第14話:やさしさの影
問題は、ヘンリクだった。
厨房の副料理長。五十代の男で、領地の古株だ。腕は確かだけれど、最近、食材の管理が雑になっている。
マルタの報告書にあった。「厨房の在庫記録に誤差が発生。原因はヘンリクの記録ミス。注意済みだが改善なし」。
帳簿を見れば一目瞭然だった。肉の在庫数と実際の消費量が合わない。月に二回、三回。小さなズレだけれど、積み重なれば大きくなる。
帳簿の文字に目が留まった。ヘンリクの筆跡だ。以前の帳簿と見比べると、筆圧が弱い。文字の大きさも不揃いになっている。
しかもこの人、マルタに注意されたあとも直っていない。二週連続で同じミス。報告書に「改善なし」と二度書かれるのは、マルタの忍耐が限界に近いということだ。
『在庫管理の逸脱。単純ミスか、意図的か。判別には追加データが——』
意図的じゃない。帳簿を見ればわかる。ミスのパターンがランダムだ。悪意のある人間は、もっと規則的にごまかす。これは単純に、だらけている。
問題は、そこじゃない。
問題は、ノアがこの件を放置していることだ。
午後。執務室に入ると、窓からの日差しが書類の山に白い帯を作っていた。フェリクスがいた。
「ユリア様、少しお時間よろしいですか」
「何でしょう」
「ヘンリクの件です。領主様に報告したのですが——」
フェリクスが眼鏡の位置を直した。この人がこの仕草をするときは、言いにくいことがある。
「領主様は、『もう少し様子を見ましょう』とおっしゃいました」
「……もう少し」
「はい。先週もそうおっしゃいました」
フェリクスの声は平坦だった。感情を挟まない。でも、「先週もそう」という事実の提示に、明確な不満が含まれている。
「マルタも限界です。厨房の他の使用人にも影響が出始めています。ヘンリクの記録ミスを他の人間がカバーしている状態です」
——わかる。カバーする側の負担。前世で嫌というほど経験した。仕事をしない人の分を、周りが無言で埋める。その「無言」が積もって、組織が壊れる。
「フェリクスは、どうすべきだと思いますか」
「厳重注意です。改善がなければ、配置転換も視野に入れるべきです」
即答だった。この人は、答えを持っている。でも、その答えを実行する権限はノアにしかない。
「領主様が動かない理由、心当たりは?」
フェリクスは少し間を置いた。
「……ヘンリクは、先代の頃からこの屋敷にいます。領主様のお父上に仕えていた古参です」
ああ。
そういうことか。
夕方。ノアに会いに行った。
執務室の扉を叩く。
「ノア様。ヘンリクの件で、お話があります」
ノアの表情が、わずかに硬くなった。一瞬だけ。すぐに穏やかな顔に戻る。
「お聞きします」
「帳簿の在庫記録に、二ヶ月連続で誤差があります。マルタが注意しましたが、改善されていません」
「……はい。報告は受けています」
「フェリクスからも進言があったと聞いています」
「はい」
ノアの声が、少し低くなった。仕事モードではない。穏やかでもない。困っている。
「ヘンリクは、父の代からこの屋敷を支えてくれた人です。腕も確かです。ただ——」
「ただ?」
「最近、少し疲れているのかもしれません。年齢的なものもあるでしょう。もう少し様子を——」
胸の奥で、何かが弾けた。呼吸が止まって、声が考えるより先に出ていた。
「ノア様」
遮った。
自分でも驚いた。この人の話を遮ったのは、初めてだ。手が、拳を握っていた。
「もう少し様子を見ている間に、他の使用人が潰れます」
ノアの目が、少し揺れた。
「ヘンリクを庇いたい気持ちは、わかります。長い付き合いの人に厳しいことを言うのは辛い。でも——」
言葉を選んだ。この人を傷つけたいわけじゃない。でも、言わなきゃいけない。
「庇うことと、放置することは、違います」
沈黙。遠くで、厨房の扉が閉まる音がした。誰かの足音。日常が続いている。この部屋の外では。
ノアの目が、窓の外を見た。山の稜線が夕日に赤く染まっている。
「……わかっていました」
声が、小さかった。
「わかっていて、先延ばしにしていた。あなたの言う通りです」
ノアの手が、机の上で組まれていた。指先に力が入っている。
「以前、一度——判断を誤ったことがあります」
声のトーンが変わった。穏やかでも仕事でもない。過去を見ている目。
「領主になったばかりの頃、使用人の配置を見直しました。効率を優先して、何人かを別の持ち場に移した。その中の一人が——移った先の仕事が合わなくて、結局、領地を去ることになりました」
