第24話:決断
報告は、二つ同時に来た。
朝。ノアの執務室で、防御計画の草案を広げていた。山岳地形を活かした防衛線。補給路の管理。補給物資の試算。来ると分かっていたから、準備はしていた。
扉が叩かれた。
一回。間が空く。もう一回。——いつもの三回が来ない。
フェリクスの足音だった。前世のオフィスで足音だけで同僚を識別していた職業病が、ここでは役に立っている。この人は扉を三回、等間隔で叩く。いつもそうだ。それが、崩れている。
背筋が伸びた。手が帳簿の上で止まる。呼吸が浅くなった。指先が冷たい。まだ何も聞いていないのに、身体が構えている。前世のインシデント対応の夜と同じだ。電話が鳴る前に、胃が締まる。
「失礼します。至急の報告です」
息が上がっていた。眼鏡がずれている。声が硬い。直す余裕もなかったのだろう。
「国境付近に、王国軍の集結が確認されました」
『脅威レベル:最大に引き上げ。推定規模——』
「兵力の推定は」
「三千以上。正規軍です」
三千。辺境伯領の常備兵力は五百。六倍。
数字が、腹の底に重く落ちた。
ノアの手が動いた。書簡を脇に寄せ、地図を引き出す。動きに迷いがない。
「防衛態勢に移行します。フェリクス、周辺三公国と公国本府へ伝達を」
仕事モードの声。穏やかさが消えて、判断だけが残る。
「直ちに」
フェリクスが踵を返しかけた。——その手に、もう一通の書簡が握られていた。
「もう一つ、報告があります」
声が躊躇っていた。フェリクスが言葉を選ぶのは珍しい。この人は数字と事実だけを扱う人だ。
「リネット宛ての密書が、傍受されました」
フェリクスが書簡を差し出した。封は開けてある。傍受した時点で中身を確認済みということだ。
受け取った。封蝋を割った。赤い蝋が割れる、小さく乾いた音。紙を広げた。乾ききらないインクの匂いが鼻を突く。急いで書かれた書簡の匂いだ。
差出人、ガルド・フェルトン。
筆跡は荒い。前に届いた脅しの書簡と同じだ。インクが滲んでいる。怒りか、焦りか。
——内容は、命令だった。
「ユリア・モーリスが隣国の軍事機密を王国に渡した、と証言しろ」
偽証の強要。
書簡の続きを読んだ。家族のことが書いてあった。リネットの故郷。王国領に残っている両親と弟。
文面は丁寧だった。「ご家族の安全は、あなたの協力次第です」。
指先が冷たくなった。こめかみが脈打つ。胃の奥が熱い。丁寧な言葉で書かれた脅し。前の使者と同じだ。体裁だけ整えて、中身は暴力。前世にもあった。「協力しないなら、チームにいる意味あるの」。形を変えてどこにでもある暴力。
『リネットの家族が人質。彼女に選択肢はない——いや』
いや。
リネットは、選んだのだ。あの時、スパイ活動を告白した。庭のベンチで泣きながら。怖かったはずだ。手が震えていた。声が掠れていた。それでも、自分の意志で選んだ。
今度は王国が、その選択肢を奪おうとしている。
『二正面作戦は非合理。リソースの分散は——』
リスク管理脳が分析を始めた。合理的だ。二正面は非合理だ。でも、ここで合理性を取ったら、前世と同じだ。「お前の仕事じゃない」と言われて引き下がった、あの私と。
「ノア様」
「はい」
「お願いがあります」
ノアの目が、こちらを見た。仕事モードの鋭い目。でも、私が何を言おうとしているか、もう読んでいる。
「リネットの家族を——王国が動く前に、保護したいんです」
沈黙。一秒。
「……家族は、王国領のどこに」
「リネットに確認が必要です。でも、以前聞いた話では南部の町です」
ノアが地図に目を落とした。指が王国の南部をなぞる。
「手配します。信頼できる者を送りましょう。商人の護衛に紛れれば、目立ちません」
即断。この人は、いつもそうだ。
『先手の人質救出。攻撃者の交渉カードを無効化する防御手法——』
リスク管理脳がいつもの分析を始めた。攻撃者のカード無効化。先手防御。合理的だ。
でも、違う。
これはリスク管理じゃない。
リネットに、自分で選んでほしいだけだ。
家族を盾にされたら、選べない。誰だって選べない。前世で見た。「従わないと評価に響くよ」。「協力しないなら、チームにいる意味あるの」。選択肢を奪う脅しは、形を変えてどこにでもある。
あの時、誰も助けてくれなかった。
だから、リネットには選ばせたい。偽証するか、しないか。家族が安全な場所にいる状態で。自分の意志で。
——おせっかいだ。
『……分析の範疇を超えています。コメントを控えます』
お前にしては、空気を読んだな。
「ユリア様」
「はい」
「家族の保護と、軍事防衛。二正面になります」
「……はい」
「どちらを優先しますか——と聞くまでもありませんね」
ノアの口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。仕事モードの中に、別の何かが混じった。
「両方です。フェリクス、リネットを呼んでください。本人に、直接伝えましょう」
フェリクスが頷いて、部屋を出た。足音が廊下に遠ざかる。
二人きりになった。
ノアが地図を見つめている。国境の線。集結する軍の推定位置。そして、リネットの家族がいる町。
「ノア様」
「はい」
「……ありがとうございます」
「何に対してですか」
「迷わなかったことに」
ノアは少しだけ間を置いて、答えた。
「当然のことです」
——この屋敷の人たちは、みんな同じ言い方をする。
当然。良い仕事をするのが当然。人を守るのが当然。
前世では、何一つ当然じゃなかった。
窓の外に、冬の山が見えた。隙間から入り込む空気が冷たく、雪混じりの土の匂いがした。雪を被った峰。遠くの煙、麓の村の炊事だろう。あの煙の下に、人が暮らしている。峠道。一本の補給路。この景色の中に、守るべき人たちがいる。
三千の兵。六倍の兵力差。
でも、ここには地形がある。周辺三公国の支持がある。防御計画がある。チームがある。
帳簿を閉じた。表紙に手を置く。ここまで私を守ってくれた数字たち。でも、次に開くのは防衛計画の図面だ。
フェリクスの足音が廊下に遠ざかる。マルタの指示が、階下のどこかで響いている。リネットが、この屋敷のどこかで、まだ知らない。自分の家族が助かるかもしれないことを。
全部、守るべきもの。
——来るなら、来い。
守るものは、もう決まっている。




