第30話:瓦解
窓を開けた。冬の冷気が、頬を刺す。
深く息を吸う。肺の奥まで冷たい空気が入ってくる。——いつからだろう。こんなに深く息を吸えなかったのは。
王国軍の撤退から一週間。喉の奥に張りついていた緊張の膜が、いつの間にか剥がれている。窓の外に峠道が見える。防御壁の残骸が、雪の中に黒い線を描いていた。焦げた木の骨組み。矢が突き刺さったまま残っている柵。——あそこで、人が死んだ。数字ではなく。
中庭では、兵たちが荷を片付けている。帰還する者の足取りが、来た時より遅い。疲れているのだろう。でも、声が聞こえる。誰かが笑っている。一週間前には聞こえなかった音だ。
肩の力が、抜けた。
フェリクスが書類の束を抱えて執務室に入ってきた。いつもの堅い敬語。いつもの几帳面な姿勢。でも、表情がどこか軽い。眉間の皺が一本減っている。この人が「ほっとしている」のを見るのは初めてだった。
「王国軍撤退後の情報を整理しました」
書類を広げる。紙がテーブルの上に滑る音。フェリクスの指先がインクで少しだけ汚れている。——この人も、一週間、書き続けていたのだろう。窓から差す冬の白い光が、書類の文字を照らしている。
戦後処理は、地味で、長い。
「国庫の残高が、危機的水準を下回ったようです。戦費の調達に失敗し、貴族への年金支払いも滞っていると」
フェリクスが書類の上の数字を指でなぞった。正確な額が記されている。前世で何度も見た光景だ。インシデント後の損害報告書。被害額の欄に並ぶゼロの数。
『財政崩壊。予想通りの展開。長期戦の能力がないのに軍事侵攻を決断した時点で——結果は見えていた』
わかっていた。だから、防御だけで勝てると見込んだ。攻撃しなくても、相手の体力が先に尽きる。
ノアが書類を手に取った。数字を追う目が、静かだった。穏やかさが、戻っている。一週間前、本陣で指揮を執っていた時の鋭さが消えて、いつもの目になっている。
「それと。ガルド・フェルトン国庫管理官に対する、不信任の動きが出ているそうです」
フェリクスの声は事務的だったが、「ガルド」という名前を発する時だけ、わずかに力が入った。
ノアが情報を補足した。
「周辺国から入った情報によると、王国内の貴族たちが公然とガルドを批判し始めています」
「攻撃する前は、ガルドの支持者だったのでは?」
「ええ。でも、負ければ話は別です」
ノアの声は穏やかだったけれど、目は冷静だった。
「勝てば英雄、負ければ戦犯。どこの世界も同じですね」
……痛いところを突くな。
冷めたコーヒーの色が、ふっと脳裏を過ぎった。深夜のオフィス。「なぜ防げなかった」と詰められた夜。——インシデントを防いでも誰にも評価されず、一度失敗したら全責任を押しつけられる。あの構造が、ガルドにも起きている。
書類を持つ指に、力が入った。
「……ガルドの策を承認し続けたのは王なのに」
声に出してから、自分でも驚いた。フェリクスの手が止まった。ノアがこちらを見ている。
「失敗した今、全部ガルドの責任になる。——因果応報と言えばそうですけど」
ノアが少し間を置いた。
「ユリア様は、ガルドに同情しているんですか」
同情——。その言葉が、胸の内側に落ちた。石が水面を打つように、波紋が広がる。
「わかりません。ただ——」
窓の外に目を逸らした。雪の山が、何も知らない顔で光っている。
「能力があって、環境に恵まれず、壊れた。——それだけなら、私と同じなので」
違いは一つだけだ。私にはここがあった。マルタが「残業禁止」と言い、ノアが「一人じゃない」と言い、フェリクスが「当然のこと」と言ってくれた。ガルドには——誰がいたのだろう。
ノアが何か言いかけて、止めた。代わりに、書類を静かにテーブルに戻した。
沈黙が落ちた。でも、重くなかった。
フェリクスとノアが退室した後。扉の閉まる音が、長く残った。
一人で、窓の外を見た。
冬の山。白い峰。峠道に残る防御壁の跡。窓の隙間から、冷えた空気が流れ込んでくる。松と雪の混じった、冬の匂い。
もう、あそこに敵はいない。
王国が崩れていく。あの場所で私を搾取した人たちが、今度は自分たちの手で自分たちを壊している。
『感情分析:達成感67%、安堵22%、分類不能11%——』
11%。
その正体は、わかっている。
虚しさ。
勝ったのに虚しい。前世の私なら、そんな感情を分析して切り捨てていた。「非合理的。無視推奨」。でも今は、切り捨てられない。
窓枠に手を置いた。石が冷たい。指先から、じわりと冷えが登ってくる。
ガルドが崩れていく。それを見ている自分の中に、はっきりと勝利の達成感がある。領地を守った。仲間を守った。帳簿を守った。
同時に、その達成感が紙一枚分、薄い。何かが足りない。
どこかで止まれたはずだ。ガルドも。前世の私も。止まることを、誰も教えてくれなかった。
……やめよう。
遠くで、槌の音がした。壁の修繕だろう。あの防御壁を、誰かが直している。
守れた。それだけで十分のはず。
「のはず」が、取れない。身体のどこかに、まだ解いていない結び目がある。引っ張っても緩まない。どこに繋がっているのかもわからない。
窓の外で、鳥が一羽飛んだ。冬の風に煽られて、ふらりと高度を下げて、また翼を広げた。
夕方。マルタが報告に来た。
「ユリア様。リネットが、お話ししたいことがあるそうです」
「リネットが?」
「ええ。……かなり、悩んでいる様子でした」
胸の奥の結び目が、わずかに動いた気がした。
マルタの声は事務的だったけれど、「悩んでいる」という言葉を選んだ時点で——気にかけているのだろう。この人は、言葉の選び方で感情を見せる。「困っている」でも「迷っている」でもなく、「悩んでいる」。——重い方の言葉だ。
——リネット。
王国から来た、臆病な小鳥。家族を守った。偽証を拒んだ。自分の足で立とうとしている人。それでもまだ、悩むことがあるのか。
何を、話したいのだろう。
窓の外が暗くなっていく。冬の夕暮れは早い。廊下の奥から、控えめな、でもどこか覚悟を決めたような足音が近づいてくる。




