第17話:祝杯
二週間が経って、結果が見え始めた。
ノアの書簡が効いた。周辺領主たちからの返答は、おおむね好意的だった。「グレイシア領の管理体制は信頼に足る」「噂の出所が王国であることは周知の事実」。ノアが日頃から築いてきた信用の蓄積だ。
フェリクスがまとめた報告書を読む。交易量は回復傾向。先週比で七パーセント増。隊商の数も戻りつつある。
ただし、二つの商会はまだ戻っていない。
「あの二社については、もう少し時間が必要です」
フェリクスが淡々と言った。「時間が必要」は、この人なりの「待ちましょう」だ。
「一社は、噂が完全に消えるまで様子を見ると。もう一社は、次の四半期の取引再開を検討中とのことです」
八割の回復。完璧じゃない。でも、壊滅的でもない。
前世なら、上司に「まだ二社戻ってないのか」と詰められる場面だ。ここでは、違う。
「十分です。八割も回復すれば、大きい」
ノアの声は穏やかだった。
「残りは時間が解決してくれるでしょう。それよりも、今日は皆にお礼を言いたいのです」
夕方。執務室に、四人が集まった。
ノア、マルタ、フェリクス、私。テーブルの上に、酒が一本と杯が四つ。窓の外はもう暗い。ろうそくの光が、四人の顔を柔らかく照らしている。いつもの執務室なのに、書類が片付けられて酒が置かれているだけで、空気が違う。
「ささやかですが」
ノアが酒瓶を手に取った。こはく色の液体が、ろうそくの光を吸い込んで金色に光っている。栓を抜くと、小さく乾いた音がして、蜂蜜と果実の混じった甘い香りが立ちのぼった。杯に注がれる酒が、とくとくと柔らかい音を立てる。液体が揺れるたび、ろうそくの炎が杯の底で踊った。
「皆さんの仕事に感謝して。情報操作を二週間で封じたのは、この領地始まって以来の快挙です」
「領地始まって以来かどうかは、記録が不十分なので断言できません」
フェリクスが真顔で言った。この人、祝杯の場でも正確さを求めるのか。
マルタの口元が、ほんのわずかに動いた。笑った——のかもしれない。
ノアが杯に酒を注いでいく。マルタ、フェリクス、そして——私。
「どうぞ」
杯を差し出された。ノアの指が杯の胴を持っている。受け取ろうとして、指がノアの指に触れそうになった。
引いた。
反射的に。考えるより先に手が動いた。前世では、飲み会で杯を交わしたことはあった。でも、それは義務だった。こんなふうに、四人だけの部屋で、ろうそくの光の中で。こういう「祝杯」は、一度もなかった。
杯を受け取る。こぼさなかった。指は触れなかった。大丈夫。心臓が一拍だけ跳ねたのは、杯をこぼしそうになったからだ。
指先が冷たい。さっきまで温かかったのに。
『接触回避を検出。理由:——不明。反射速度から判断して、無意識の——』
不明でいい。
「ユリア様?」
「あ——ありがとうございます」
声が裏返りそうになった。堪えた。ノアは気にしていない顔をしている。本当に気にしていないのか、気にしないふりをしているのか、わからない。
「では」
ノアが杯を掲げた。
「グレイシア領の平穏に」
四つの杯が、小さく音を立てた。
酒は甘かった。蜂蜜酒だろうか。喉を通る温かさが、胸の奥まで届く。
「マルタの情報網がなければ、噂の広がりを把握できませんでした」
ノアが一人ずつ、名前を挙げていく。
「フェリクスの時系列整理がなければ、拡散パターンは見えなかった」
フェリクスが眼鏡の位置を直した。少しだけ、耳が赤い。
「そしてユリア様の分析がなければ——出所の特定は不可能でした」
私の名前が最後だった。最後に呼ばれるのは、前世では「お前もいたんだっけ」の意味だった。ここでは——違う。
「……ありがとうございます」
小さな声になった。杯の縁を指で撫でる。温かい。酒のせいだ。酒のせいにしておく。
祝杯が終わって、片付けが始まった。
マルタが杯を集めている。ノアとフェリクスは何か書類の話をしている。声のトーンが仕事モードに戻りかけて。でも、さっきより柔らかい。酒のせいか。
私は窓辺で、残った酒を少しだけ飲んでいた。杯の中で、こはく色の液体がろうそくの光を受けてゆらゆら揺れている。
「ユリア様」
マルタが横に来た。
「はい」
「最近、表情が変わりましたね」
「……そうですか?」
「ええ。この屋敷に来たばかりの頃は、もっと——硬かった。今は、よく笑っていらっしゃいます」
笑っている。私が?
「特に——」
マルタが一瞬だけ、ノアの方を見た。
「ノア様の前だと」
「えっ」
声が出た。自分で驚いた。
沈黙。頭が、空白になった。マルタの目が、こちらを見ている。穏やかな目。すべてを知っている目。
——何、今の「えっ」。何に動揺したんだ私。
リスク管理脳が何か言いかけた気がした。『心拍数の変動パターンが——』。聞きたくない。マルタの目の前では分析結果を聞く勇気がない。
「マルタさん、片付け手伝います」
話題を切り替えた。この人の前で考え込んだら、全部見透かされる。
マルタは何も言わなかった。ただ杯を渡してきた。その目が、少しだけ柔らかかった。
この人は、気づいている。何に気づいているのかは、私がわかっていないのだから、聞けるはずもない。
片付けの途中で、フェリクスが執務室に入ってきた。
「ユリア様。中継点の監視ですが——三日前から、鳩が来ていません」
手が止まった。
「三日間?」
「はい。それまでは二日に一羽の頻度で飛来していました。急に途絶えるのは——」
「不自然、ですね」
フェリクスが頷いた。
鳩が来ないということは、二つの可能性がある。一つ、王国側が中継点を放棄した。二つ、別の伝達手段に切り替えた。
どちらにしても、何かが動いている。
「引き続き監視をお願いします。もし鳩以外の——人の出入りがあれば、すぐに報告を」
「承知しました」
フェリクスが去って、また静かになった。
——祝杯の夜に、こういう報告が来る。前世なら「あるある」だ。打ち上げの最中にインシデント通知が鳴るのと同じ。
夜。書斎に戻った。
帳簿を開く。交易データの続き。二つの商会が戻っていない。八割の回復。残り二割。
数字を見つめながら、別のことを考えていた。
マルタの言葉。「ノア様の前だと」。
——なんで動揺したんだろう。
ノアは穏やかで、有能で、仕事がしやすい人だ。私の分析を信じてくれて、判断を任せてくれて。この領地で一番、一緒にいて——。
一緒にいて、何だ。
『分析の続行を推奨——』
しない。今日はもう、寝る。残業禁止だし。
帳簿を閉じた。窓の外に月が出ている。
八割の回復。完璧じゃないけれど、前に進んでいる。
——でも。鳩が三日、来ていない。
何かが変わり始めているのか。それとも、ただの杞憂か。
……明日、確認しよう。今日はもう、寝る。




