第25話:祈り
三日後。報告が届いた。
「リネットのご家族の保護が完了しました。現在、エスト公国の安全な場所に移送済みです」
フェリクスの声は、いつも通り事務的だった。でも、報告書を持つ手が、ほんの少しだけ丁寧だった。
リネットは、執務室の隅に立っていた。
報告を聞いた瞬間、何も言わなかった。手を前に組んで、背筋を伸ばして、いつもの控えめな姿勢のまま動かない。
「リネット」
「……はい」
声が、震えていた。
「ご家族は無事です」
リネットの肩が、一度だけ大きく揺れた。
——泣いている。音を立てずに。目を伏せて。唇を噛んで、声が漏れないように。
リネットが泣くのを、初めて見た。この人はいつも感情を隠す。怯えた目。伏せた視線。感情を出したら壊れると思っている人の態度。あの頃と同じだ。帳簿を持ってきた時も、いつもうつむいていた。
でも今は、壊れないために隠しているんじゃない。壊れても構わないから、泣いている。
泣けているなら、大丈夫だ。泣けなくなった方が危ない。
ノアが、音を立てずにテーブルの上にお茶を置いた。甘い薬草茶の香りが、張り詰めた空気をわずかに緩ませた。カップがテーブルに触れる、小さな音。それだけが沈黙の中に響いた。リネットの手が震えているのを見て、カップを押しやるだけにした。「落ち着いてからで構いません」
しばらく経って。リネットが顔を上げた。目が赤い。でも、視線がまっすぐだった。
「密書の件ですが」
ノアが口を開きかけた。リネットが、先に言った。
「偽証は、しません」
声が、いつもより強かった。強いというより、決まっていた。迷いがない声。
「家族が無事であってもなくても、しないつもりでした」
沈黙。
『……リネットの意思決定を分析。外部圧力への耐性:予想を——』
黙れ。この人の覚悟を数字にするな。
「お嬢様が」
リネットが、少しだけ言葉を探した。
「王国にいた頃、助けてくださいました。投資詐欺の時。あの時は、お礼も言えませんでした。目も合わせられなかった」
「……昔の話です」
「でも、覚えています」
リネットの手が、膝の上で握られている。指が白い。
「今度は、私が、ちゃんとします」
ちゃんとする。リネットなりの覚悟の言葉。不器用で、短くて、でも本物だ。
胸の奥が熱くなった。
ここにも、選んだ人がいる。
午後。防衛計画の最終調整。
ノアが配置図を広げた。防衛線の各区画に、人員の割り当てが書き込まれている。
「ユリア様には、本陣の後方で全体の指揮補佐をお願いしたいのですが」
「後方、ですか」
「はい。各区画からの報告が集まる場所です。分析と判断の支援は、そこで最も効果を発揮します」
理にかなっている。私の強みは前線じゃない。情報を集約して、全体像を把握して、判断を支援する。前世のSOCと同じ構造だ。
でも。
配置図をもう一度見た。本陣の後方。三段の防御壁の内側。防衛線から最も離れた、最も安全な場所。
ノアの指が、地図上の「本陣後方」を指した時、一瞬だけ止まった。ほんの一瞬。指先が紙の上で迷うように動いて、すぐに元に戻った。
『……配置の合理性は問題ありません。ただし、提案者の態度に微細な異常を検知。声のトーンが0.3段階低い。視線の接触頻度が通常比で——』
うるさい。考えすぎだ。分析能力を最大限に活かせる配置。それだけだ。
ノアは地図に目を落としたまま、次の区画の説明を続けた。いつもの仕事モード。何も特別なことはないように。声が、少しだけ事務的すぎる。普段の穏やかさが、意図的に消されている。
何も、特別なことはない。はず。
夕方。書斎で一人。
防衛計画の数字を確認していた。補給。三千対五百。周辺三公国の援軍が合流すれば千五百。それでも倍。
防御陣地を構築して、補給線を断つ。冬の峠道は攻める側に不利だ。長期戦に持ち込めば、数の差は埋まる。
計算は合っている。
理論上は、勝てる。
——なのに。数字を追う目が、何度もノアの配置位置に戻る。本陣。前線との距離。ノアの位置と防御壁の間にある空間。その空間の広さを、計算する意味はないのに、目が離れない。
『……行動パターン異常を検知。地図上の特定座標への注視が通常の4.2倍——』
気のせいだ。全体を確認しているだけだ。
でも。戦争だ。
もし。
もしノア様に、何かあったら。
その想像が浮かんだ瞬間、全身が冷えた。指先から血が引いていく。胸の中で何かが握り潰されたような感覚。息が浅くなる。紙を持つ手が、震えた。
『……新規脅威シナリオ:ノア・グレイシア喪失。影響度——致命的。影響範囲:領地運営の停止——ではなく』
ではなく?
『……再計算。影響範囲が——定義できません』
定義できない? 何でも数字にするこの脳が。
『影響範囲が個人の感情領域に侵入しています。これは——リスク管理の範疇を超えています』
……何を言っている。
『……分析を保留します。現在の優先事項は防衛計画の最終確認です』
逃げたな、お前。私も逃げよう。
帳簿に戻った。補給量。消耗率。予備兵力。数字を追えば、余計なことを考えなくて済む。
インクの匂いが鼻をつく。羽ペンの軸が、指の中で滑る。汗をかいている。冬なのに。
——嘘だ。数字を追いながらも、頭の隅に貼りついている。ノアの横顔。あの穏やかな目。地図の上で一瞬止まった指先。
窓の外で、日が沈んでいく。冬の夕暮れは早い。山の稜線が、赤黒く染まっている。どこかで薪を焚く匂いがする。暖炉の火とは違う、外の焚き火の匂い。兵の匂い。松脂が爆ぜる音が、遠くから断続的に聞こえる。風向きが変わった。煙の匂いが濃くなる。兵たちの声が聞こえる。笑い声も混じっている。明日、命をかけるかもしれないのに。
あの山の向こうに、三千の兵がいる。
手を組んだ。指先が冷たい。さっきまで汗ばんでいた手が、もう冷えている。
帳簿を閉じた。ペンを置いた。椅子の背に身体を預ける。数字はもう十分だ。計算で防げるものは、全部防いだ。前世では、数字にできないものは存在しないのと同じだった。でも、数字にできないものが確かにここにある。ノア様の穏やかな目。マルタのお茶。フェリクスの几帳面な字。リネットの覚悟。数字の外にあるもの。
祈るなんて、リスク管理じゃない。前世の私なら鼻で笑っただろう。「祈りでインシデントは防げない」と。
でも、他に何ができる。計算は全部終わった。準備も終わった。あとは、待つだけだ。
目を閉じた。
——どうか。全員が、無事でいられますように。
窓ガラスが、一瞬だけ震えた。風ではない。地を伝う振動。遠く、遠くから。




