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第19話:予兆

 ある朝、マルタが報告に来た。


 いつもの定例報告。時間通り。書類を持つ手も、いつも通り。でも、表情が違う。マルタの目が、ほんのわずかに鋭い。


「ユリア様。国境の商人から、少し気になる話を聞きました」


「何でしょう」


「王国が、国境付近の通行税を引き上げたそうです」


 通行税。——交易の根幹に関わる数字だ。


「いつからですか」


「先週からだそうです。突然の変更で、商人たちが困惑していると」


 突然の通行税引き上げ。


 『通行税の変更。通常の税制改正の可能性——』


 ……いや、待って。


 帳簿を引っ張り出した。過去半年の交易データ。王国側の通行税は、この半年間ずっと据え置きだった。ノアが以前指摘した価格統制と同じだ。政策的な意図がなければ、突然動かす理由がない。


 通行税を上げる。商人が通らなくなる。人の移動が減る。人の移動が減れば、情報の流通も減る。


「マルタさん。これ、前世で、以前学んだパターンに似ています」


「どのような」


「情報統制の前兆です。外部との情報流通を絞ってから、次の手を打つ」


 マルタの目が、細くなった。


「具体的には」


「社内で不祥事を隠すとき、まず外部への情報流出を制限します。メールの監視を強化したり、取引先への連絡を制限したり。通行税の引き上げは、それと同じ構造です」


 『脅威レベルを再評価。上方修正を推奨。根拠:情報統制→次段階の攻撃準備パターン——』


 あの穏やかな夜、「王国は、もう手を出してこないかもしれない」と思った。


 ——甘かった。


「マルタさん。国境付近の情報、もっと集められますか。通行税以外にも、変わったことがないか」


「手配します。ユリア様」


「はい」


「あなたの勘は、いつも正しいですね」


「勘じゃなくて——」


「パターン認識、でしたね」


 マルタが少しだけ口元を動かした。褒めてくれたのだ、たぶん。



 午後。ノアの執務室に報告に行った。


「王国が通行税を引き上げました。情報統制の可能性があります」


 ノアの表情が、一瞬で変わった。穏やかな顔から、仕事モード。目の温度が、二度くらい下がる。


「時期は」


「先週です。突然の変更で——」


「つまり、準備は先週以前から進んでいた」


 即座に因果を遡る。この人の判断の速さは、何度見ても驚く。


「ええ。情報操作を封じられた王国が、次の手を準備している。通行税の引き上げは、こちらの情報網を弱めるための前段階です」


「次の手は何だと思いますか」


「わかりません。でも、情報統制の次は、本格的な圧力です。外交か、経済制裁か」


 ノアは机の上の書簡を見た。数秒間の沈黙。考えている。


「フェリクスに周辺の情報収集を強化させます。マルタには国境付近の監視を。ユリア様は——」


「帳簿を精査します。通行税以外にも、数字の変化がないか。王国が何かを準備しているなら、帳簿に痕跡が残るはずです」


「お願いします」


 ノアの声が短い。仕事モードの純度が高い。この人は、危機が迫ると無駄を削る。穏やかさは消えないけれど、言葉が鋭くなる。


「ノア様」


「はい」


「先週のことですが、私、『もう安心かもしれない』と思っていました」


 言いにくいことだったけれど、言った。


「油断していました。すみません」


 ノアは少しだけ目を細めた。仕事モードの奥に、穏やかさが一瞬だけ戻る。


「油断は、あなただけではありません。私もです。だから、今気づいたことの方が大事です」


「それと」


 ノアが書簡の束を整えながら言った。


「あの穏やかな日々も、悪くなかったでしょう」


 ——ずるい。こういう時に、穏やかなことを言う。


「……悪くなかったです」


「なら、守りましょう。あの穏やかさが、また来るように」


 声が、静かだった。仕事モードとも穏やかとも違う、決意の声。あの日々がフラッシュバックする。祝杯の夜。杯に映るろうそくの光、ノアの笑い声、マルタが「もう遅いですよ」と言った声。帳簿を囲んだ午後、フェリクスの几帳面な字、窓から差す午後の光。——あの穏やかさは、もう終わったのだと身体が知る。


 『同意。守るべき対象の確認:この領地、この環境、この——』


 この人たち。


 リスク管理脳の分析に、初めて何も付け加える必要がなかった。



 夕方。書斎に戻って帳簿を広げた。


 数字を追う。交易データ、仕入記録、通行量。前月比、前年比、季節変動。


 インクが爪の間に入り込んでいる。また、だ。帳簿に没頭するといつもこうなる。でも今は、一人じゃない。フェリクスが整理したデータがあり、マルタが集めた現場の声がある。


 通行税の引き上げ以外にも、小さな変化が見える。王国からの穀物の搬入量が微減している。鉱石の価格に不自然なブレがある。単体では見逃す程度の変化だ。でも、複数重なると。


 パズルのピースが嵌まる感覚。嵌まってほしくない感覚。両方が同時に来る。


 『複合的な異常パターン。個々の変化は誤差の範囲内だが、方向性が一致。結論:王国が組織的に経済圧力の準備を進めている可能性——高』


 わかってる。


 指がインクで汚れた。爪の間にまで入り込んでいる。王国にいた頃と同じだ。帳簿に没頭すると、いつもこうなる。


 でも、あの頃とは違う。


 あの頃は、一人で数字を追っていた。見つけた不正を報告しても、手柄を横取りされた。今は、フェリクスがデータを整理してくれる。マルタが現場の情報を集めてくれる。ノアが判断を下してくれる。


 一人じゃない。


 窓の外を見た。山の稜線が夕日に赤く染まっている。以前マルタが教えてくれた地形。あの山の向こうが、王国との国境。


 嵐が来る。いつ来るかはわからない。でも、来る。


 『準備期間の推定:不明。ただし、情報統制は攻撃の直前ではなく、数週間前に行われるのが一般的——』


 数週間。


 その間に、できることを全部やる。


 帳簿に戻った。数字は嘘をつかない。


 ——ふと、指が止まった。


 昨夜、眠りかけたときにリスク管理脳が何か言いかけた。中継点の鳩が——三日間——。あの断片が、さっきの分析と重なる。


 中継点を通る情報の流れが、先週から細くなっている。通行税の引き上げと、時期が一致する。


 偶然か。


 ——偶然だと思いたい自分がいることに、気づいた。それが一番、危ない。


 ページを繰る手が速くなる。止まる。


 もう一度、ゆっくり繰る。「見たくないもの」を見ようとする意志と、「見たくない」という感情が、指先で綱引きをしている。この感覚を覚えておかなければ。ここで目を逸らしたら、それこそが、一番のリスクだ。


 指先が冷たい。紙のざらつきが、やけにはっきりわかる。呼吸が変わっている。浅くなったり深くなったり。帳簿を繰るだけで、こんなに消耗するのか。


 ページを繰る手が、また速くなった。


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