第23話:孤立
ノアは、使者を帰した後すぐに動いていた。
——いや。使者が来る前から、動いていた。
「周辺の三公国に、書簡を送りました」
ノアが執務室のテーブルに書簡の写しを広げた。三通。それぞれ、グレイシア領の北、西、南に隣接する公国宛て。
「……いつの間に」
「使者が来る十日前から、準備していました」
『先手の情報共有。脅威インテリジェンスの共有に相当。——この人、私より早かった?』
十日前。あの頃、私は通行税の分析に追われていた。経済制裁の対策を考えていた。帳簿を睨んで、数字を追って。
その間にノアは、書簡を用意していた。
「ノア様。何を共有したんですか」
「あなたが分析してくださった情報です。すべて」
テーブルの上に、書類が広がった。
スパイ網の実態。崩壊の経緯。使われていた中継点の場所。
情報操作の証拠。噂の拡散パターン。出所の特定結果。
そして——王国の財政データ。
「この財政データ、いつ手に入れたんですか」
「情報操作の件で商人に会った際に。あなたが噂の出所を追っている間に、私は数字を集めていました」
あの時。ノアが商人から穏やかに情報を引き出していた、あの時。噂の出所だけじゃなく、王国の経済状況も、同時に集めていた。
分業。
私が噂を追い、ノアが数字を追う。私が出所を特定し、ノアが財政の実態を掴む。どちらか片方では不完全な情報が、二人分で、全体像になった。
「ノア様。この情報を周辺国に共有したということは——」
「ええ。王国がどれだけ追い詰められているかを、全員に知らせました」
王国の国庫は火の車だ。軍事費を維持するために商材価格を統制し、通行税を引き上げ、経済制裁で外貨を確保しようとしている。長くは持たない。
その実態を、周辺三公国が知った。
「さらに、もう一つ」
ノアがもう一枚の書簡を取り出した。
「引き渡し要求の書簡の写しも、添付しました」
王国がグレイシア領に「逃亡者の引き渡し」を要求している事実。これを周辺国が知れば、意味が変わる。
「王国は他国の領民に対して、一方的に引き渡しを要求しています。今日はグレイシア領ですが、明日は別の公国かもしれない」
「……他人事じゃない、と思わせる」
「はい。共通の脅威として認識されれば、足並みが揃います」
前世なら、脅威インテリジェンスの共有。同業他社に「こういう攻撃がありました」と情報を流す。自社だけで防ぐより、業界全体で防御した方が、強い。
前世でも、業界の情報共有会議に出たことがある。でも——自社の被害を正直に開示する会社は少なかった。「情報共有」と言いながら、本当に共有されるのは当たり障りのないデータだけ。自分の弱みを晒すことを、誰もが恐れていた。ノアは全部出した。自領の弱みも含めて。この人の「穏やかさ」は、弱さじゃない。強さの上に立っている。
『外交戦略の評価:極めて有効。単独防御から集団防御への移行。NATO的な——』
NATOは言いすぎだけど、構造は同じだ。
一週間後。返答が届き始めた。
フェリクスが書簡を整理している。三通の返答。
「一通目。北のヴァルツ公国。『グレイシア辺境伯の主張を支持する。王国の一方的な要求は、公国間の自治権を侵害するものである』」
「二通目。西のレーベル公国。『我が領においても、王国の通行税引き上げにより交易に支障が生じている。共同での対応を検討したい』」
「三通目。南のエスト公国。『王国の財政状況に鑑み、今後の動向を注視する。なお、現時点では個別の対応は控えたい』」
二通は好意的。一通は、慎重。
ノアが静かに頷いた。仕事モードの目。でも、口元がわずかに緩んでいる。
「北と西の二公国が、共同声明を出す方向で調整に入りました。『グレイシア辺境伯の立場を支持する』。南のエスト公国は、参加を保留しています」
『三分の二。十分な成果。ただし、一国が様子見に回った事実は記録しておくべき——味方は状況次第で変わる』