「……」
「あの時、もう少し話を聞いていれば。もう少し、その人のことを考えていれば——」
ノアの声が途切れた。目が、窓の向こうではなく、もっと遠いところを見ている。
「最後に、一言だけ言われました。『お世話になりました』と。怒りもせず、責めもせず——ただ、頭を下げて、出て行った」
ノアの手が、わずかに震えた。怒られた方が、まだ楽だったのだろう。穏やかに去られることが、一番重い。
——ああ。この人は、あの時のことをまだ抱えているのか。
「穏やかに去られることが、一番重い」。わかる。前世でも、そうだった。退職する同僚が、最後の日にデスクの引き出しを空にしていた。段ボール箱ひとつ分の荷物。「お世話になりました」。穏やかな声だった。怒りもない。恨みもない。ただ、諦めていた。その背中を見送ることしかできなかった自分の手が、何も持っていなかった。
効率を優先して、人を失った。その経験が、今のノアの「優しさ」を作っている。もう人を失いたくないから、厳しいことが言えない。
『トラウマに基づく回避行動。合理性の低下——』
黙って。今は分析じゃない。
「ノア様」
「はい」
「その判断は——間違いだったかもしれません。でも、今の判断も間違いです」
ノアの目が、こちらに戻った。
「過去の失敗を繰り返さないために、今の失敗を繰り返すのは——本末転倒です」
きつい言い方だったかもしれない。でも、この人に必要なのは、慰めじゃない。
ノアは、しばらく黙っていた。指を組んだまま。窓の外の夕日が、ゆっくりと山の向こうに沈んでいく。部屋が少し暗くなった。ろうそくを灯すべきか、いや、今はいい。この薄暗さの方が、話しやすい。
「……ありがとうございます、ユリア様」
「え」
「厳しいことを言ってくれる人が、必要でした」
その声は、穏やかだった。仕事モードでもなく、困っている声でもなく。素の、ノアの声。
「ヘンリクには、明日、私から話します。必要なら配置転換の検討も、フェリクスに依頼します」
「……はい」
「それと」
ノアが少しだけ笑った。疲れた笑顔だったけれど、目に光が戻っている。
「今後も、遠慮なくおっしゃってください。私は——自分では気づけないことが、多いので」
遠慮なく。
前世では、上司に遠慮なく意見を言ったら、飛ばされた。
王国では、ガルドに意見を言ったら、「悪役令嬢ごとき」と笑われた。
ここでは、「遠慮なくおっしゃってください」。
「わかりました。遠慮なく、言います」
「……少しだけ、手加減してくださると助かります」
「善処します」
「善処ではなく確約を」
——マルタと同じこと言うな、この人。
書斎に戻る廊下。窓から見える空は、夕日の赤が消えて、藍色に変わり始めていた。石壁がまだ昼の温もりを微かに残している。指先で触れると、ぬるい。夜になれば冷える。でも今は、まだ温かい。
ノアは完璧じゃない。
穏やかで、有能で、判断が速くて。でも、優しすぎる。過去の傷に引きずられて、厳しい判断を先送りにする。
前世の上司たちは、逆だった。厳しすぎて、人を壊した。
ノアは優しすぎて、組織を壊しかける。
どちらも、一人では、うまくいかない。
『相互補完の関係性。分析担当としての評価:極めて合理的な——』
合理的。ね。
たぶん、合理的とかじゃなくて。
あの人が一人で抱え込んでいるのを見て、放っておけなかっただけだ。前世では、そのおせっかいのたびに「余計なお世話」と返された。意見すれば「立場をわきまえろ」。提案すれば「頼んでない」。それでもやめられなかった。やめられない自分が、ずっと嫌いだった。
——またか。おせっかい。
でも。
あの人の「遠慮なくおっしゃってください」が、まだ耳に残っている。
厳しいことを言って、感謝される。嫌われ役をやって、ありがとうと言われる。
——この環境が、異世界で一番信じられないことかもしれない。
書斎に戻った。机の上に、フェリクスが昨日置いていった報告書がある。周辺領地からの続報。まだ目を通していなかった。
開いた。
——補給物資の動きが、止まっていない。
今日わかったことがある。あの人の温かさは、盾にもなるが、隙にもなる。
その弱点を、外から突かれたとき。私は、また厳しいことを言えるだろうか。言わなければならない。あの人が見えない場所を、私が見る。あの人が甘くなる場所を、私が締める。それが、ここにいる意味だ。
窓の外の藍色が、夜の黒に変わり始めていた。




