第16話:出所
噂の出所をたどる作業は、前世のログ分析に似ていた。
書斎の窓から午後の光が差している。インクと紙の匂い。椅子に座り続けて、腰が固まりかけている。前世のオフィスと同じだ。姿勢も、目の疲れも、肩の凝りも。違うのは、隣にフェリクスがいること。前世では、分析作業はいつも一人だった。モニターの青白い光だけが相棒だった。
フェリクスが集めた商人のリストをテーブルに広げる。十二人。「グレイシア領が逃亡犯を匿っている」という噂を聞いた、と証言した商人の名前、場所、日時。
前世なら、ファイアウォールのログからIPアドレスをたどる作業だ。この世界では、人の口と街道が通信経路になる。
「フェリクス。この十二人を、噂を聞いた日付順に並べてください」
「すでに時系列で整理してあります」
——本当にこの人は。
並べ替えた紙を見る。最古の日付は、十八日前。場所は南部街道沿いの宿場町。そこから五日間で、四つの宿場に広がっている。
『拡散パターンの分析。起点:南部宿場。拡散速度:一日あたり1.5拠点。これは自然な口伝えの速度と一致——いいえ。速すぎます』
そう。速すぎる。
自然に広がった噂なら、方向がばらつく。でも、この十二件はすべて交易ルート上にある。噂が「効率的に」広がっている。誰かが意図的に交易ルートを選んで噂を流している。
「フェリクス。この十二人のうち、宿場で直接噂を聞いたのは何人ですか」
「七人です。残り五人は、別の商人から間接的に聞いています」
「七人の聞いた場所を地図に落としてください」
フェリクスがペンを取る。領地の地図に点を打っていく。
七つの点。すべて、南部街道沿い。一直線だ。
「見えますか、フェリクス」
「……直線状に分布しています。街道を移動しながら、各宿場で噂を流した人間がいる」
「そうです。一人か二人。南から北へ、街道を移動しながら同じ話を繰り返した」
前世で見た手口だ。標的型フィッシングメール。一斉送信ではなく、一通ずつ、ターゲットに合わせた文面で送る。効率は悪いが、検出されにくい。
——でも、物理的に移動した人間は、足跡を残す。
翌日。フェリクスと一緒に、宿場町への聞き取りを手配した。
マルタが使用人を二人つけてくれた。「聞き取りの手順は教えてあります」とだけ言って。この人の準備の良さには、もう驚かない。
三日後、結果が戻ってきた。
七つの宿場のうち、五つで「見慣れない旅商人」の目撃証言があった。南部訛り。中背。目立たない服装。宿の主人が「妙に無臭だった」と首を傾げていた。特徴がなさすぎる。自分の痕跡を消す訓練を受けた人間、かもしれない。
でも、一つだけ手がかりがあった。
「リネット」
書斎に呼んだ。リネットはまだ少し緊張した顔をしているけれど、目を逸らさなくなった。エプロンの裾を、指先で摘んでいる。過去の話をされると察したのだろう。
「あなたが王国にいた頃、情報を伝達する手段はどういうものでした?」
リネットの唇が、一度きつく結ばれた。それから、小さく息を吸って——。
「……伝書鳩です。国境付近に中継点があって、そこに手紙を預ける仕組みでした」
声が平坦だった。感情を排して話そうとしている。事実だけを、正確に。それが、この人なりの覚悟の示し方なのだろう。
「中継点の場所はわかる?」
「はい。南部街道の——三番目の宿場町の、外れにある小屋です」
三番目の宿場町。七つの点の中心に位置する。
地図の上の七つの点を見つめた。散らばっていた断片が一本の線になる瞬間。前世なら、散在するログの断片から攻撃経路を逆探知した時の感覚に似ている。背筋が冷たくなると同時に、口の端が、わずかに上がっていた。それに気づいて、指先で唇を押さえた。
リネットの情報がなければ、ここにはたどり着けなかった。あの日、リネットを捕まえて突き出す代わりに助けたことが、こういう形で返ってくる。
『情報源の価値が実証されました。味方転換の投資対効果——』
投資対効果じゃない。ただ、助けたかっただけだ。
中継点の情報をノアに報告した。
「南部街道の三番目の宿場町。ここが王国の情報伝達拠点です」
「潰しますか」
ノアの声は穏やかだったけれど、目は仕事モードだった。
「いいえ。泳がせた方がいい」
「と言うと?」
「中継点を潰しても、別の場所に移るだけです。監視して、誰が使っているかを把握する方が、長期的には——」
言いかけて、止まった。
前世の癖だ。泳がせて、監視して、証拠を固めて。でも、今はそれより先にやるべきことがある。
「……いえ。まず噂を止めることが先です。中継点の監視は並行で進めましょう」
ノアが頷いた。
「噂の無力化は、私の書簡が効き始めています。周辺領主からは前向きな返答が来ました。ただ——」
「ただ?」
「二つの商会が、交易を一時停止すると通知してきました」
胸の奥が、きゅっと締まった。
「理由は?」
「『王国との関係が不透明な領地との取引は、リスクがある』と。噂が嘘だとわかっても、巻き込まれたくないのでしょう」
——知ってる。前世のインシデント——セキュリティ事故の報告後と同じだ。
あの日のことを思い出す。取引先から「契約の見直し」というメールが届いた朝。件名を見ただけで胃の底が冷えた。対策を講じても、報告書を出しても、「一度問題が起きた会社」というレッテルは剥がれなかった。ここでも、同じことが起きている。
「……完全には防げなかった」
声が小さくなった。
「ユリア様」
ノアの声が、仕事モードから少しだけ柔らかくなった。
「完璧な防御はありません。噂の出所を特定し、拡散を止めた。それだけで十分です」
「でも、二つの商会が——」
「時間をかけて取り戻しましょう。真実は、いずれ伝わります。あなたの分析がなければ、もっと多くの商会を失っていました」
時間をかけて取り戻す。
前世では、その「時間」が与えられなかった。「早く解決しろ」「いつ終わるんだ」。ここでは、「時間をかけましょう」と言ってもらえる。
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方です。出所の特定がこの速さでできたのは、ユリア様のおかげです」
ノアが微笑んだ。
頬が、かすかに熱い。また。
『心拍数上昇。前回と同じパターン。風邪の可能性:棄却。再分析——対象人物への好意の可能性が——』
そこまで。慌てて思考を切った。今のは聞かなかったことにする。リスク管理脳が勝手に出した結論だ。私の結論じゃない。
「フェリクスに、中継点の監視体制を組んでもらいます。リネットから追加情報も聞き出せるかもしれません」
「お任せします。それと——」
ノアが少し間を置いた。
「リネットを助けたのは、正しい判断でした」
リネットの情報がなければ、中継点は見つからなかった。あの子を許した日の選択が、今ここで意味を持っている。
「助けたのは、判断じゃなくて——おせっかいです」
ノアが少しだけ笑った。穏やかな笑顔。
「おせっかいも、この領地では立派な才能です」
また、心臓が跳ねた。今度は胸だけじゃない。指先まで、熱が走った。
三回目。さすがに風邪ではない。一回目は頬。二回目は心拍。三回目は、指先。だんだん広がっている。
前世で心臓が速くなるのは、インシデント対応の時だけだった。アラートが鳴り、ログを追い、原因を特定するまでの緊張。あれは冷たかった。体の芯が凍るような速さだった。今のは、違う。温かい。溶けるような速さ。
でも、今は。認めるわけにはいかない。何を認めるのかも、まだわからないのだから。




