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第29話:防御完了

 別動隊を止めた。


 南の山道は、旧道だけあって狭かった。三百の兵が縦列で進む。——峠道と同じ構造だ。狭い道を進む敵を、上から押し返す。地形の優位は、ここでも変わらない。


 ノアが兵を率いて山道を塞ぎ、私が地形を読んで防御位置を指示した。


 戦闘の詳細は、思い出したくない。でも、思い出す。


 最初に見たのは、音だった。岩が転がる轟音。金属が石を叩く甲高い音。それから——声。怒号と悲鳴の区別がつかない、人間の声。前世のSOCでは、インシデントは画面の中の出来事だった。ここでは、目の前で起きている。


 矢が風を切った。空気を裂く音が近い。こめかみの横を通り過ぎた、わけではないけれど、そう感じた。恐怖が距離を縮める。足元の土が血で暗く湿っている箇所があった。鉄の匂い。泥の匂い。混じって、名前のない匂いになっている。


 誰かが倒れた。鎧が地面を叩く鈍い音。あの音は、しばらく消えないだろう。前世でサーバールームのハードディスクが壊れた時の音を、十年経っても覚えている。人が倒れる音は、もっと長く残る。


 それ以上は、今は考えない。


 別動隊は撤退した。旧道を塞ぐ防御壁を急造して、追加の見張りを配置した。


 本陣に戻った。フェリクスが報告書を差し出した。正面の防衛線は保持。損害は軽微。フェリクスが指揮を預かっている間、何も崩れなかった。


「……ありがとうございます。助かりました」


 フェリクスは眼鏡を直して、小さく頷いた。


「当然のことです」


 また、その言葉。今は、泣きそうになるのを堪えるのに使う余裕がなかった。



 夜。


 本陣で地図を広げた。ノアと二人。


 正面の防衛線は機能している。別動隊は撤退した。南の旧道も塞いだ。でも、ここからどうする。


 王国軍はまだ二千以上いる。補給は細っているが、完全には断てていない。このままこう着すれば、援軍の到着まで持つかもしれない。でも、それでは「耐えた」だけだ。


 考えろ。


 ——今日、自分の確証バイアスに気づいた。「ここは安全だ」「大丈夫だ」と思い込んで、都合の悪い情報を切り捨てた。


 でも。


 これ、王国側も同じじゃないか?


 『仮説:王国軍もまた、「勝てる」という確証バイアスに支配されている可能性。根拠:別動隊の派遣は成功前提の楽観的計画。正面のこう着にもかかわらず撤退判断が遅延——』


