第22話:盾
返答の期限は、三日後だった。
その三日間を、私は帳簿と向き合って過ごした。代替交易ルートの試算。経済制裁の影響分析。最悪のシナリオ、交易が完全に止まった場合の、領地の食糧自給可能期間。
数字を追っていれば、考えなくて済む。自分のことを。
初日。帳簿に没頭した。字が滲む。目が乾いているのに気づくまで、二時間かかった。夜、布団に入っても目が冴えている。天井の染みを数えた。三つ。前からあった染みだ。
二日目。帳簿の同じ行を三回読んだ。数字が頭に入らない。マルタが差し入れてくれたお茶の温度だけが、現実だった。食事の味がしない。身体が拒んでいるのではなく、味覚が麻痺している。前世の繁忙期と同じ症状だ。
三日目の朝。起き上がるのに、時間がかかった。布団の重さが増している、わけがない。増しているのは、身体の方だ。朝食のパンが喉を通らなかった。
フェリクスが毎日、報告書を持ってきてくれた。マルタが夜にお茶を差し入れてくれた。リネットが朝、窓辺に小さな花を置いてくれていた。名前も知らない白い花。毎朝替わっている。
誰も、引き渡し要求のことを直接口にしない。でも、全員がわかっている。口にしないでいてくれることが、優しさだった。前世で「お前を異動させるぞ」と脅された夜を思い出す。あの時は、一人だった。今は——周りに人がいる。それがかえって、つらい。この人たちに迷惑をかけている自覚が、胃の奥で重石になっている。
三日目の朝。
ノアの執務室に呼ばれた。
入ると、使者がいた。先日とは別の男。返答を聞きに来たのだ。
ノアは椅子に座っていた。いつもの穏やかな姿勢。背筋がまっすぐで、手は膝の上。
使者が口を開いた。
「グレイシア辺境伯。王国は、返答をお待ちしております。逃亡者ユリア・モーリスの身柄引き渡しについて」
逃亡者。また、その言葉。
胃が痛い。でも、顔には出さない。拳を膝の上で握った。爪が掌に食い込む。
ノアが——動いた。
手元の書類をゆっくり置いた。指が机の表面を離れる。椅子が軋む音。背筋が伸びる。立ち上がった。
穏やかに微笑んだ。いつもと同じ、柔らかい笑顔。でも、目だけが笑っていない。初めて見る表情だ。穏やかさの「裏側」ではない。穏やかさの「芯」。氷の穏やかさ。声のトーンが一段低い。視線が固い。でも、手は震えていない。
使者が一瞬、たじろいだ。笑顔のまま圧を放つ人間を、想定していなかったのだろう。
「お断りします」
三文字が、落ちた。広間の空気が凍った。
沈黙。使者の息を呑む音。窓の外の風の音。自分の心臓の音だけが残った。
使者の目が、見開かれた。
「な——」
「彼女はエドガルド王国の逃亡者ではありません。ルーセン大公国の客人です。王国の内政問題を、公国の領地に持ち込むことはお控えください」
声は穏やかだった。いつもの柔らかいトーンそのまま。でも、目だけが笑っていなかった。
茶色、いや、こはく色の目が、使者をまっすぐに見ている。光を反射していない。静かで、冷たい。
「しかし、王国は正式に——」
「正式な要求には、正式にお答えしています。お断りします。この件に関しての再協議の余地はありません」
交渉の余地を、一切残さない。穏やかな声で、完全に閉じた。
使者の顔が赤くなった。何か言い返そうとして、ノアの目を見て、口を閉じた。
「……承知しました。王国に、そのようにお伝えします」
使者が退室した。扉が閉まる音。足音が廊下を遠ざかっていく。
沈黙。
ノアが、こちらを振り向いた。目が、さっきまでの冷たさが消えて、いつもの穏やかさに戻っている。
「以上です」
「……以上?」
「はい。お断りしました。それだけです」
——迷いが、ない。
前世で、私を守ってくれた人は一人もいなかった。「あいつが悪い」と言われたとき、誰も「違う」と言ってくれなかった。上司に「お前の仕事は俺の責任だ」と言われたことがない。一度もない。始末書を書いたのは、いつも一人だった。
