第20話:締め上げ
書簡が届いた。
王国の紋章が押された赤い封蝋。厚手の紙。丁寧な体裁だ。正式な書式で送ってきたことが、かえって不穏さを際立たせる。
ノアが封を切った。蝋が割れる乾いた音が、静かな執務室に落ちた。紙を開く音。高級な紙だ。厚みがある。こちらに「格」を見せつけるための紙。ノアが目を通す間、表情は穏やかなままだった。窓から差す朝の光が書簡の文字を照らしている。でも、読み終わったとき、目だけが、笑っていなかった。
「読みますか」
差し出された書簡を受け取った。指先に触れた紙が、冷たかった。冬の空気を吸った紙。内容も、冷たい。
——「グレイシア辺境伯殿へ。エドガルド王国は、貴領との交易条件の見直しを提案する。王国を経由する交易品に対し、新たな関税を課すことを通知する」。
提案。見直し。通知。丁寧な言葉が並んでいるけれど、意味は一つだ。
「……これ、提案じゃなくて脅しですね」
「ええ。交易条件の見直し、事実上の経済制裁です」
ノアの声は穏やかだった。でも、言葉の選び方が短い。仕事モードの中でも、最も鋭い状態。
『サプライチェーンの締め上げ。直接攻撃ではなく、取引経路に圧力をかけて標的を孤立させる手法——』
前世なら、取引先を脅して契約を切らせるやり方だ。直接殴るより、周りから兵糧を断つ。
「ノア様。この書簡、順番がおかしいです」
「と言うと?」
「通行税の引き上げが先で、経済制裁が後です。普通は逆です。まず交渉で条件を提示して、相手が応じなければ圧力をかける。交渉→圧力。でもこれは、圧力→交渉。順番が逆転しています」
ノアの目が、わずかに細くなった。
「つまり——」
「交渉する気がありません。最初から、こちらを追い込むのが目的です」
通行税で情報を絞り、経済制裁で物資を絞る。段階的に選択肢を狭めていく。
「この書簡は交渉じゃなくて、次の手を打つための時間稼ぎです」
「次の手とは」
「わかりません。でも、来ます」
沈黙。ノアが窓の外を見た。山の稜線。その向こうに、王国がある。
「ユリア様。対策を二つ提案させてください」
「はい」
「一つ目。経済制裁への対抗として、公国内の交易ルートを拡充します。王国を経由しないルートの整備。フェリクスに、代替の交易先を洗い出させます」
「……王国抜きで交易網を組む、ということですか」
「はい。依存度を下げれば、制裁の効果が薄れます」
サプライチェーンの分散化。BCP、事業継続計画の基本だ。一つの取引先に依存しない。一つのルートに頼らない。
「二つ目。周辺の領主に、この書簡の写しを送ります」
——なるほど。
王国の経済制裁は、グレイシア領だけの問題じゃない。同じルートを使う他の領地にも影響する。巻き込まれた領主たちが王国に反発すれば——
「王国を孤立させる、ですか」
「攻撃を受けているのは我々です。でも、影響を受けるのは周辺すべてです。共有すれば、一人で受ける必要はありません」
『防御戦略の評価:有効。直接対抗ではなく、環境を変えることで脅威を無力化——』
午後。フェリクスと代替交易ルートの検討を始めた。
「王国を経由しないルートは、現状で三つあります。ただし、いずれも峠越えが必要で、輸送コストが上がります」
「どのくらい」
「最も効率的なルートでも、現行比で二割増」
二割。小さくない。でも、取引を完全に止められるよりはましだ。
「フェリクス。二割増のコストを吸収するために、どこを削れますか」
「屋敷の経費を見直せば、六パーセントは捻出できます。残りは——」
「通行税の一部を免除して、商人を呼び込む。新しいルートに人を流せば、量で単価を下げられます」
フェリクスのペンが止まった。仮説を聞いて一瞬止まり、検証を始めて、速くなる。走り書きの音が、しんとした部屋に響いた。眼鏡の奥の目が、少しだけ光った。
「……その計算、合っていますね。試算します」
数字の話になると、この人は速い。私が仮説を出して、フェリクスが検証する。歯車が噛み合う感覚。仮説→検証のリズムが呼吸を合わせていく。チームで働く、ということ。指先にインクが染みていた。帳簿に没頭する時のいつもの癖。
——でも。
帳簿の数字を追いながら、胃の奥が重い。数字は嘘をつかない。でも数字だけでは防げないものがある。
経済制裁は、始まりに過ぎない。通行税→経済制裁。段階的にエスカレートしている。次は、もっと直接的な手が来る。
『攻撃のエスカレーションパターン。情報統制→経済圧力→外交要求→——』
外交要求。
もし王国が、この領地に何かを要求してきたら。
——何を。
わかっている。わかっているけれど、口にしたくない。
王国が欲しいのは、交易ルートの支配権でも、経済的譲歩でもない。
私だ。
逃げ出した「悪役令嬢」。ガルドの体面を潰した女。二つの人生で「厄介者」と呼ばれ続けた痛みが、まだ胸の底に残っている。あの男は、執念深い。手柄を横取りするくらいだから、恨みも忘れない。
『対象の推定:引き渡し要求。確率——』
計算しなくていい。
確率がどうあれ、来るものは来る。
夕方。書斎の窓を閉めた。
山の向こうから、冷たい風が吹いてくる。冬が近い。
帳簿の数字は嘘をつかない。王国の経済制裁は、すでにグレイシア領の交易に影響を及ぼし始めている。今月の交易量は先月比で五パーセント減。小さいが、方向が悪い。
ノアの対策が効くには、時間がかかる。代替ルートの整備、周辺領主への根回し。どちらも一朝一夕にはいかない。
その間に、王国は次の手を打ってくる。
『推奨:最悪のシナリオを想定し、事前に対応策を——』
最悪のシナリオ。
引き渡し要求が来て。ノアが断って。王国が力ずくで——。
拳を握った。指先が冷たい。
——守る。
ここを。この人たちを。
この場所は、私に「当然」をくれた場所だ。報告したら評価される場所。残業が禁止の場所。問題を見つけたら、ありがとうと言ってくれる場所。
失いたくない。
息を吐いた。長く、ゆっくり。窓を閉めたのに、山の向こうからの冷気がまだ残っている。肩が凝っている。背中が強張っている。でも、眠れないならこの時間を使う。
帳簿を開いた。数字は、嘘をつかない。だから、数字で守る。できることをする。眠れない夜に、できることは、これだ。
翌朝。窓を開けた。冷たい空気が顔に当たる。霜の匂い。遠くの山が白い。
その空気の中に、馬のひづめの音が混じっていた。一頭ではない。複数。
国境の方角から。




