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第27話:嵐

 国境の山岳地帯に、旗が見えた。


 王国の紋章。朝日を受けて、赤と金が光っている。その下に、無数の兵が峠道を埋め尽くしていた。


「来ましたね」


 ノアの声は穏やかだった。でも、目は仕事モードの中でも最も鋭い状態。


「予定通りです」


 本陣の後方。情報が集まる場所。各区画からの報告が、伝令とのろしで届く。


 ろうそくの脂と古い紙の匂いがこもった、狭い部屋。壁には地図が三枚、画鋲で留められている。窓は一つ。そこから峠道の方角が見えるはずだが、今は朝もやで白い。


 私の持ち場だ。前世と同じ。モニターの代わりに地図があり、アラートの代わりに伝令が駆け込んでくる。


 『脅威レベル:最大。推定兵力:三千。展開状況:峠道に縦列。想定通り』


 想定通りだ。峠道は狭い。大軍が展開できない。マルタに教えてもらった通り、隊商が一列で通るのがやっとの道幅。三千の兵がいても、前衛が防御壁にぶつかる数は——同時に数十が限界。


 防御壁の一段目で、敵の先頭が止まった。矢が降る。岩が転がる。狭い道で避ける場所がない。


「一段目、保持。敵の先頭が後退しています」


 フェリクスが報告を読み上げる。声は硬いが、落ち着いている。数字を扱う時の声だ。


「二段目、異常なし。三段目、異常なし」


 想定通り。地形が味方をしている。


 午前が過ぎた。


 最初の伝令が来たのは、開戦から一刻後だった。扉が開いた瞬間、冷たい風が吹き込んで、ろうそくの炎が揺れた。汗と泥の匂い。伝令の声が裏返っている。でも、報告は「一段目保持」。力が抜ける。いや、抜けない。「まだ終わっていない」という緊張が、形を変えて腹の底に居座っただけだ。


 石の椅子が冷たい。腰が痛む。同じ姿勢で地図を見続けて、首の後ろが固まっている。前世のオフィスチェアの方がまだましだった。あれはせめてクッションがあった。ここには、冷たい石と、紙と、ろうそくの匂いしかない。


 伝令が来るたびに扉が開く。そのたびに身体が固まる。報告を聞いて、わずかに力が抜ける。その繰り返し。ろうそくが一本、燃え尽きた。新しいのに替える。手が、少し震えていた。


 午後になった。ろうそくが二本目に変わっている。蝋の匂いが濃くなった。部屋の空気が重い。


 伝令が扉を叩く。足音の速さで、中身がわかるようになった。走ってくるのは悪い知らせ。歩いてくるのは定時報告。——今は、歩いている。


 王国軍は三度、突撃を試みた。三度とも、一段目の防御壁で止まった。


 死者が峠道に折り重なる。——見えない。本陣からは見えない。でも、報告の数字でわかる。数字の向こうに人がいることを、忘れてはいけない。忘れかけてもいけない。


「王国軍の前衛損耗率、推定二割。突撃の間隔が長くなっています」


 フェリクスの報告。二割。胃が重くなった。手が冷える。でも顔には出さない。出すわけにいかない。


 前世のSOCと同じだ。数字でしか見えない戦場。アラートの数、影響範囲、損害額。あの頃も、数字が増えていくのを追いかけていた。キーを叩く指だけが止まらなかった。数字の向こうに人がいることを忘れかけた夜が、何度もあった。


 三千の二割は六百。残りはまだ二千四百。


 窓に近づいた。朝もやが晴れて、峠道の方角がかすかに見える。山肌と空だけだ。でも、耳を澄ませば風の間に何かが混じっている。金属が石を叩く音。遠すぎて、それが剣なのか盾なのかもわからない。あの音の一つ一つが、人だ。


