第11話:籠の中
リネットを見ていた。
見張っていた、というほうが正確かもしれない。帳簿に向かいながら、廊下を通るリネットの足音を数えた。耳を澄ませて、足音の間隔を測る。前世のSOCで監視カメラの映像をチェックしていた日々と、やっていることが同じだ。自分で自分が嫌になる。
彼女は真面目に働いていた。洗濯、掃除、食事の配膳。マルタの指示を守り、他の使用人とも問題を起こさない。淡々と、黙々と。
ときどき、すれ違うと小さく会釈してくれる。おどおどしながらも、丁寧に。目の隈が、この屋敷に来た頃より深くなっている。手の荒れも。爪の先が赤い。その仕草を見るたびに、帳簿を睨む手が止まった。
——でも。
三日前。リネットが書庫の前で足を止めているのを見た。廊下は薄暗く、石壁が冷たい空気を放っていた。遠くで台所の鍋がぶつかる音がする。書庫は侍女の業務と無関係だ。扉を開けることはなかったけれど、二度、通路を往復した。
二日前。夕食後にリネットが中庭に出ていた。屋敷の裏手、ノアの執務室の窓が見える角度。花壇の手入れをしているふりだったが、暗殺者の庭師と同じだ。建物の構造を見ている動きと、花を見ている動きは、違う。
——見慣れた行動パターンだった。暗殺者の庭師を見抜いた時と、同じ目で観察している。手慣れた分析。冷たい視線。でも、その冷たさの奥で、何かが痛んでいた。あの子を、こんな目で見たくなかった。
昨日。マルタが何気なく言った。
「リネット、ずいぶん熱心ですね。他の使用人に、よくこの屋敷のことを聞いているようです」
聞いている。業務に必要な範囲を超えて?
『行動パターンの逸脱を確認。書庫前のうろつき、本棟への視線、過剰な質問。いずれも情報収集行動のパターンに合致——』
わかってる。
わかっているのに、胸の奥が重い。
その日の午後、廊下でリネットとすれ違った。
今度は向こうから足を止めた。
「……お嬢様」
お嬢様。「ユリア様」とは、呼ばない。モーリス家の頃と同じ呼び方。あの屋敷を引きずっている。
一瞬、迷った。声をかけたら、もう「知らないふり」はできない。でも、知らないふりをする選択肢は、最初からなかった。
「リネット」
名前を呼んだら、肩が跳ねた。
声のトーンを、できるだけ穏やかにする。追い詰めない。前世のインシデント対応で学んだ面談技術。でも今は、技術じゃなく。ただ、怖がらせたくない。
「こっちの生活には慣れた?」
「は、はい。皆さん、よくしてくださって——」
目が泳いでいる。言葉と視線が一致しない。「よくしてもらっている」と言いながら、まるで追い詰められた動物のような目をしている。
「何か困っていることがあったら、マルタさんに言ってね。この屋敷は、報告してもいい場所だから」
リネットの唇が、わずかに震えた。
「……ありがとうございます」
声が、掠れていた。
通り過ぎていくリネットの後ろ姿を見ていた。背中が小さい。あの夜と同じ、ろうそくを持って立っていたときと同じ背中。震えていた背中。
でも、あの夜の震えとは、質が違う。
あれは恐怖だった。これは——苦しんでいる。声にできない何かを抱えて、それでも歩いている。
廊下の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
夜。書斎で一人、考えた。
帳簿の数字は嘘をつかない。パンの消費量超過は、リネットが来た週から始まっている。洗い物の増加も同時期。
マルタの報告では、リネットは夜中に一度、廊下を歩いていたことがある。用を足しに行く途中だと説明したそうだが、その方向は執務室棟に向かう回廊だった。
『証拠の蓄積。行動パターン、物的データ、証言の三要素が揃いました。結論——』
リネットが、スパイだ。
文字にすると、胃の底に鉛が落ちた。
あの子は、あの夜、私を逃がしてくれた子だ。声にならない「ありがとうございます」を唇だけで言ってくれた子だ。ろうそくの光の中で一歩横にずれてくれた、臆病な小鳥。
でも。
小鳥だからこそ、籠から出られないのかもしれない。
前にマルタが言っていた。「妹が二人。王国に残してきた」。
——家族。
リネットの家族は、まだ王国にいる。もしリネットが命令に背いたら、妹たちがどうなるか。
スパイを送り込む判断をしたのは誰だ。おそらく、国庫管理官のガルド・フェルトンだろう。国庫と情報網を握る男。王国の書斎で「悪役令嬢ごとき」と嘲笑った声を、まだ覚えている。あの男なら、侍女一人の家族くらい、道具にする。
前世で見たことがある。内部不正の調査で、情報漏洩した社員を追い詰めたことがあった。調べてみたら、その人は借金を抱えていて、家族を人質に取られていた。最後に言った言葉を覚えている。「家族がいるんです」。あの声が、リネットの掠れた声と重なる。悪意があったんじゃない。逃げ場がなかったのだ。
『脅迫に基づく行動パターン。自発的な裏切りではなく、強制による行動。対処の推奨——』
……わかってるよ。
選べなかったのだ。リネットは。
あの子の「罪」は、私を逃がしたこと。私のせいだ。
私が逃げたから、リネットが罰を受けた。罰を受けて、水仕事に降格されて、手がひどく荒れて、それでも足りなくて、スパイとして送り込まれた。
家族がいるから、断れなかった。
断れば、妹が——。
拳を握った。指の関節が白くなった。
『感情的判断はリスクを増大させます。冷静に——』
黙って。
今は、分析じゃない。
リネットを捕まえて突き出すのは簡単だ。証拠はある。マルタの報告もある。フェリクスに渡せば、報告書はすぐできる。
でも、それで、リネットはどうなる。
捕まれば、王国に送り返されるか、ここで処罰される。どちらにしても、あの子の人生は終わる。妹たちも。
報告書を書けばいい。証拠を並べて、「対処しました」。それで終わり。
指が、動かなかった。
窓の外を見た。月が出ている。山の稜線が薄い銀色に光って、その下の森が黒い。美しい。美しいのに、その向こうで人が苦しんでいる。リネットの妹たちが。
指先が冷たかった。帳簿を握ったまま、しばらく月を見ていた。美しい光は、何も助けてくれない。
——泳がせる、のではなく。
助ける方法を、考えなければ。
『……推奨を変更します。リネットを敵と見なすのではなく、情報源として味方に転換する方が——』
違う。
情報源とかじゃない。合理的な判断じゃなく——ただ、助けたいのだ。あの子を。
その感情に、名前をつけられなかった。「おせっかい」とも違う、もっと切実な何か。
あの子は、私のせいで、ここにいるのだ。
朝になったら、ノアに相談しよう。
「泳がせる」ではなく「助ける」話を、あの人なら聞いてくれる。たぶん。
——たぶん、じゃない。
聞いてくれる。この場所は、そういう場所だ。




