第31話:羽ばたき
リネットが部屋に来た。
目を伏せている。いつも通り。いや。いつもと、少し違う。手が震えていた。でも、足は止まっていない。入口で立ち止まらずに、まっすぐ椅子の前まで来た。
「……お茶、飲む?」
私が椅子を勧めると、リネットはおずおずと座った。
お茶を淹れた。湯気が二人の間に漂う。干した花の、かすかに甘い香り。リネットはカップに手を伸ばしたけれど、飲まなかった。両手でカップを包んで、温もりだけ受け取っている。
沈黙。窓の外で、枯れ枝が風に軋んでいる。部屋の中だけが、妙に静かだった。午後の光が斜めに差して、テーブルの上に淡い四角を落としている。リネットの影が、椅子の背もたれに長く伸びていた。
普段のリネットなら、もう少し端に座る。私に近すぎず、遠すぎない、侍女としての距離を保って。今日は、椅子を引いた位置が、いつもより少しだけ、近い。
「……あの」
「うん」
「私——証言、しようと思うんです」
声が小さかった。でも、掠れていなかった。
「……公式に?」
「はい。周辺国の代表の前で。王国がグレイシア領に対して行ったこと。スパイの派遣、情報操作、偽証の強要。全部、話します」
知っていた。——いつか、この日が来ることは。
でも。
「怖く、ないの?」
リネットの手が、カップの上で握りしめられた。
「怖いです」
——だろうね。
「王国を敵に回すことになる。戻れなくなるかもしれない」
「……はい」
「家族は安全だけど、あなた自身が——」
「わかってます」
リネットが、私の言葉を遮った。
——初めてだ。この人が私の言葉を遮ったのは。
「わかってます。でも——」
途切れそうな声。でも、止まらなかった。
「あの時、私は見て見ぬふりをしました」
リネットの指が、カップの縁を握りしめた。
「帳簿の数字がおかしいって、お嬢様が気づいた時、私は知っていたんです。でも、何も言えなかった」
——あの日。リネットが書類を持ってきた時の、うつむいた横顔を覚えている。紙の束を胸に抱えて、視線を床に落として。私が「ありがとう」と声をかけたら、肩が震えた。あの震えの意味を、今なら、わかる。
「お嬢様が王国を出る時も。私は扉の向こうに立っていただけでした」
リネットの指が、カップの持ち手に白く食い込んでいる。
「足音が遠ざかっていくのを、ずっと聞いていました。止めることも、ついていくことも、できなかった。扉に手をかけて、離して、また手をかけて——結局、開けられなかった」
胸が痛い。あの夜の裏側を、初めて聞いている。私が走っていた時、あの扉の向こうで、リネットが立ちすくんでいた。同じ夜。同じ屋敷。でも、見ていた景色はまるで違った。
声が途切れかける。でも、止まらなかった。
「スパイとしてここに来た時も。ユリア様が許してくださった時、膝から力が抜けて立てなくなりました。——なぜ許すのか、わからなかったんです。許されるほうが辛かった。罰を受けた方が、ずっと楽だった」
窓から差す光が傾いた。午後が深くなっている。テーブルの上の淡い四角が、いつの間にかリネットの手元まで伸びていた。カップの中のお茶は、もう湯気を上げていない。
指がカップから離れた。膝の上で拳を握っている。
「許してもらった後も。ずっと——怖くて、自分からは動けなかった」
『感情分析:対象の心拍数上昇。ストレス反応——』
黙れ。今は、聞くだけでいい。
「家族を助けてくださった時、お嬢様は言いました」
「……何を?」
「『あなたが選べるようにしたかっただけ』って」
ああ。——言った。リネットの家族を保護する時に。家族が安全な場所にいる状態で、自分の意志で選んでほしい、と。あの時、何が正解かなんてわからなかった。ただ、人質がある状態で決断を迫るのは、選択じゃない。脅迫だ。前世の職場でも同じだった。「嫌なら辞めれば?」と言われても、辞められない人がいる。選べない状態で選ばせるのは、選択じゃない。それだけは、嫌だった。
「あの時、初めて、選んでいいんだと思いました。誰かに命じられるんじゃなくて。自分で」
リネットが顔を上げた。
——目が、合った。
初めて会った頃は、視線を合わせなかった。書類を置いて、すぐ下がる。いつも壁際にいた。できるだけ小さく、できるだけ目立たないように。スパイだと発覚した時も、目を伏せていた。家族を保護した時ですら、泣きながら下を向いていた。
いつも、下を向いていた人が。
今——まっすぐ、見ている。目の縁が赤い。でも、涙は落ちていなかった。
「私は、自分で選びます」
その声に、震えは残っていた。でも、もう、止まらない声だった。
「お嬢——」
リネットが、言いかけて止まった。
唇が動いている。何かを、越えようとしている。膝の上で握られた手が、開いて、また握られた。
お茶が冷めていくのがわかる。干した花の甘い香りが、薄れていく。
リネットが、息を吸った。
「——ユリア様」
……え。
「ユリア様。私に、証言させてください」
名前を呼ばれた。
この領地に来てからずっと「お嬢様」だった人に。王国の頃から一度も名前で呼んでくれなかった人に。
初めて。
『……感情分析を中断します。この場面に分析は不要です』
——珍しく、空気が読めたじゃない。
窓から差す光が、少しだけ傾いていた。どのくらいの時間が経ったのだろう。お茶はとっくに冷めている。干した花の香りも、もう消えていた。
代わりに、リネットの声が、まだ耳に残っている。
「……ありがとう、リネット」
声が、震えていた。私の方が。視界がぼやける。泣くな。ここは、リネットの場所だ。
リネットが部屋を出た後。
マルタがお茶を淹れ直しに来た。
「……泣いてましたか」
「泣いてません」
「そうですか。目が赤いですけど」
「……花粉です」
「この季節にはありませんが」
——この人、容赦ないな。
でも。マルタの目が、ほんの少しだけ柔らかかった。お茶を片付けながら、リネットが出ていった方をちらりと見た。全部、わかっているのだろう。この人は。
窓の外で、何かが羽ばたいた。冬の枝から飛び立つ、小さな影。高く上がっていく。冬の空に吸い込まれるように。小さい。でも、飛んでいる。誰に命じられたわけでもなく。自分の翼で。
明日。公の場で、リネットが証言する。
三公国の外交官が列席する。記録が残る。取り消せない。
怖いだろう。足がすくむだろう。
広間に立つリネットの姿が、目に浮かんだ。外交官たちの視線を受けて、唇が強く結ばれる。声が掠れる。でも、顔を上げる。あの目で、まっすぐ前を見る。
でも、扉の向こうで立ちすくんでいた人は、もういない。
それでも、あの目はもう伏せないはずだ。