 あの頃は「数字」だった。ここでは、違う。


 マルタが本陣に入ってきた。パンと水の入った盆を、黙って机の隅に置いた。「食事は取ってください」。この人のルールは、戦時中でも揺るがない。


「補給状況は」


「峠道を通じた補給線は維持されています。ただし、冬の峠道ですので——」


「長くは持たない」


「はい。推定で十日分の補給物資です」


 十日。十日間、防御壁が保てば、王国軍は補給切れで撤退するしかない。


 『防御計画の進行:順調。現時点での修正は不要——』


 日が暮れた。王国軍は後退して野営に入った。夜間攻撃のリスクは低い。峠道の夜は暗い。松明をつけて攻めれば、格好の標的になる。


「初日は、保ちましたね」


 ノアが息をついた。穏やかな声に、わずかに安堵が混じっている。肩の力が抜けているのが、薄暗いろうそくの光でもわかった。昨日までの鋭さが、ほんの少しだけ緩んでいる。


「ええ。防御壁は機能しています。補給線も維持。想定通りです」


「想定通り……」


 ノアが何か言いかけて、止めた。窓の方を見る。暗くて何も見えないはずの方角を。——峠道の方だ。


「いえ。明日も、お願いします」


「はい。ノア様も、休んでください」


「ええ。マルタに怒られますからね」


 小さく笑って、ノアが退室した。


 一人になった。


 報告書を見返す。一段目の防御壁の損害。矢の消費量。水の残量。兵の疲労度。


 全部、想定の範囲内。


 ——想定通り。


 なのに。


 胃の奥が、重い。何かが引っかかっている。何かを見落としている気がする。


 『状況分析:防御は想定通り。全指標が許容範囲内——』


 お前もそう言うの。じゃあ、この違和感は何だ。


 前世で、SOCのモニターが「異常なし」を出し続けた夜があった。全部グリーン。全部正常。翌朝、最大のインシデントが発覚した。「異常なし」が正しかったのではなく、検知できていなかったのだ。


 今も、検知できていないだけでは。


 地図を広げた。峠道。防御壁の位置。補給路。


 ……他に、道はないか。


 指が、南の山地をなぞった。マルタに聞いた旧道。「もう使われていない」と言っていた道。地図には細い破線で描かれている。


 ——確認済みだ。通れないと判断した。他に道がないことは、確認済み。


 ……確認済み、と自分に言い聞かせている。前夜に「怖くても戦える」と思った。今、実際に戦っている。思っていたより、怖い。


 『補足事項——南の旧道について、中継点の鳩が三日間——』


 リスク管理脳が何か言いかけた。


 でも、報告が入った。二段目の哨戒からの定時連絡。「異常なし」。


 ——異常なし。


 報告を受けて頷き、伝令を下がらせた。……何だったっけ。リスク管理脳が何か言いかけていた。旧道の——中継点の——。


 『……再開。南の旧道に関して——』


 次の伝令が来た。一段目の夜間配置の確認。応答を返す。振り返る。もう、さっきの言葉が消えている。


 結局、リスク管理脳の報告は最後まで聞けなかった。南の旧道。中継点の鳩。——何かが、つながりかけていたのに。


 地図を閉じた。旧道の破線が、一瞬だけ視界に残った。消えなかった。


 椅子から立ち上がった。膝が笑っている。座り続けていた腰が軋んだ。肩を回すと、骨が鳴った。一日中座っていただけだ。剣を振るったわけでも、走ったわけでもない。なのに、身体が壊れかけている。緊張は、身体を削る。


 マルタがスープを持ってきた。温かい。湯気が顔に当たって、そこだけ人間に戻った気がした。一口飲む。味がする。ああ。今日初めて「味」を感じた。昼に食べたはずのパンは、何も覚えていない。


 明日に備える。眠らなければ。


 窓の外は暗い。山の稜線が見えない。星も雲に隠れている。隙間風が、湿った山の匂いを運んでくる。


 嵐が来る。空の嵐ではなく。


 何かが、来る。


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