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第21話:要求

 使者が来た。


 馬のひづめの音で目が覚めた。朝霧の中、国境の方角から。一頭。使者は単騎で来る。軍ではない。まだ。


 予想はしていた。経済制裁の次は外交要求。エスカレーションの教科書通り。でも、内容が予想を超えていた。


「エドガルド王国は、逃亡者ユリア・モーリスの身柄引き渡しを正式に要求する」


 使者の声が、ノアの執務室に響いた。冷たい声だった。感情を抜いた、訓練された発声。


 逃亡者。


 その一語が、胸に刺さった。


 使者は中年の男だった。王国の紋章が入った外套。皺が少ない。新しい。この役目のために仕立てたのだろう。靴の泥だけが乾いて白い。長旅の痕跡。書簡を差し出す手は丁寧だったが、目が笑っていない。声は事務的で、感情がない。書簡を読み上げているだけ。——でも、その書簡を書いたのは、ガルドだろう。あの男の「身の程を知れ」が、公文書の形を借りて飛んできた。


「引き渡しが行われない場合、王国はグレイシア領との一切の交易を停止する。また、ルーセン大公国に対し、正式な抗議を行う用意がある」


 脅し。段階的に上がっていく脅し。通行税→経済制裁→交易停止→外交抗議。


 『脅威レベル:最大。主人公の身柄が交渉材料として使用されている。推奨:冷静な分析を——』


 わかってる。冷静に。


 ノアは書簡を受け取った。表情は穏やかなまま。使者に茶を勧め、形式的なやり取りをして、丁重に退室させた。


 使者が去った後。


「……返答は後日と伝えました。検討する時間はあります」


 ノアの声は穏やかだったけれど、書簡を持つ指の関節が白い。


「ユリア様。ここから先は、ご自身に関わる話です。まず、お考えを聞かせてください」


「私の考え……」


「はい。これはあなたの人生に関わる問題です。私が勝手に決めるべきではありません」


 「どう処分するか」ではなく「どうしたいか」と聞く。リネットの時と同じだ。


 でも。


「ノア様。私は、ここにいたいです。ここで働きたいです。でも」


「でも?」


「私のために、この領地が危険にさらされるのは——」


「ユリア様」


 ノアの声が、少しだけ強くなった。穏やかさの中に、芯がある。


「その話は、後日改めて。今は、分析をお願いします。この要求の裏に、何があるか」


 仕事モード。息を、吸った。揺れかけた視界が、「分析」という単語で輪郭を取り戻す。


「……はい。まず、タイミングがおかしいです。経済制裁の効果が出る前に、引き渡し要求を出している。制裁で追い詰めてから要求するのが定石です。焦っている」


「ガルドが」


「はい。情報操作が失敗し、スパイ網も潰された。ノア様の書簡で周辺領主も動き始めている。ガルドは追い詰められています。だから、手順を飛ばしている」


 『分析を確認。攻撃者が焦って手順を飛ばすのは、防御側にとって有利な兆候。ただし——焦った攻撃者は予測不能な行動を取るリスクがある——』


 そう。追い詰められた人間は、合理的な判断をしなくなる。


 前世で見た。不正が発覚した社員が、証拠を隠そうとしてサーバーのデータを消した。消した行為自体が新たな証拠になって、余計に追い込まれた。追い詰められると、人は逃げるか、暴発するか。


 ガルドは——暴発する側だろう。


「この引き渡し要求が通らなかった場合、次は——」


「力ずくですか」


「はい」


 沈黙。ノアは窓の外を見た。


「……わかりました。備えましょう」


 短い言葉。でも、その中に「引き渡す気はない」が含まれていた。



 執務室を出た。廊下を歩く。扉が閉まった瞬間、ノアの穏やかな声が遮断された。廊下の空気が冷たい。石壁が、冬の冷気を吸い込んでいる。


 足が、震えていた。


 一人になった瞬間、堪えていたものが溢れかけた。呼吸が浅くなる。視界の端が暗くなる。前世で倒れる直前と、同じ感覚。


 ——怖い。


 ここを追い出されたら、もう行く場所がない。


 前世は死んだ。王国では逃げた。ここでも、追い出されたら。


 壁に手をついた。冷たい石の感触。指先が白い。膝が震えている。声が出ない。「どうしよう」が頭の中で空回りしている。どうしよう。どうしよう。——答えが出ない。答えの出ない問いだけが、壊れた時計みたいに回っている。


 遠くから、台所の音が聞こえた。鍋を洗う水の音。誰かの笑い声。日常が続いている。この壁の向こうで。


 前世でも、退職したとき同じことを言われた。「あいつ、逃げたんだよ」「責任感がないよね」。逃亡者。同じ言葉が、二回目の人生でも追いかけてくる。


 ここにいていいのか。


 私がいるせいで、この領地が危険にさらされている。ノアが。マルタが。フェリクスが。リネットが。


 『感情的反応を検出。冷静な分析を推奨——』


 うるさい。わかってる。


 わかっているけれど、手が止まらない。震えが止まらない。


「ユリア様」


 振り返った。


 フェリクスが立っていた。いつもの堅い姿勢。いつもの眼鏡。いつもの、表情の少ない顔。


「報告書の確認をお願いしたいのですが」


「……今?」


「はい。代替交易ルートの試算が完了しました。急ぎの案件です」


 使者が来た直後だ。引き渡し要求があった直後だ。この人は、それを知っているはずだ。知っていて、「報告書の確認」を持ってきた。


 ああ。


 この人は、いつも通りだ。


 使者が来ても。引き渡し要求があっても。「仕事がある」と言ってくる。


 それが、少しだけ。ありがたかった。


「……わかりました。見せてください」


 声が掠れた。でも、フェリクスは気にしない顔をしている。気にしないふりなのかもしれない。


 書類を受け取った。数字が並んでいる。代替ルートのコスト試算。フェリクスの字は、相変わらず几帳面だ。


 数字を読む。頭が、少しだけ動き始める。震えていた手が、書類を持つ動作で落ち着いてくる。もう一行。もう一つ。数字を追うたびに、呼吸が深くなる。


 仕事がある。やるべきことがある。


 前世では、仕事に追い詰められた。ここでは、仕事に救われている。


 同じ「仕事」なのに。環境が違うと、こうも変わるのか。


「フェリクス」


「はい」


「この試算、精度が高いですね。ありがとうございます」


 フェリクスの眉が、ほんのわずかに動いた。驚いた、のかもしれない。


「……当然のことです」


 マルタと同じ言い方だ。「当然」。この屋敷では、良い仕事をするのが「当然」で、それを評価するのも「当然」。


 足の震えが、止まっていた。


 ——でも。書類の隅に書かれた日付が目に入った。返答期限。三日後。


 三日後に、ノアが何と答えるか。


 書類を握る指に、また少しだけ力が入った。


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― 新着の感想 ―
楽なのは放り出すことなんですけどね。確か諺(ことわざ)に「窮鳥懐に…なんだっけ…まぁ守ってやるのが…」みたいなのがありました。
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