第28話:揺らぎ
二日目の午後。報告は変わらず「想定通り」だった。
一段目の防御壁は保持。王国軍の攻撃は散発的になり、前衛の損耗が続いている。補給線は冬の峠道で凍結が始まっている。
あと八日。八日持てば、勝てる。
——そう、思っていた。
廊下に足音が響いた。走っている。息を切らしている。その足音を聞いた瞬間、身体が固まった。手が止まる。呼吸が止まる。耳だけが、鋭くなる。
伝令が駆け込んできた。南方の見張り。扉を開けた勢いで冷たい風が吹き込み、机の上の書類が舞った。汗と泥と、外の冷気の匂い。声が裏返っている。
「別動隊が南の山道から接近! 推定三百!」
南。
その一語だけが、耳の中で反響した。周囲の音が遠くなる。正面の防御壁で続く攻防の音も、部屋の中のざわめきも、全部が水の底に沈んだ。
——南の山道。
地図を広げた。指が、動かなかった。
載っている。南の山に、小さな点線。使われていない旧道。地図に、載っている。
この道を——私は、知っていた。
『……該当情報を検索。結果:既知。地形分析時に取得済み。分類:「通行不能」。根拠——不十分』
根拠。不十分。
目の前が、暗くなった。
この領地に来た頃。マルタに聞いた。「峠道は一本。補給路も限られています」。限られている。ゼロじゃなかった。他にも道はあった。
あの時、リスク管理脳が地形分析を始めた。峠道の道幅、補給物資の通過量。私は「職業病だ」と打ち切った。続きを聞かなかった。聞きたくなかった。「安全だ」と思いたかったから。
胃の奥が、冷たく締まった。手が震えている。さっきから止まらない。地図を押さえている指が白い。書類が床に散らばっている。伝令が駆け込んだ時の風で飛んだ紙。拾う余裕がない。
遠くで岩が転がる音がした。正面の防御壁で、まだ散発的な攻防が続いている。風が変わって、土煙の匂いが本陣まで届いた。焦げた木の匂い。血の匂いは——ここまでは届かない。でも、あるはずだ。
……戦っている。あの防御壁で、人が戦っている。私の計画の上で。私が「安全だ」と判断した——その計画の上で。
思い出す。穏やかな日々の最後の夜。眠りに落ちる直前、リスク管理脳が何か言いかけた。
——中継点の鳩が、三日間。別の——。
別のルート。別の動き。偵察の兆候が、あの時すでにあったのかもしれない。私は聞かなかった。眠ってしまった。
防衛計画を立てた時。この地図を見た。旧道は載っていた。冬の山道。幅が狭い。大軍は通れない。——でも、三百なら?
三百なら、通れる。
なぜ「通行不能」と判断した。何を根拠に。
『確証バイアスを——検出。発生時期……平穏期以降。脅威を過小評価する方向に——データの取捨選択が——原因——』
リスク管理脳が、言い淀んだ。初めてだった。
『——「ここにいたい」という感情が、分析を汚染した』
ここにいたい。
この場所が好きだ。この人たちが好きだ。ノアが。マルタが。フェリクスが。リネットが。この屋敷の「当然」が。
だから「ここは安全だ」と信じたかった。「峠道一本を守れば勝てる」と。
都合のいい情報だけ拾って、都合の悪い情報を捨てた。
セキュリティの専門家が——一番基本的なミスを犯した。「自分は大丈夫」という思い込み。前世で何度も見てきた、インシデントの根本原因。
それを。自分が、やった。
手が震えている。指が白い。
「ノア様」
声が掠れた。
「南の旧道を『通行不能』と判断したのは、私です。地図にも載っていた。情報もあった。私が、切り捨てました」
「ユリア様——」
「私が行きます。私の判断ミスです。私が、止めます」
「いいえ」
ノアの声は穏やかだった。でも、揺るがない。
「あなたはここで指揮を続けてください。私が別動隊を止めます」
ノアの手が、腰の剣帯に触れた。金具がかちりと鳴る。背筋が伸びる。——穏やかさが消えた。目の色が変わっている。あの日常の中にいた人ではなく、領主の顔。
——待って。
「これは私のミスです。私が——」
「ユリア様」
ノアが振り返った。
その目に、覚悟のようなものが見えた。以前、弱音を見せてくれた夜を思い出す。「まだ二十三です」と言った不安を、乗り越えた強さ。
「あなたを守るのは、私の仕事です」
仕事。その言葉が、硬い。「仕事」と言い換えている。本当に言いたい言葉を、飲み込んでいる。
——なんで。
私のせいなのに。
足が動かなかった。立ち上がりかけて、膝に力が入らない。声も出ない。喉の奥が、詰まっている。
前世でも同じだった。ミスをしたら自分で埋め合わせる。誰にも頼らない。自分の責任は自分で取る。それが当たり前だった。そのパターンが、身体を縛っている。
でも。
この人が、背を向けて行こうとしている。一人で。
一人で抱え込むな。
——それは。私が、この人に言ったことだ。「一人で抱え込むよりは、マシだと思って」。あの夕暮れの執務室で。
自分で言ったのに。自分が、一人で抱え込もうとしている。
「……ノア様」
「はい」
「一人で抱え込まないでって——私が、言ったんです」
ノアの足が止まった。
「だから——一緒に行きます。防衛線の指揮はフェリクスに」
フェリクスが目を見開いて、眼鏡を直した。姿勢を正す。帳簿を胸に抱え直した。あの几帳面な手が、今は盾のように見えた。
「……承知しました。本陣はお任せください」
声は硬い。でも、揺れていない。この人は、数字と事実を扱う人だ。正面の防御壁の状況報告も、補給の残量計算も、全部この人の帳簿の中にある。今は、それが頼もしい。
ノアが振り返った。驚いて、それから笑った。仕事でも穏やかでもない。三番目。
「……二人で間違えれば、まだマシでしたね」
あの日の、あの言葉。不安を分け合った夜の。
目が熱くなった。泣く場面じゃない。わかっている。
「行きましょう」
南の山道に向かった。二人で。
廊下を走る。足音が二つ、石の床に響く。ノアの足音が半歩先。——合わせようとしなくても、自然にリズムが揃っていく。息が白い。冬の廊下の空気を吸い込むと、肺が凍えた。身体が重い。でも、動いている。動ける。隣に人がいると、足は止まらない。
窓の外は午後の傾いた光。山の影が長くなっている。——この影が完全に伸びきる前に、間に合わなければならない。
私のミスが、この危機を生んだ。でも、一人で償うのは、もうやめる。




