第13話:朝日
朝日が窓から差し込んだ。
目が覚めて、天井を見た。白いしっくい。木目のはり。見慣れた部屋。
——あれ。朝が、怖くない。
前世では毎朝、胃が痛かった。目覚ましの音で心拍が上がって、布団の中で今日のインシデント対応を想像して、胃液が込み上げた。
王国でも、朝は憂鬱だった。起きた瞬間に「今日は何を叱られるだろう」と身構えていた。
今日は、胃が痛くない。心臓が暴れていない。布団が温かい。体が、布団の中に沈んでいる。この重みが心地いい。窓の外から鳥の声がして、山の稜線に光が当たっている。
起き上がった。足が軽い。
廊下が、静かだ。モーリス家では、夜明け前から使用人の早足の音がしていた。私の部屋の前を通り過ぎる、あの忙しない気配がない。ここでは、朝が、ただの朝だ。
『本日の予定:交易データの分析、午後にマルタへ月次報告。特記事項——リネットの件、経過観察を継続』
……予定を聞いても、嫌じゃない。
なんだろう、この感覚。
着替えながら、窓の外を見た。朝日が山の斜面を這い上がっていく。きれいだ。——こんなふうに立ち止まれるのは、いつぶりだろう。
食堂に行くと、パンの焼ける匂いがした。マルタが窓際に立っていた。
「おはようございます、ユリア様。早いですね」
「おはようございます。帳簿の集計を朝のうちに済ませようと思って」
「朝食を摂ってからにしてください」
「……はい」
相変わらず、この人の前では反論できない。
食事をしながら、リネットが配膳を手伝っているのが見えた。お茶を注ぐ手が安定している。以前は、持ち手が微かに震えていた。まだ少し表情が硬いけれど、昨日までの恐怖の色は薄れている。目が合った。リネットが小さく会釈した。普通の挨拶だ。胸の奥が、じわりと温んだ。
書斎に入ると、インクと羊皮紙の乾いた匂いがした。帳簿を広げた。先月の交易記録。数字が並んでいる。
いつもの作業。でも、今日は少し、数字の並びが違って見える。
公国本府からの交付金が入って以来、グレイシア領の交易量は上がっている。山岳地帯を通過する隊商の数が増えて、通行税の収入も安定してきた。帳簿の数字が、きちんと右肩上がりの曲線を描いている。
——この曲線、私が作った。
いや。私だけじゃない。ノアの方針があって、フェリクスの書式整備があって、マルタの現場管理があって。でも、この交易データの分析と提案を出したのは、私だ。
提案が通って、実行されて、結果が出ている。帳簿の数字に、私の仕事が映っている。
前世では、インシデント対応の成果は「何も起きなかったこと」だった。何も起きないのが当たり前。何か起きたら私のせい。成果が見えない仕事。
ここでは、数字が見える。
『交易量の増加率:前月比12%。季節変動を考慮しても有意な増加。評価——』
うん。知ってる。
仕事が、楽しい。
——生まれて初めて。二回の人生を合わせて初めて、そう思った。
午後。ノアの執務室で、月次の交易データを報告していた。
テーブルに資料を広げて、隣り合って座る。数字の推移を指で追いながら説明する。
「この区間の通行量が特に伸びています。峠道の整備が効いたんだと思います」
「なるほど。東側の隊商ルートは」
ノアが資料に身を乗り出した。指が、私の指のすぐ隣に来る。
——近い。
肩が触れそうな距離。ノアの髪が視界の端に映る。石鹸の匂い。声が、近い。すぐ隣で話しているのだから当たり前なのに、声の振動が肩に触れるような距離が、不意にはっきりした。資料をめくるノアの指が、私の指のすぐ傍を通り過ぎた。指先に、かすかに空気が動いた。
手が、一瞬止まった。
『……近接アラート? いや、脅威ではない。味方の接近。問題なし』
リスク管理脳が何か検知して、すぐ沈黙した。
——何だったんだろう、今の。
「ユリア様、この数字なんですが」
ノアがこちらを見た。目が合う。近い。
——目。茶色じゃなくて、こはく色だ。光の加減で、金に近い色が混じっている。
こんなに近くで見たことがなかった。いつも書類越しか、テーブルの向こう側にいたから。
『……不要な情報です。業務に戻ってください』
「……何でもありません。東側のルートですが——」
声が少し上ずった。気づかれていないといいけど。
ノアは穏やかに頷いて、また資料に視線を落とした。気にしていない。よかった。
何がよかったのかは、わからないけど。
報告が終わって、廊下でマルタとすれ違った。
「月次の報告、完了しました」
「領主様は何とおっしゃいましたか」
「方針通りで問題ないと。東側ルートの拡張は次の四半期で検討すると」
マルタが小さく頷いた。
「ユリア様。一つ、お伝えしたいことがあります」
「はい」
「あなたの仕事ぶりは、屋敷中が認めています。帳簿の精度が上がったこと、報告書の質が変わったこと。使用人たちも、気づいています」
足が止まった。
「マルタさんは、褒めてくださるんですか」
「事実を述べています」
事務的な声。でも、マルタの目が少しだけ細くなった。この人なりの、笑顔だと思う。
「良い仕事です、ユリア様」
良い仕事。
初めて聞く言葉じゃない。ノアに言われた。フェリクスにも言われた。
でも、マルタの「良い仕事です」は、重さが違う。この人は、仕事の質に妥協しない人だ。その人が「良い」と言った。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ詰まった。目が熱くない。泣きそうじゃない。ただ、胸の奥がじんわりと温かい。
前世では「やって当たり前」だった。王国では「悪役令嬢のくせに」だった。
ここでは、認めてもらえる。
マルタが歩き出しかけて、立ち止まった。
「——それと、ユリア様」
「はい?」
マルタの口が開いて——閉じた。珍しい。
「いえ。また改めます」
足音が遠ざかっていく。
……何を言おうとしたんだろう。
夜。書斎で帳簿を閉じた。ろうそくの炎が小さく揺れている。窓の外を見た。
山の向こうに、星が出ている。静かな夜だ。
良い一日だった。仕事が楽しくて、成果が出て、認められて。リネットも少しずつ落ち着いてきている。チームが機能している。
——でも。
フェリクスが夕方に持ってきた報告書を思い出す。
「周辺領地からの情報です。王国の国境付近で、補給物資の動きがあるそうです」
補給物資の動き。物の動きには、人の動きが映る。
胃がわずかに軋んだ。朝は痛くなかったのに。
暗殺者は失敗した。スパイは味方に転じた。でも、王国が諦めたわけじゃない。
『脅威レベルの再評価を推奨。暗殺(失敗)、内部浸透(無力化)——次のフェーズは外交圧力、または——』
……わかってる。
今日みたいな日が、ずっと続くとは思っていない。
でも。
窓の外の星が、綺麗だった。こんなに星があるのに、ずっと気づかなかった。
明日も、あの帳簿の続きがある。
明日も——朝が、怖くないといいな。




