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第18話:凪

 祝杯から、一週間が過ぎた。


 最近、リスク管理脳が静かだ。


 『脅威レベル:低。特記事項:なし』


 珍しい。いつもうるさいのに。


 暗殺者を捕まえた。スパイを味方に転じた。情報操作を封じた。交易量は回復傾向。二つの商会のうち一社は、来月から取引を再開すると連絡があった。


 朝起きて、帳簿を見て、報告書をまとめて、フェリクスと数字を確認して、マルタに月次の報告をする。夕方にはノアと翌日の方針を決めて、夜は書斎で明日の準備。


 決まったリズム。回る歯車。ちゃんと機能しているチーム。


 ——平穏だ。


 こんなに穏やかな日々は、二回の人生を通じて初めてかもしれない。



 朝。窓から山が見える。雲が稜線にかかっている。秋の空気が冷たくて、窓を開けると木の葉の匂いがした。


 食堂でリネットがお茶を淹れてくれた。湯気の向こうで、リネットが小さく笑う。最近は、よく笑うようになった。不器用だけれど、確かな笑顔。


「お嬢様、今日は少し寒いですので、上着をお持ちになった方が」


「ありがとう、リネット」


 ありがとう。自然に言えるようになった。


 前世では、コンビニの店員さんにも言えなかった。頭の中に隙間がなかった。


 ここでは、ある。



 午後。帳簿の集計が早く終わったので、中庭に出た。


 花壇の花が風に揺れている。ベンチに座った。石が、服越しにひんやりと冷たい。背もたれに体を預けると、秋の風が首筋を撫でていった。花壇から甘い匂いがする。白い花と紫の小さな花が混じり合った、名前の知らない香り。


 何もしない時間。前世には存在しなかった概念だ。


 肩の力が、抜けている。いつ抜けたのか、わからない。帳簿の数字も、フェリクスの報告書も、今はどこか遠い。指先に、風の冷たさだけがある。


 『……特記事項:なし。脅威スキャン:異常なし。次回レポートは——』


 リスク管理脳が定期報告をしている。特に問題ない、と。


 ——信じていいのかな。


 前世では、「何も起きない」は嵐の前の静けさだった。SOC、セキュリティ監視室のモニターが静かな夜は、翌朝に大量のアラートが待っていた。


 でも。


 ここでは、静かな日は本当に静かな日かもしれない。そう思えるようになってきた。


 風が吹いた。花びらが一枚、膝の上に落ちた。白い花びら。きれいだ。


 こういうことに目が向くようになったのは、いつからだろう。



 夕方。いつものように執務室でノアと翌日の方針を確認していた。


 ノアの声が、途中で少しだけ間が空いた。


「——それと、ユリア様」


「はい」


「少し、個人的な話をしてもいいですか」


 個人的な話。この人がそう前置きをするのは、珍しい。仕事モードと穏やかモードの切り替えが上手い人だけれど、「個人的」と断るのは、仕事でも穏やかでもない三番目のモード。


