造。情報の伝達方法。中継点の位置。


 声が、少しずつ変わっていった。最初は手元を見つめていた目が、途中から前を向いた。震えが消えたわけじゃない。声の芯が、据わった。


 外交官たちの表情が動くのが見えた。最初の驚きが消え、顔が引き締まっていく。一人が隣に何か囁いた。もう一人が小さく頷く。


 フェリクスのペンが紙の上を走る音だけが、リネットの声の合間を埋めている。私が分析した情報と、完全に一致していた。


「その後、戦争の直前に、密書が届きました」


 リネットの手が、一瞬だけ震えた。


「『ユリア・モーリスが隣国の軍事機密を王国に渡した、と証言しろ』。偽証を強要する内容でした。従わなければ、王国に残る家族に——」


 声が詰まった。一秒。


 ——帳簿の数字がおかしいと気づいた日のことを、思い出した。リネットが書類を持ってきた時、うつむいていた。あの時から、この子はずっと何かを抱えていたのだ。


 リネットが顔を上げた。


 ——私を、見た。


 広間の端に座っている私を。大勢の前で。まっすぐに。


 あの頃とは、違う目だった。


「私は、偽証を拒否しました」


 その目に、もう怯えはなかった。


「ユリア様は——私に、選ぶ機会をくださいました。家族を守ってくださった上で。自分で決めていいと。だから、自分で決めました」


 ユリア様。


 公の場で、名前を呼ばれた。記録に残る形で。


 喉の奥が、詰まった。視界がぼやける。泣くな。ここは、リネットの場所だ。


 膝の上の手を握った。爪が食い込む。それでも、涙腺が言うことを聞かない。


 証言が終わった。


 広間に、短い沈黙が落ちた。それから、外交官たちが顔を見合わせた。銀髪の老齢が一つ頷く。


 署名が始まった。羽ペンが羊皮紙の上を走る、かすかな音。一人目。ペン先がインクを吸い上げ、紙の繊維を引っ掻く。二人目。ためらいなく、流れるような筆跡。三人目、銀髪の老齢が、署名の前に一度だけ私の方を見た。何かを読み取ろうとする目。それから、ゆっくりと署名した。


 三つの署名が並んだ。公式記録として、受理された。


 膝の上の拳が、ゆるんだ。いつから握り込んでいたのだろう。指の関節が、じわりと痛い。爪の跡が掌に半月の形を残している。証言の間、ずっと握っていたのだ。リネットの声が震えるたびに、自分の拳が硬くなっていた。


 リネットが席を下がる時、一度だけ、こちらを見た。


 小さく、本当に小さく、笑った。不器用な笑顔。でも、初めて会った頃のどの表情より——強かった。



 その日の夕方。


 ノアの執務室で、一通の書簡を見せられた。硬い羊皮紙。封蝋が割られた跡。周辺国の外交官経由で入った情報。


 ——ガルド・フェルトンが、罷免された。


 書簡を手に取った。インクの匂いがかすかにする。宮廷での出来事が記されていた。


 ガルドが王の御前で弁明を求めたこと。十年間の功績を並べ、グレイシア領の分析が想定外だったと主張したこと。


 王が、最後まで聞かなかったこと。


 エドムント王の言葉が、一文だけ引用されていた。


 ——「余の期待を裏切ったのは、これが初めてではない。だが——『悪役令嬢ごとき』に策を破られたのは、余の面目をも潰した」


 指が、震えた。


 書簡の文字が揺れている。——あの言葉だ。王国にいた頃、ガルドが書斎の重い扉の向こうで吐いた言葉。「悪役令嬢ごときが国政に口を出すな」。嘲笑う声を、まだ覚えている。


 胸の奥が熱い。息を吸った。吐けなかった。肋骨の内側に、名前のつかない温度が広がっていく。熱くて、冷たい。


 ガルドが得意げに使った侮蔑が、王の口から、ガルド自身に突き刺さった。


 書簡の続き。指先が、紙の端を滑っていく。


 ガルドは国庫管理官の職を解かれ、領地は没収。貴族としての地位も剥奪される方向だという。王宮を去る際、誰一人見送らなかったと書簡は記していた。


 国庫を食い潰し、スパイ網を壊滅させ、国の信用を失墜させた。軍事侵攻を主導し、失敗した。全部、ガルドの責任として処理された。


 でも。


 本当にそうだろうか。


「——ガルドだけの責任じゃない。あなたもそう思っているでしょう」


 ノアが、書簡から目を上げた。


 ……見透かされている。


 ガルドの策を承認し続けたのは、エドムント王だ。軍を動かせと許可したのも。ガルドの策が通じなくなっていることくらい、わかっていたはずだ。


 でも、認めたら。この十年の全部が間違いだったことになる。だから、ガルドに全責任を押し付けた。


 達成感がある。解放感がある。そして、少しだけ虚しい。


 あの日、ノアの前で「能力があって、環境に恵まれず、壊れた」と言った。ガルドのことだったのか、前世の自分のことだったのか。まだ、わからない。


「……やめておきます」


「そう。でも、あなたらしい感想だと思いますよ」


 ノアが小さく笑った。私がガルドに同情しかけたことを、咎めもせず、否定もしない。


 私は何もしていない。ただ、守っただけだ。


 ノアがこちらを見ている。何か言いかけて、やめた。穏やかな表情に戻る。でも、目が笑っていなかった。その視線が、一瞬だけ私の手元に落ちた。


 勝手に転んだのは、向こうだ。


 窓の外に、冬の夕日が沈んでいく。山の稜線が赤く染まっている。


 手のひらを開いた。書簡を握りしめていた跡が、赤く残っている。いつから、こんなに強く握っていたのだろう。


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