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第3話:帳簿

 ——帳簿。


 その二文字が、頭の隅にこびりついて離れない。


 朝日が窓から差し込んでいる。埃が光の筋の中でゆっくり回っていた。体は重い。いつものことだ。ベッドから出る理由を探すのに、三分はかかる。


 経理補助の侍女が昨夜持ってきた書類が、机の上に置きっぱなしになっている。月次の仕入帳。本来は父の執務室に直接届くはずのものが、なぜか私のところに回ってきた。


 理由はわかっている。面倒な突き合わせを押しつけられたのだ。十四歳のときと、同じ。


 『帳簿を検出。分析開始——』


 勝手に始めるな。まだ顔も洗ってない。


 でも頭の奥で、あのセキュリティ屋の思考回路がもう回り始めている。数字を見ると反射で動くのだ。前世の職業病がこっちに来ても治らないのは、もう確認済み。



 顔を洗って、髪を適当にまとめて、机に向かった。


 帳簿を開く。


 数字が並んでいる。インクの色がところどころ違う。追記された部分。訂正された部分。筆跡も微妙に異なる。


 『不審点を検出。仕入先「マーレン商会」——直近三ヶ月の請求額に異常パターン』


 ……見なかったことにしよう。


 私には関係ない。どうせ報告しても手柄は父のもの。十四歳のときに学んだはずだ。


 『放置した場合のリスク算定:被害額は月ごとに拡大。推定損失——』


 だから聞きたくないって。


 ページをめくる。指先がインクの凹凸をなぞる。


 ——数字が、合わない。


 マーレン商会からの仕入額が、四ヶ月前から段階的に膨らんでいる。最初は端数の上乗せ。翌月は項目の水増し。三ヶ月目には存在しない品目が紛れ込んでいる。


 典型的なサラミ法だ。少額ずつ抜いて、気づかれにくくする。前世のセキュリティ研修で何十回と見た手口。


 ……見なかったことに。


 ページを閉じようとして、帳簿の端に添えられた細い筆跡が目に入った。記帳者の署名。


 ——経理補助。


 この帳簿を私に持ってきたのは、経理補助の侍女だ。帳簿に不正があるなら、真っ先に疑われるのは帳簿を扱う人間。


 つまり、あの侍女が。


 ……ああ、もう。


 気づけば椅子から立ち上がっていた。帳簿を閉じた手が、すでに廊下の方を向いている。


 リスク管理じゃない。ただの、おせっかいだ。



 経理補助の侍女を見つけたのは、厨房の裏だった。煮込みの匂いと、焦げた油の残り香が壁に染みついている。


 壁に背をもたれて、帳簿の束を抱えている。栗色の髪を低い位置で束ねた、二十代前半の女性。名前は、リネットだったはずだ。


「あ」


 目が合った瞬間、リネットの視線が床に落ちた。帳簿を胸に引き寄せる動作が、ほんの少しだけ速い。


「お嬢様。何か御用でしょうか」


 声が平坦だった。乾いている。感情を削ぎ落とした、用件だけの声。でも、帳簿を抱える手つきだけは丁寧だった。角を潰さないように、指先で支えている。書類を大切にする人の持ち方だ。


 ——まあ、そうだろう。「悪役令嬢」に話しかけられて嬉しい使用人はいない。


「帳簿のことで聞きたいことがあるの。マーレン商会との取引、あなたが記帳してる?」


 リネットの肩が、かすかに強張った。


「……はい。経理補助として、記帳と照合を担当しております」


「この三ヶ月で、請求額に違和感を感じたことは?」


 沈黙。


 リネットの目が泳いだ。帳簿を抱える腕に力が入っている。


「……少し、気にはなっておりました」


 声が小さくなった。


「でも、マーレン商会は旦那様が直接契約された取引先ですので、私の立場では……」


 言いかけて、口を閉じた。目が伏せられる。


 ——わかる。わかりすぎる。


 「立場」。前世でも何度聞いたかわからない言葉。「私の立場では言えません」「守谷さんの立場で指摘するのはどうかと」「立場をわきまえなさい」。


 奥歯を噛んだ。結局、問題に気づいた人間が、一番立場が弱い。


 前世でもそうだった。新人の頃、サーバーの異常ログに気づいて報告した。「誤検知だろう」と笑われた。三日後に本当にインシデントが起きた時、誰も「あの新人の報告は正しかった」とは言わなかった。気づく能力は、報われない。特に、立場が低いときは。