「お聞きします」


「……父の容態が、思わしくなくて」


 声が、少しだけ低くなった。


 ノアの父。前の領主。病気療養中だと、来た頃に聞いた。ノアが若くして領主を継いだのは、そのためだ。


「医者には診せているのですが、快方に向かう気配がなくて。このまま——」


 言いかけて、止まった。


 ノアの手が机の上にある。指が、わずかに強く組まれている。いつもの穏やかな表情の奥に、何かを堪えている気配。


「私は、まだ二十三です。領主としての経験も浅い。この領地を——本当に守れるのか」


 声が、かすかに揺れた。ノアの視線が、机の上の書類に落ちた。書類を見ているのではない。視線の置き場を探している。


「父が——」


 言いかけて、口を閉じた。別の言葉を選び直すように、唇が微かに動いた。


「……時々、不安になります」


 最初に出かけた言葉は、もっと重かったはずだ。「不安になります」は、薄めた後の言葉。


 沈黙。


 窓の外で、鳥が鳴いている。遠い声。夕日が執務室の壁を橙色に染めている。


 『推奨:励ましの言葉を——「大丈夫です」「ノア様なら——」』


 ……いや、そういうのじゃない。


 この人が欲しいのは、「大丈夫」じゃない。「大丈夫」は、前世で何百回も聞いた。同僚が「大丈夫だよ」と言って、次の日にはいなくなった。


「私も、不安ですよ」


 ノアの目が、少しだけ大きくなった。


「いつも分析ばかりして、『これで合ってるかな』って考えてます。情報操作のときも、中継点の特定が間に合わなかったらどうしようって——」


 本当のことだ。帳簿の数字を追いながら、いつも頭の片隅で不安を飼っている。前世の癖だ。何かを見落としているんじゃないか。また間に合わなかったらどうしよう。


「でも、一人で抱え込むよりは、マシだと思って」


 ノアは黙って聞いていた。


「前の——以前いた場所では、不安を口にしたら『弱い』と言われました。だから黙って抱え込んで、最後は——」


 脳裏に、白い光が閃いた。会議室。窓のない四角い部屋。上司の声が蘇る。「守谷は抱え込むタイプだから」。——わかっていたなら、なぜ。


 言葉を切った。死んだ、とは言えない。


「……壊れました」


 ノアの目が、少しだけ揺れた。


「だから。不安を口にできる場所があるのは、大事だと思います。ノア様が不安を話してくれたのは、私にとっては——」


 嬉しい、とは違う。信頼されている、とも違う。もっと——。


「……ありがたいです」


 ノアの手が、机の上で少しだけ動いた。こちらに——。


 指先が、机の木目を辿るように滑った。樫の木。年輪の線が、夕日に照らされて浮いている。その指が、私の手のある方向に、少しだけ。


 止まった。指が、机の縁を掴んだ。


 息が、止まっていた。自分の呼吸。もしかしたら、ノアの呼吸も。窓の外で鳴いていた鳥の声が、いつの間にか消えている。世界が狭くなる。机の上の、二つの手の距離だけになる。


 私の手も、膝の上で動きかけた。指先が冷たい。ノアの手は、あたたかいのだろうか。


 ——止めた。


 『不要な接触は——』


 うるさい。


 でも、リスク管理脳のせいじゃない。自分で止めたのだ。


 触れたら——何かが変わる。前世で、自分から手を伸ばしたことがない。伸ばしたら、失くした時に壊れると、どこかでそう決めた。ここでも、同じ怖さが指先にある。


 沈黙が、長かった。窓から差す夕日が、橙から赤に移っている。


 ノアが先に笑った。疲れた笑顔。でも、さっきより少しだけ軽い。


「……そうですね。二人で不安を分ければ、半分になるかもしれません」


「責任分散ってやつです」


「セキュリティの用語ですか」


「……リスク管理の用語です」


 ノアが少しだけ目を細めた。穏やかとも仕事とも違う、三番目の表情。


「ありがとうございます、ユリア様。話せて——楽になりました」


「……こちらこそ」


 声が、少しだけ小さくなった。


 窓の外の夕日が沈んでいく。執務室が薄暗くなる。


 立ち上がって、一礼して、部屋を出た。


 廊下を歩く。足音が響く。心臓が、まだ少しだけ速い。


 あの人が弱音を見せてくれた。他の人には見せない顔を、私に。


 ——それが、どういう意味なのか。


 考えないようにした。今は、考えない。



 夜。書斎の窓を開けた。


 秋の夜風が冷たい。山の向こうに星が出ている。静かだ。


 あの頃が、遠い。今ここにあるのは、回っている歯車と、信頼できる人たちと、静かな夜風だけだ。


 王国は、もう手を出してこないかもしれない。


 ——なんて。


 思ってしまう自分がいる。


 前世では、そう思った翌日にインシデントが起きた。「もう大丈夫」と油断した瞬間が、一番危険だ。


 でも。


 今は、この静けさを信じたい。


 花壇の白い花びら。リネットの笑顔。フェリクスの赤くなった耳。マルタの、少しだけ柔らかい目。ノアの、三番目の表情。


 良い場所だ。良い人たちだ。


 守りたい。ここを。この人たちを。


 『脅威レベル:低。特記事項——なし』


 ——うん。今日は、それでいい。


 窓を閉めた。帳簿は明日。残業禁止だし。


 ベッドに入って、目を閉じた。枕が頬に触れる。柔らかい。布から、石鹸と少しだけ日向の匂いがする。前世のマンションの枕は、何の匂いもしなかった。


 秋の虫の声が遠くに聞こえる。穏やかな夜。


 このまま——ずっと、こうだったらいいのに。


 まぶたが重くなる。呼吸が、ゆっくりになっていく。


 眠りに落ちる直前、リスク管理脳が何か言いかけた気がした。


 『——峠の中継点で……鳩の帰還が三日間……通常と異なる……別の——』


 でも、もう聞こえなかった。


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