 ——そう。ガルドは「勝てる」と信じたいはずだ。ここまで予算を使って、兵を動かして、失敗は許されない。だから「勝てる情報」だけを信じる。


 確証バイアスは、私だけの病気じゃない。


 追い詰められた人間ほど、「うまくいく」という情報にすがりつく。


「ノア様。一つ、提案があります」


「何でしょう」


「……ハニーポットを仕掛けたいんです」


「ハニーポット?」


「偽の情報を流します。『グレイシア領の防衛線に綻びがある』と。ガルドが信じたい情報を、こちらから差し出すんです」


 ノアの目が、理解とともに鋭くなった。


「確証バイアスの、逆利用ですか」


「はい。以前学んだ手法です」


 『ハニーポット——平たく言えば囮。偽の弱点を餌にして、攻撃者をおびき寄せる技術——』


「偽の弱点を見せて、敵を誘い込む。敵は『見つけた』と思って飛びつく。でもその弱点は、最初から存在しない」


 ノアは少しだけ間を置いた。地図を見つめている。


「……どこに『綻び』を作りますか」


「西の防御壁の接合部です。ここに意図的に隙間を見せて、偽の撤退を演出します。ガルドが信じたい情報——『敵の防衛線が崩れ始めている』を、こちらから提供する」


「敵がそこに戦力を集中させれば——」


「補給線が伸びます。伸びきったところで、断つ」


 沈黙。


 ノアが顔を上げた。仕事モードの目。でも、その奥に信頼がある。


「やりましょう」



 三日目の朝。


 息が白い。山の空気は冷たく、焚き火の煙と凍った土の匂いが混じっている。


 防衛線の西側で、演技が始まった。一部の兵が「慌てて」後退する。防御壁の一角を「放棄」する。全部、嘘だ。


 偽の伝令を走らせた。「西の防御壁が持たない」。わざと王国軍の斥候に拾わせる。


 ……待つ。


 何も起きない午前が過ぎていく。指先が冷たい。握りしめた地図の端が、汗で湿っている。


 食いつかなかったら。ガルドが罠を疑ったら。


 『待機。判断材料が不足——』


 お前もわからないのか。


 本陣の壁に背をつけた。心臓の音が聞こえる。こんなに静かだったか、戦場は。


 午後。


 斥候からの報告が入った。


「王国軍が動きました。正面の攻撃を弱めて、西側に戦力を集中させ始めています」


 食いついた。


 膝から力が抜けそうになった。堪える。まだだ。でも、掌が汗で滑っている。地図を持つ指が白い。心臓が跳ねている。「食いつくはずだ」と信じたかった。信じたいから信じた。それはまた確証バイアスではないか。自分の策が正しいと信じたい。敵が負けると信じたい。どこまでが分析で、どこからが願望か。——線引きが、わからなくなっている。


 「綻び」に向かって、補給線を伸ばしている。冬の山道を。凍結した峠を。無理な行軍で、列が間延びしていく。


 そこで、想定外が起きた。


 偽の撤退を演じていた西側の兵の一部が、本当に混乱し始めた。「演技」と聞いていたはずの兵が、王国軍の接近に動揺して後退している。嘘の中に本物が混じった。


「ユリア様、西の第三班が——」


「大丈夫です。第三班はそのまま後退させてください。演技に見えなくなった分、敵にはより本物の『綻び』に見える」


 言い切った後で、手が震えていることに気づいた。こんな判断が正しいかどうか、わからない。でも、止まるわけにはいかない。


 ノアが横で頷いた。何も言わなかった。ただ、視線だけが「信じている」と語っていた。


 『王国軍の補給線:過延伸。この状態で寸断すれば——前線の手持ちは四十八時間以内に枯渇』


 伸びきった。


「今です」


 ノアが合図を出した。西の「放棄」された壁から、待ち伏せの兵が現れた。同時に、南の旧道から、さっき塞いだばかりの道から、こちらの部隊が王国軍の補給線を断ちに動いた。正面でも、手薄になった峠道の後方を防衛線の部隊が封鎖した。


 はさみ撃ち。


 王国軍の補給線が、三か所で同時に寸断された。


 前線に物資が届かなくなった王国軍の動きが、目に見えて鈍った。伝令が何度も行き来している。混乱している。


 斥候の報告では、王国軍の本陣で指揮系統が混乱しているという。「勝てるはずだ」と信じていた情報が、全部嘘だったと気づいた時の反応。前世で何度も見た。セキュリティインシデントが発覚した直後の、管理職の顔。


 遠くから、怒号が聞こえた。それから、命令。


「——撤退だ! 撤退しろ!」


 山岳を越えられなかった王国軍が、引き返していく。峠道を。凍結した道を。来た時よりもずっと少ない数で。


 終わった。


 膝が、折れた。


 地面の冷たさが、膝を通して伝わってくる。凍った土の固さが骨に響く。息を止めていたことに、今気づいた。肩の力が抜けて、初めて寒さを感じた。手が、まだ地図を握っている。指を開こうとして、開けない。強張って、紙に貼りついている。


「……勝った、んですか」


「ええ」


 ノアは微笑んだ。疲れた笑顔。でも、穏やかだった。


「あなたの失敗が、最後には武器になりましたね」


 確証バイアスに敗れた。でも、その経験が、逆転を生んだ。


 自分が陥った罠を、今度は敵に仕掛けた。失敗を分析して、同じ構造を逆用する。


 『状況分析:防御成功。損害:軽微。主目標:達成。——補足:確証バイアスは敵味方を問わず作用する。違いは、気づけるかどうか』


 ……今回は、まともなこと言うじゃない。


「いいえ。私一人では——」


「そうですね。二人で、勝ちました」


 ノアの目が、三番目の表情をしていた。


 胸の奥が、じわりと温かくなった。今度は、その感情を分析しなかった。


 窓の外に、冬の山が見えた。白い峰。澄んだ空。嵐が過ぎた後の、冷たい空気。


 戦争は終わった。


 でも、まだやるべきことがある。王国が崩れていく。ガルドの責任問題。リネットの証言。


 帳簿を開いた。戦後の試算を始める。数字は嘘をつかない。


 でも今は、数字だけじゃなくて、隣にいる人の存在が、もう一つの確かなものだった。


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