「わかった。ありがとう」


 リネットの目が一瞬だけ上がった。すぐに伏せられたけれど、驚いていた、と思う。「悪役令嬢」からお礼を言われるとは思っていなかったのだろう。



 部屋に戻って、帳簿を広げた。


 ペンを取る。数字を追い、印をつけ、別の紙に写す。インクの匂いが指先に染みていく。


 『分析結果:架空取引の典型パターン。一致率:高』


 ……知ってる。前世で何十回と見た手口の、異世界版だ。


 三日かけて帳簿を照合した。


 寝る時間を削って——といっても、もともと眠れないのだけど——数字を追った。一日目はマーレン商会の取引を時系列で並べた。二日目は他の商会と比較した。三日目に、全体像が見えた。パズルの最後のピースがはまるように、数字が一つの物語を語り始めた。


 ろうそくの芯が焦げる匂い。夜の屋敷の、廊下を歩く足音が一つずつ消えていく静けさ。目が疲れて、文字が霞む。冷えた指を息で温めて、またページをめくる。


 指先がインクで黒ずんで、爪の間にまで入り込んだ。


 前世のセキュリティ担当としての十年が、手を動かしている。あの頃はただ数字の違和感を見つけただけだった。今回は、不正の全体像を描ける。


 ——今回なら、違うかもしれない。


 そう思った自分に気づいて、少し驚いた。


 背筋が伸びた。机に向かう姿勢が、いつの間にか変わっている。この感覚、久しぶりすぎて、名前がすぐに出てこなかった。前世で最後にこれを味わったのは、いつだろう。入社一年目か。あの頃はまだ、数字を追うことが楽しかった。怖くなかった。今の自分が、あの頃に少しだけ似ている。



 父の執務室の前に立つ。


 インクと古い革の匂い。重い扉。二度目だ。


 ノックをする。


「入れ」


 扉を開けた。


「お父様。マーレン商会の取引ですが、不正の疑いがあります。こちらに証拠をまとめましたので——」


 父は書類を受け取った。ページをめくる。


 今回の報告書は十四歳のときとは違う。取引先の住所が三ヶ月前に変わっていること、その届出先に実体がないこと。前世なら一晩で調べられた裏付けを、三日かけて紙の上で証明した。


 父の目が止まった。三枚目。いや、二枚目の途中で。


 前回は三枚目だった。今回のほうが、早い。


 沈黙が、長い。


 ページをめくる音が止まって、父が顔を上げた。私を見る。一瞬、ほんの一瞬、何か言いかけたように見えた。


 息を詰めていた。前回と同じだ。期待が胸の奥で膨らんでいく。


「——ふむ。わかった。下がれ」


 それだけだった。


 十四歳のときと、同じ言葉。


 同じ三文字。


 同じ温度。


 『結果:前回と同一。反応に有意差なし』


 ……知ってた。知ってたよ。



 三日後。


 マーレン商会との取引は打ち切られた。


 「当主殿が帳簿の不審点を発見され、毅然と対処なされた」。使用人たちの間で、そういうことになっていた。廊下ですれ違うたびに聞こえてくる。「さすがモーリス家の当主」「数字にお強い方だ」。


 聞き覚えのある台詞。一語一句。


 違うのは、今回は前世の記憶がある分だけ、「ああ、やっぱりそうなるよね」と思えること。


 それが救いなのか、余計に堪えるのかは、よくわからない。


 廊下で、リネットとすれ違った。


 目は合わなかった。いつものように視線を落として、一歩引いた位置を通り過ぎていく。


 でも、通り過ぎるとき、リネットの唇がかすかに動いた。


 声にはならなかった。


 聞き間違いかもしれない。都合のいい解釈かもしれない。でも、読唇術とかそういうのじゃなくて、なんとなくわかった。


 「ありがとうございます」。


 ……たぶん。


 足が止まりかけて、そのまま歩いた。振り返ったら、彼女が困るだろうから。


 『推奨:……特になし』


 珍しく黙ってるじゃない。



 自室のベッドに座って、天井を見上げた。


 ……で?


 報告書の精度は上がった。で、結果は同じ。


 天井の染みを数える。三つ。前からあった染みだ。


 ……もういい。


 窓の外に目をやった。屋敷の庭を囲む塀。その向こうに広がる、見たことのない景色。


 『環境変数を変更できない場合、推奨アクションは——』


 ——私は、ここにいてはいけない。


 そう思った瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。恐怖ではなかった。もっと静かな、確信に近いもの。


 『同意。ただし、脱出計画の策定には——』


 翌日。


 父の執務室から、聞いたことのない男の声が響いた。


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