王国では、ガルドに「悪役令嬢ごとき」と言われたとき、父も母も黙っていた。目を逸らした。誰も——「違う」と言わなかった。
この人は、使者の前で、「お断りします」と言った。穏やかに。迷わずに。
この人は渡さない、と。
胸の奥が、熱くなった。詰まった。呼吸が浅くなる。
嬉しい。嬉しい、のだと思う。目の奥が、じわりと熱くなった。飲み込んだ。ここで泣いたら、ノアが心配する。
守られるのが、嬉しい。
誰かが自分のために立ってくれることが、二回の人生を通じて、初めて。
『感情の検出。分類:——。この感情は判断を曇らせます。却下を推奨——』
却下。
感情を却下する。今は、感情に浸っている場合じゃない。ノアが私のために政治的リスクを取った。それに見合う仕事を返さなければ。
「ノア様」
「はい」
「ありがとうございます。私は、この領地を守ります」
ノアは少しだけ目を細めた。三番目の表情。穏やかでも仕事でもない、あの——。
「知っていますよ」
その一言が、静かに胸に落ちた。
使者を見送ってほどなく。執務室で、ノアと今後の方針を詰めた。
引き渡しを拒否した以上、王国は次の手を打ってくる。ガルドの性格を考えれば、エスカレートする。
「ノア様。ガルドは、外交的に負けたことを認めないタイプです」
「同感です。プライドが高い人間は、引き下がるより押し通す方を選ぶ」
「つまり、次は実力行使です」
沈黙。窓の外で、風が木の枝を揺らしている。冬の風。
「軍事攻撃の可能性を想定して、準備を始めるべきです」
「すでに考えていました。周辺の公国に、支援を要請する書簡の草案を用意してあります」
——この人は、使者が来る前から準備していた。引き渡しを断ることを、最初から決めていた。
「ノア様。いつから、断ると決めていたんですか」
ノアは少しだけ間を置いて、穏やかに答えた。
「あなたがこの領地に来た日からです」
——来た日から。
あの日、私はただの逃亡者だった。帳簿も見ていない。暗殺者も防いでいない。何の功績もない状態で、この人は「守る」と決めていた。
前世では、「成果を出せ。話はそれからだ」が全てだった。条件付きの居場所。条件を満たさなければ、切り捨てられる。ここでは——「来た日から」。条件なしの。
ずるい。
本当に、ずるい。
『心拍数上昇。原因——分類不能。保留——』
リスク管理脳が、初めて「分類不能」と言った。保留。逃げたな、お前。
——私も、逃げよう。今は。
ノアが書簡を差し出した。受け取るとき、指先がかすめた。かすめていない。触れてもいない。なのに、指先に残る感触がある。
「……書簡の草案、確認させてください」
「もちろんです」
仕事に逃げた。数字と書簡に戻った。帳簿の同じ行を三回読み直して、何が書いてあるか頭に入っていないことに気づいた。
ノアの「あなたがこの領地に来た日から」という言葉が、頭の隅に貼りついて離れなかった。
その夜。自室の窓から、ノアの執務室の方角を見た。
灯りがついていた。距離がある。でも、灯りが見えるだけで、少し安心する。
窓ガラスが冷たい。指先で触れると、結露が筋を引いた。星が出ている。息が白い。冬の夜の静けさの中で、あの灯りだけが動いている。
ガラスに、自分の顔がうっすらと映っている。泣いてはいない。でも、目が赤いかもしれない。——守る側だった。いつも。前世でも、ここでも。帳簿の数字で、暗殺者の痕跡で、この領地を守ってきた。守られる側になるのは、こんなに重いのか。重くて、温かい。
窓越しに見える影は、何通もの書簡を書いていた。周辺公国への支援要請だろう。この人は、私より先に動いている。いつも。
前世では、誰かが自分より先に動いてくれることなんてなかった。自分で気づいて、自分で提案して、自分で実行して。先回りしてくれる人なんて、いなかった。だから、慣れていない。慣れていないから、こんなに胸が詰まる。
『ノアの行動パターン分析:独断での事前準備。常にユリア様の一手先を——』
……分析しなくても、わかってる。