王国の「逃亡者引き渡し要求」は、嘘をつき、スパイを送り込み、情報操作を仕掛けてきた国の、身勝手な要求として扱われた。
孤立したのは——王国の方だった。
窓の外を見た。冬の山並みが、午後の弱い光に白く光っている。あの山の向こうで、かつて私を「悪役令嬢ごとき」と笑った国が、自分自身の手で、孤立の壁を築いている。
皮肉だ。でも、笑えない。
午後。書斎で、フェリクスと今後の試算をしていた。
「経済制裁の影響は、周辺国との連携で大幅に軽減できます。北と西の二公国が代替交易ルートに参加した場合、交易量は現行比で八割五分を維持できます」
「エスト公国が加われば」
「九割以上です。ただ、現時点では二公国での試算を基本とすべきかと」
「十分です」
経済制裁が、無力化された。王国が締め上げようとした手が、空を切っている。
でも、安心はできない。
夕方。ノアの執務室で、一通の書簡を見せられた。
受け取った瞬間、紙の質でわかった。前の書簡とは違う。薄い。安い紙だ。正式な外交文書の体裁を保つ余裕もなくなっている。
筆圧が荒い。インクが滲んでいる。一箇所、羽ペンの先で紙が破れている。怒りで手が震えたのだろう。
差出人は、ガルド・フェルトン。王国の国庫管理官。
文面の最初は外交的な体裁を保っていた。「エドガルド王国として遺憾の意を表明する」「度重なる背信行為に対し——」。でも後半になるにつれて文体が崩れていく。「貴殿の判断は取り返しのつかない結果を招く」「周辺の小国が何を言おうと、王国の意志は変わらない」。
「内容は、ほぼ脅しです。外交的な体裁を繕う余裕もなくなっているようですね」
ノアが書簡を閉じた。
私は書簡の文面を覚えていた。最後の一文。
——「このまま済むと思うなよ」
文字の歪み方が、王国で聞いたあの声を思い出させる。「悪役令嬢ごときが国政に口を出すな」。あの太い声。芝居がかった響き。
でも——文字は、声と違っていた。あの声は太かったのに、文字は細く、崩れている。丁寧な文面を維持しようとして、できなくなっている。紙の向こうに、机に向かって書簡を書くガルドの背中が見えた気がした。深夜のオフィスで、一人で報告書を書いていた前世の自分と、一瞬だけ重なった。
あの男は、追い詰められている。外交で負けた。情報戦で負けた。経済制裁も空振りに終わりつつある。
追い詰められた人間は、合理的な判断をしなくなる。
『脅威分析:外交的敗北を認められない人間は、次に実力行使に出る確率が高い。ガルド・フェルトンの行動パターンから推定——軍事攻撃の可能性:高』
来る。
次は、力ずくだ。
「ノア様」
「わかっています」
ノアの目が、仕事モードの中でも最も鋭い光を帯びていた。
「備えましょう。全員で」
全員で。
前世では、「全員で」なんて言葉は嘘だった。「みんなで頑張ろう」と言って、実際に頑張るのは私だけだった。
ここでは違う。「全員で」は、本当に全員だ。ノアが判断し、フェリクスが記録し、マルタが動かし、リネットが情報を出し、私が分析する。
一人じゃない。
その言葉が、胸の中でこだまする。前世では「全員で」と言われた翌週に、一人で報告書を書いていた。「全員」は嘘だった。ここでは、嘘じゃない。そう信じられる自分がいることが、まだ少し怖い。
だから、怖くても戦える。
窓の外に、冬の山が見える。以前マルタが教えてくれた山岳地帯。峠道は一本。補給路は限られている。窓ガラスに結露が浮いている。指先で触れると、冷たい水滴が筋を引いた。
あの地形は、守る側に有利だ。あの時は「職業病だ」と思って覚えた。今は——武器だ。
帳簿を閉じた。手が冷たい。冬が本格的に来ている。でも、拳を握れば、まだ力が入る。
次の仕事は、防御計画だ。
——その夜。マルタが、顔色を変えて報告に来た。
「国境の監視所から伝書鳩です。王国軍の一部が——移動を始めています」
始まった。




