第26話:前夜
防御陣地の構築が始まった。
この領地に来た頃、マルタに教えてもらった山岳地形。「峠道は一本しかございません」。あの時は覚えただけだ。職業病だと思った。地形を見れば、攻撃ルートと防御拠点を考えてしまう。リスク管理脳の癖。
今は、命綱だ。
「峠道に防御壁を三段。一段目は見張りと遅延用。二段目が主防衛線。三段目は予備」
図面を広げて、ノアと確認する。冬の峠道。幅が狭い。大軍が展開できない。攻める側は縦列で進むしかなく、防御壁に正面からぶつかることになる。
「補給路は、ここと——ここを封鎖できるようにしてください。王国軍が迂回を試みた場合に遮断します」
「この地点に見張りを配置します。のろしで本陣に伝達。反応時間は」
「最短で半刻。十分です」
ノアの指が地図をなぞる。仕事モードの声。短くて、的確で、無駄がない。地図の紙がざらついている。インクと蝋の匂いが混じって、窓の隙間から入る冬の冷気が指先を白くする。
『防御計画の評価:地形優位を最大限に活用。補給線遮断の併用で長期戦に持ち込む構想——有効』
有効。頭ではわかっている。数字の上では、勝てる。地形が味方だ。補給は断てる。援軍も来る。
でも、数字は嘘をつかないけれど、戦場は数字通りにはいかない。この地図の上の点の一つ一つが、人だ。命がかかっている計画を、こんな静かな部屋で立てている。
図面に書き込みを加えていく。ノアの文字は相変わらず几帳面だ。地図の書き込みまで丁寧なのは、この人らしい。
窓の外で、兵たちが防御壁の資材を運ぶ音がした。木を叩く音。掛け声。石を積む音が重なる。一つ、また一つ。あの音の一つ一つが、誰かの手で積まれている。地図上の「防御壁」が、現実では汗と筋肉だ。明日の戦いが、音で近づいてくる。
「——ユリア様」
「はい?」
ノアの手が、図面の上で止まっていた。ペンを持つ指先が、わずかに白い。さっきまで正確に動いていた指が、震えている。
「あなたは、怖くないのですか」
声が、仕事モードから外れていた。穏やかでもない。もっと剥き出しの声。息を一つ整えてから言った、という呼吸の間が、聞こえた。
……怖い。
怖いに決まっている。三千の兵が来る。人が死ぬかもしれない。この場所が壊されるかもしれない。
でも、怖いと言ったら、みんなが不安になる。
「……少しだけ」
嘘だ。少しじゃない。
「怖いですよね」
ノアが、静かに言った。
——え。
「私も、怖いです」
二十三歳の領主が、図面から目を上げて、そう言った。仕事モードでも穏やかモードでもない。あの三番目の表情。
「この領地を継いでから、何度も怖いと思いました。でも」
少しだけ間を置いて。
「一人じゃないので」
……ずるい。
私が言おうとしたことを、先に言われた。
「……ずるいですよ、それ」
「すみません。先に言いたかったので」
ノアの口元が、わずかに緩んだ。怖いと言った直後なのに、その笑顔は不思議と穏やかだった。
『……感情の分類を試行。結果:該当カテゴリなし。保留——』
お前も、まだ保留してるのか。私もだけど。
地図が二人の間に広がっている。防御計画の線を引くノアの手が、さっきまで震えていたことを、もう忘れたふりをしている。ペンを握る指先が、また正確に動いている。その切り替えが、少し眩しい。
窓の外を見た。冬の山。白い峰。明日、あの峠道を三千の兵が来る。
「……ノア様」
「はい」
「私も、一人じゃないです」
ノアは何も言わなかった。ただ、頷いた。
それだけで、十分だった。
夜。
書斎で、防御計画を最終確認していた。各区画の配置人数。補給物資の残量。のろしの位置。援軍の到着予定時刻。
数字を一つずつ、潰していく。見落としがないか。想定漏れがないか。
前世のインシデント対応と同じだ。チェックリストを一行ずつ消していく。
——ふと、思い出す。前世の夜勤。空調の低い唸り。自動販売機の光だけが廊下を照らしていた。誰もいないオフィスで、一人でログを追っていた。朝方、窓の外が白んでくるのを見ながら「今日も防いだ」と思った。誰にも言わずに。
ただし、前世は会社のサーバーが止まるだけだった。ここでは、人の命がかかっている。
扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
マルタだった。お盆にお茶を載せている。湯気が立っている。
茶葉の匂いが、インクとろうそくの匂いに割り込んできた。
「残業は禁止ですよ」
「……非常時なので」
「非常時でも、です」
マルタがテーブルにお茶を置いた。いつもの動作。いつもの角度。戦争が明日だろうと、お茶の置き方は変わらない。
「明日に備えてください。万全の状態で臨むことが、最善の準備です」
マルタの手が、一瞬だけ私の肩の方に向きかけて、止まった。指先が行き場を失って、エプロンの裾に戻る。
——何か言いたかったのだろう。「気をつけて」とか。「無理しないで」とか。でも、この人はそういう言葉を使わない。代わりに「残業は禁止です」と言う。
——この領地のルールは、非常時でも変わらない。
残業は禁止。仕事は定時まで。良い仕事をしたら評価する。困ったら報告する。
前世では、非常時になると全部崩れた。「今日は特別だから」「非常時だから仕方ない」。特別と非常時が積み重なって、日常が戻らなくなった。
ここでは、日常を手放さない。
「……わかりました。あと少しだけ」
「あと少し、ですね。十分後に確認に参ります」
——本当に来るのだ、この人は。
マルタが部屋を出た。足音が遠ざかる。
——前世では、「残業禁止」と言ってくれる人がいなかった。「もう帰れ」と言ってくれる上司がいなかった。だから、気づいたら壊れていた。ここでは、壊れる前に止めてくれる人がいる。
お茶を飲んだ。温かかった。いつもの味。
帳簿を閉じた。チェックリストの最後の項目に、チェックを入れた。
『明日の予定:戦闘。——補足:勝つ。この場所を、守る』
……お前にしては、シンプルだね。
いつもは長い分析を回すくせに。脅威レベルだの影響範囲だの確率だの。
でも、うん。そうだ。
守る。
お茶を飲み干して、立ち上がった。
窓を閉める前に、一度だけ山を見た。暗い稜線。星が出ている。数えきれないほどの。前世では街の明かりに消されて、星はほとんど見えなかった。ここでは、こんなにも。一つ一つが冬の空気に磨かれて、震えるように光っている。あの峠の向こうにいる兵も、同じ星を見ているのだろうか。夜気が頬に当たる。凍った松の匂い。明日の天気は——晴れだろう。
峠道を来る敵。守るべき場所。隣にいる人たち。
全部、見えている。
——だから、怖くても戦える。
窓を閉めた。明日に備える。マルタが来る前に。




