表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/36

第13話:朝日

 朝日が窓から差し込んだ。


 目が覚めて、天井を見た。白いしっくい。木目のはり。見慣れた部屋。


 ——あれ。朝が、怖くない。


 前世では毎朝、胃が痛かった。目覚ましの音で心拍が上がって、布団の中で今日のインシデント対応を想像して、胃液が込み上げた。


 王国でも、朝は憂鬱だった。起きた瞬間に「今日は何を叱られるだろう」と身構えていた。


 今日は、胃が痛くない。心臓が暴れていない。布団が温かい。体が、布団の中に沈んでいる。この重みが心地いい。窓の外から鳥の声がして、山の稜線に光が当たっている。


 起き上がった。足が軽い。


 廊下が、静かだ。モーリス家では、夜明け前から使用人の早足の音がしていた。私の部屋の前を通り過ぎる、あの忙しない気配がない。ここでは、朝が、ただの朝だ。


 『本日の予定:交易データの分析、午後にマルタへ月次報告。特記事項——リネットの件、経過観察を継続』


 ……予定を聞いても、嫌じゃない。


 なんだろう、この感覚。


 着替えながら、窓の外を見た。朝日が山の斜面を這い上がっていく。きれいだ。——こんなふうに立ち止まれるのは、いつぶりだろう。



 食堂に行くと、パンの焼ける匂いがした。マルタが窓際に立っていた。


「おはようございます、ユリア様。早いですね」


「おはようございます。帳簿の集計を朝のうちに済ませようと思って」


「朝食を摂ってからにしてください」


「……はい」


 相変わらず、この人の前では反論できない。


 食事をしながら、リネットが配膳を手伝っているのが見えた。お茶を注ぐ手が安定している。以前は、持ち手が微かに震えていた。まだ少し表情が硬いけれど、昨日までの恐怖の色は薄れている。目が合った。リネットが小さく会釈した。普通の挨拶だ。胸の奥が、じわりと温んだ。



 書斎に入ると、インクと羊皮紙の乾いた匂いがした。帳簿を広げた。先月の交易記録。数字が並んでいる。


 いつもの作業。でも、今日は少し、数字の並びが違って見える。


 公国本府からの交付金が入って以来、グレイシア領の交易量は上がっている。山岳地帯を通過する隊商の数が増えて、通行税の収入も安定してきた。帳簿の数字が、きちんと右肩上がりの曲線を描いている。


 ——この曲線、私が作った。


 いや。私だけじゃない。ノアの方針があって、フェリクスの書式整備があって、マルタの現場管理があって。でも、この交易データの分析と提案を出したのは、私だ。


 提案が通って、実行されて、結果が出ている。帳簿の数字に、私の仕事が映っている。


 前世では、インシデント対応の成果は「何も起きなかったこと」だった。何も起きないのが当たり前。何か起きたら私のせい。成果が見えない仕事。


 ここでは、数字が見える。


 『交易量の増加率:前月比12%。季節変動を考慮しても有意な増加。評価——』


 うん。知ってる。


 仕事が、楽しい。


 ——生まれて初めて。二回の人生を合わせて初めて、そう思った。



 午後。ノアの執務室で、月次の交易データを報告していた。


 テーブルに資料を広げて、隣り合って座る。数字の推移を指で追いながら説明する。


「この区間の通行量が特に伸びています。峠道の整備が効いたんだと思います」


「なるほど。東側の隊商ルートは」


 ノアが資料に身を乗り出した。指が、私の指のすぐ隣に来る。


 ——近い。


 肩が触れそうな距離。ノアの髪が視界の端に映る。石鹸の匂い。声が、近い。すぐ隣で話しているのだから当たり前なのに、声の振動が肩に触れるような距離が、不意にはっきりした。資料をめくるノアの指が、私の指のすぐ傍を通り過ぎた。指先に、かすかに空気が動いた。


 手が、一瞬止まった。


 『……近接アラート? いや、脅威ではない。味方の接近。問題なし』


 リスク管理脳が何か検知して、すぐ沈黙した。


 ——何だったんだろう、今の。


「ユリア様、この数字なんですが」


 ノアがこちらを見た。目が合う。近い。


 ——目。茶色じゃなくて、こはく色だ。光の加減で、金に近い色が混じっている。


 こんなに近くで見たことがなかった。いつも書類越しか、テーブルの向こう側にいたから。


 『……不要な情報です。業務に戻ってください』


「……何でもありません。東側のルートですが——」


 声が少し上ずった。気づかれていないといいけど。


 ノアは穏やかに頷いて、また資料に視線を落とした。気にしていない。よかった。


 何がよかったのかは、わからないけど。



 報告が終わって、廊下でマルタとすれ違った。


「月次の報告、完了しました」


「領主様は何とおっしゃいましたか」


「方針通りで問題ないと。東側ルートの拡張は次の四半期で検討すると」


 マルタが小さく頷いた。


「ユリア様。一つ、お伝えしたいことがあります」


「はい」


「あなたの仕事ぶりは、屋敷中が認めています。帳簿の精度が上がったこと、報告書の質が変わったこと。使用人たちも、気づいています」


 足が止まった。


「マルタさんは、褒めてくださるんですか」


「事実を述べています」


 事務的な声。でも、マルタの目が少しだけ細くなった。この人なりの、笑顔だと思う。


「良い仕事です、ユリア様」


 良い仕事。


 初めて聞く言葉じゃない。ノアに言われた。フェリクスにも言われた。


 でも、マルタの「良い仕事です」は、重さが違う。この人は、仕事の質に妥協しない人だ。その人が「良い」と言った。


「……ありがとうございます」


 声が、少しだけ詰まった。目が熱くない。泣きそうじゃない。ただ、胸の奥がじんわりと温かい。


 前世では「やって当たり前」だった。王国では「悪役令嬢のくせに」だった。


 ここでは、認めてもらえる。


 マルタが歩き出しかけて、立ち止まった。


「——それと、ユリア様」


「はい?」


 マルタの口が開いて——閉じた。珍しい。


「いえ。また改めます」


 足音が遠ざかっていく。


 ……何を言おうとしたんだろう。



 夜。書斎で帳簿を閉じた。ろうそくの炎が小さく揺れている。窓の外を見た。


 山の向こうに、星が出ている。静かな夜だ。


 良い一日だった。仕事が楽しくて、成果が出て、認められて。リネットも少しずつ落ち着いてきている。チームが機能している。


 ——でも。


 フェリクスが夕方に持ってきた報告書を思い出す。


「周辺領地からの情報です。王国の国境付近で、補給物資の動きがあるそうです」


 補給物資の動き。物の動きには、人の動きが映る。


 胃がわずかに軋んだ。朝は痛くなかったのに。


 暗殺者は失敗した。スパイは味方に転じた。でも、王国が諦めたわけじゃない。


 『脅威レベルの再評価を推奨。暗殺(失敗)、内部浸透(無力化)——次のフェーズは外交圧力、または——』


 ……わかってる。


 今日みたいな日が、ずっと続くとは思っていない。


 でも。


 窓の外の星が、綺麗だった。こんなに星があるのに、ずっと気づかなかった。


 明日も、あの帳簿の続きがある。


 明日も——朝が、怖くないといいな。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
プロの作家さんが書かれる文章はときに冗長で、ときにスパッと小気味良い。 対して貴作品の印象は短く纏めてあるので読み易く小気味良い。内容も私の好みです。ただ報告書みたいに感じます。 これは作家さんの個性…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