第12話:許し
翌朝、ノアの執務室に向かった。
「リネットのことで、お話があります」
ノアは書類を置いた。仕事モードの目が、すっと穏やかさに戻る。
「お聞きします」
「彼女が——情報を集めている形跡があります」
沈黙。ノアは眉一つ動かさなかった。
「……知っていたんですか」
「マルタから報告がありました」
やっぱり。マルタは見逃さない。
「対処を協議するつもりでしたが、ユリア様が先に来てくださった。それで——どうしたいですか」
どうしたいか。
どうしたい、と聞いてくれる人がいる。「どう処分するか」ではなく「どうしたいか」。
「……泳がせるのではなく、助けたいです」
ノアの目が、少しだけ柔らかくなった。
「理由を伺っても」
「彼女は、強制されています。王国で罰を受けて、家族を人質に取られて——たぶん、断る選択肢がなかった」
言いながら、声が震えそうになった。堪えた。
「それと——彼女が罰を受けた理由は、私です。私がモーリス家を出たとき、リネットは見逃してくれました。それが発覚して、こうなった」
ノアは静かに頷いた。
「わかりました。ユリア様の判断を尊重します」
また。
またこの人は、迷わずに言う。
「ただ、一つだけ」
「はい」
「リネットの話を聞くのは、ユリア様にお願いしたい。彼女が心を開く相手は、あなたしかいません」
——私しかいない。
「あなたしかいない」。その言葉が、胸の奥に落ちた。重さではなく、何か、別のもの。
リネットを呼び出したのは、書斎ではなく庭だった。
屋内だと逃げ場がない。逃げ場のない場所で追い詰めると、人は嘘をつくか黙り込むか、どちらかだ。前世のインシデント対応で学んだこと。空が見える場所がいい。逃げ道があると思えるほうが、人は正直になれる。
中庭のベンチ。午後の日差し。花壇の花が風に揺れている。白い小さな花と、紫の背の高い花。名前は知らない。蜜蜂が一匹、花の間を飛んでいた。
リネットが来るまでの数分が、長かった。ベンチの木が日差しで温まっている。掌で触ると、かすかにざらつく。風がぬるい。花の甘い匂いが混じっている。こんな場所で人と向き合ったことがない。前世は会議室だった。蛍光灯と、白い壁と、味のしないコーヒー。ここは、空がある。
リネットが来た。足取りが重い。こちらを見る目が、怯えている。
「座って」
「……はい」
隣に座った。体が強張っている。膝の上に置いた手が、白くなるほど握られていた。
沈黙。花壇の花が風に揺れる音と、遠くで使用人が荷物を運ぶ声。
「リネット」
「……はい」
「あなたが王国から命じられていることは、わかっているわ」
リネットの体が、凍った。
呼吸が止まっている。顔が紙のように白い。目が見開かれて——恐怖。純粋な恐怖が、あの灰色の目に浮かんでいた。
「わ、私——」
「聞いて」
声を、できるだけ静かにした。追い詰めない。逃げ道を塞がない。
「あなたを責めるつもりはないの」
リネットの目が、揺れた。
「……え」
「強制されたんでしょう。妹さんたちのことがあるから、断れなかった」
リネットの唇が震えた。目の縁が、みるみる赤くなっていく。
「それは——裏切りとは言わない」
「でも、私は……お嬢様を裏切ろうとして——」
声が割れた。涙が頬を伝う。
「この屋敷のことを調べて、ノア様の執務室の場所を報告して——全部、私が——」
リネットの手が震えている。握りしめた拳が、膝の上で小刻みに揺れていた。
『被脅迫者を敵と見なすのは非効率。味方に転換した方が、情報源として——』
うるさい。
これはリスク管理じゃない。ただの——。
「……リネット。私も、あなたに助けられたことがある」
リネットが顔を上げた。涙で滲んだ目が、こちらを見ている。
「あの夜のこと。覚えてる?」
ろうそくの光。裏口の前。リネットの影が床に揺れていた。震える手がろうそくを握っている。廊下の冷たい空気。床が軋む音。そして、一歩。横にずれてくれた。あの瞬間。
「あなたは、何も言わなかった。声を上げれば、私は捕まっていた。でもあなたは——黙って、横にずれた」
リネットの目から、また涙がこぼれた。
「あれが、どれだけ怖かったか。わかるよ。——だって、私も怖かったから」
あの夜は、二人とも震えていた。
「だから——あなたのせいじゃない。あなたは、できる限りのことをしてくれた」
リネットが、両手で顔を覆った。肩が揺れている。声を殺して泣いている。声を出して泣くことすら——。
しばらく、隣に座っていた。何も言わなかった。言葉は、今は邪魔だ。
風が変わった。花びらが一枚、ベンチの上に落ちた。白い小さな花びら。リネットの膝の近くに。二人とも、それを拾わなかった。
遠くで鳥が鳴いた。木の葉が擦れる音。時間が過ぎている。どのくらい座っていただろう。五分か、十分か。二人とも黙っている。それが、許しの形なのかもしれない。
風が吹いた。花壇の花が揺れて、甘い匂いが流れてくる。遠くで木を切る音がする。日常だ。この庭の外では、いつもと同じ午後が続いている。でもこのベンチの上だけが、止まっている。
リネットの泣き声が少しずつ小さくなって、やがて、呼吸だけが残った。
「……お嬢様」
掠れた声。
「はい」
「私——全部、お話しします。王国から何を命じられたか。誰に報告していたか。全部」
「ありがとう」
リネットが目を拭いた。まだ赤いけれど、さっきまでの恐怖とは、違う目をしている。
「それと、リネット」
「はい」
「妹さんたちのことは、ノア様と一緒に考えましょう。ここは——あなたの家族も含めて、守る方法を考えてくれる場所だから」
リネットの顔が、また崩れた。今度は、恐怖ではなく。
「なんで……」
「え?」
「なんで、お嬢様は……私なんかに、そこまで……」
『回答案:合理的判断として——いえ。今回は私の出番ではありませんね』
……珍しく、空気が読めたじゃない。
「おせっかいなの。知ってるでしょう」
リネットの目が丸くなった。
それから、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。泣いた顔のまま、笑おうとしている。不器用な、引きつったような、でも確かな笑顔。
初めて見た。この子の笑顔。
胸の奥が温かくなった。目の奥が熱い。——泣きそうだ。泣かない。これはリネットの場面だ。
「……ありがとうございます、お嬢様」
今度は、唇の動きだけじゃなかった。
声が、ちゃんと聞こえた。
書斎に戻ると、フェリクスの走り書きが机に置かれていた。
「確認事項あり。お時間のあるときに、ご確認を」
今日は、もう、いい。明日にしよう。
前世では「休む」ことに罪悪感があった。今日は、今日くらい、いい。数字は明日も逃げない。
リネットの笑顔が、まだ瞼の裏に残っていた。あの不器用な、引きつった、でも確かな笑顔。あれを守れたなら、今日一日は良い日だった。
——ただ、リスク管理脳だけが、小さく警告を鳴らしていた。『一つ解決した直後が、最も警戒レベルが下がる。そこが——』
黙って。今日くらい、静かにさせて。




