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第15話:風説

 ヘンリクの件は、ノアがきちんと話をした。配置転換ではなく、業務の見直しで落ち着いたらしい。マルタの報告書に「改善傾向」の三文字が増えた。やると決めたら速い人だ。


 次の異変に気づいたのは、帳簿だった。


 いつものように交易データを追っていると、数字の流れがおかしい。東回廊を通過する隊商の数が、先月比で一割減っている。


 一割。季節変動を考慮しても、説明がつかない減少幅。


 『交易量の減少を検出。原因分析——季節要因:低。天候要因:低。人為的要因の可能性——』


 ……人為的。


「フェリクス、東回廊の隊商が減っている理由、何か聞いていますか」


「実は、今朝から気になっていることがあります」


 フェリクスが書類の束を差し出した。この人は、聞かれる前に準備している。


「国境付近の商人から入った情報です。グレイシア領に関する——噂が広まっているようです」


「噂?」


「グレイシア領はエドガルド王国の逃亡犯を匿っている。取引すると王国から目をつけられる、と」


 胃の底が、冷えた。


 逃亡犯。——私のことだ。


 『情報操作を検出。フェイクニュースの拡散パターンに合致。噂の内容は事実を含むが、文脈を歪めている——』


 わかってる。事実を織り交ぜた嘘が、一番厄介だ。前世でBEC、ビジネスメール詐欺の対応をしたとき、同じ構造を見た。本物の取引先の名前を使って、偽の請求書を送る。本物が混じっているから、嘘を見抜きにくい。


 私がモーリス家を出た。事実だ。ノアが私を保護している。事実だ。


 でも「逃亡犯」は嘘だ。王国内の法で裁かれた記録はない。ガルドが後から作ったのかもしれないが。


 胃の奥で、何かが固まった。怒りではない。もっと冷たい感覚。前世でも同じだった。SNSに自分の部署の悪評が拡散された時。事実を歪めた情報が、知らない人の口を通じて広がっていく。訂正しても追いつかない。噂は事実より速い。あの無力感を、知っている。


 書簡を受け取った。フェリクスの几帳面な字で整理された商人の証言。紙の端がわずかに折れている。急いでまとめたのだろう。インクがまだ乾ききっていない箇所がある。


「出所は特定できていますか」


「いいえ。複数の商人が『聞いた』と言うだけで、最初に言い出した人物が——」


「存在しない」


 フェリクスの眉が上がった。


「……そう予想されますか」


「情報操作の基本です。出所がわからないように、複数の経路から同じ噂を流す。一次ソース——最初の情報元を特定させない」


 前世なら、ログを追ってIPアドレスをたどれた。この世界では、人の口伝えだ。たどるのは難しい。でも、不可能じゃない。


「フェリクス。噂を聞いた商人のリストを作れますか。いつ、誰から聞いたか」


「すでに手をつけています」


 ——この人、本当に仕事が速い。



 ノアの執務室に報告に行くと、茶の香りが廊下まで漂っていた。客がいるのだ。扉の隙間から、湯気の匂いと低い話し声がかすかに漏れている。


 国境付近の交易商人。旅で日焼けした肌に、泥の乾いた外套。ノアがテーブルの向かいに座って、穏やかに話をしている。


「……なるほど。それで、その噂はどちらで?」


「はあ、南の街道沿いの宿場で。帰りの隊商が話していまして」


「いつ頃ですか」


「十日ほど前かと。それ以来、行商が減って……」


 ノアは頷きながら、商人の話を引き出していく。穏やかな笑顔。相槌の間隔が絶妙で、商人は自分が尋問されていることに気づいていない。


 『ソーシャルエンジニアリングの手法に類似。対象の心理的防壁を穏やかなコミュニケーションで無力化し、情報を引き出す技術——ただし、悪意なし』


 セキュリティ担当としては複雑な気持ちになる。この技術、前世なら攻撃手法だ。でもノアは防御のために使っている。


 会話が終わる頃には、噂の広がり方がおおよそ掴めていた。南の街道→国境の宿場→交易ルートの複数拠点。十日間で、かなり広い範囲に浸透している。組織的だ。


 商人が帰った後、ノアがこちらを見た。仕事モードの目。


「ユリア様。聞いていましたか」


「はい。——組織的な情報操作です」


「同感です。これは王国の仕業でしょう」


 迷いのない声。この人は、穏やかなのに判断が速い。


「対策を考えていますか」


「二つあります。一つは、噂の出所をたどること。もう一つは——先に真実を公開して、噂を無力化すること」


 ノアは少し考えて頷いた。


「出所の追跡はユリア様にお願いします。情報の分析はあなたが一番速い」


「はい」


「真実の公開は、私が動きます。周辺の領主や商人組合に、直接書簡を送ります。噂が広がる前に、こちらの立場を説明しておく」


 ——先手。ノアは守るだけじゃない。先手を打つ。


「それと、一つ気になっていることがあります」


 ノアがテーブルの書類を広げた。交易記録。あれは、この数ヶ月間の取引データだ。


「王国の商人たちの取引パターンを見ていたのですが、ここ三ヶ月で王国発の商材の価格が安定しすぎています」


 帳簿を覗き込んだ。確かに。穀物、繊維、鉱石。すべての品目で値動きが小さすぎる。市場原理で動いているなら、もっとばらつくはずだ。


「価格統制をしている可能性が?」


「ええ。需給に関係なく価格を固定している。つまり——」


「財政的に無理をしている」


 ノアの目が少しだけ細くなった。この人、数字で見抜いた。


「王国の財政は、かなり厳しい状態だと推測できます。軍事費を維持するために、商材価格を人為的に低く抑えている。長くは持ちません」


 『戦略的情報の取得。敵の弱点:財政難。活用可能性:高——』


 この人、笑顔で商人から情報を引き出しながら、同時にデータを集めていた。何ヶ月も前から。


「ノア様。この数字、いつから追っていたんですか」


「ユリア様が交易データの分析を始めてくださった頃からです。あなたの分析が正確なので、安心して数字を集められました」


 ——分業。私が分析の精度を上げて、ノアがその精度を前提に戦略的な情報収集をしていた。


 知らないうちに、歯車が噛み合っていた。


「助かりました」


 ノアが微笑んだ。仕事モードから少しだけ崩れた、穏やかな笑顔。


 心臓が、一拍だけ跳ねた。


 ——歯車が噛み合うのが嬉しい。それだけだ。仕事がうまく回っている実感。前世では、チームで歯車が噛み合う感覚を得る前に、一人で潰れた。ここでは、噛み合っている。それが、胸の奥を温かくする。


 『心拍数の上昇を検出。原因分析——室温上昇? いえ、外気温は正常。風邪の初期症状の可能性を検討——』


 風邪じゃない。たぶん。でも今は分析している場合じゃない。


「……ノア様。噂の出所、必ずたどります」


「お任せします」


 執務室を出た。廊下の窓から、夕日が差し込んでいる。石壁が橙色に染まっている。空気がまだ温かい。執務室の空気が、まだ肌に残っている。


 心臓がまだ少し速い。気のせいだ。仕事の緊張だ。


 『推奨:体調管理の見直し——』


 うるさい。


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